南東方面 水上戦闘機隊


当時の南東方面の状況がわからないと、何をやっているのか判らないかもしれません。
当事の南東方面の状況を知るためには『ガダルカナル戦記』亀井宏著を読むことをおすすめします。

横浜航空隊 水戦隊

1942年6月3日
分隊長佐藤理一郎大尉の率いる水戦12機がラバウル到着。

1942年6月5日〜6月29日
ラバウル上空の哨戒の任務につく。
20日には敵5機が来襲、1機が攻撃をかけるも効果不明であった。

1942年7月始め
ツラギに進出。7月5日から哨戒開始。

1942年7月10日
B‐24 2機を迎撃,1機撃墜を報じた。

1942年7月17日
堀龍生一飛曹と辻正二郎二飛がB‐17 1機撃墜を報じた。
だが,堀一飛曹が被弾し戦死した。

1942年7月23日
松井三郎一飛が未帰還となった。

1942年7月31日
米11BGのB−17はこの日からガダルカナル上陸に向け連日の爆撃を開始する。

1942年8月1日、2日
連日B−17を迎撃、撃墜1機を報じた。
8月1日時点での二式水戦稼働機数、6機。伊澤保穂著『陸攻と銀河』より。

1942年8月3日〜7日
ツラギの水戦隊は敵のガダルカナル上陸時に全滅したため、日本側には以降の記録が残っていない。
しかし以下に示す通り、B−17 2機の撃墜が米側の記録より確認できる。
11BGのB−17は4日に二式水戦の体当たりによって1機を喪失。
「小林一等飛行兵機が、急降下態勢で攻撃に入った瞬間、ガソリンタンクに被弾した。糸を引くように白煙が流れた。と、そのとき敵機に吸い込まれるように突っ込んでいく小林機の機影が目撃された。「あっ」と息を呑む瞬間、巨大なB−17の機体が木っ端微塵に吹き飛んだ。(中略)自ら迎撃に参加した佐藤大尉が、愛機から降りるや否や開口一番「バカヤロー、体当たりなんかしやがって」と小林一等飛行兵曹の戦死を、涙を浮かべながら叱責した。」(宮川政一郎著、タナンボコ島横浜航空隊玉砕の日より)

5日にも二式水戦の攻撃により1機を失っている。
7日にも1機が未帰還となっており、マーチン・ケーディンは『B−17 空の要塞』に、日本機によるものと日本側の記録で確認できると書いている(しかしこれはラバウルを空襲して失われた19BGのB−17のことを指すのではないかと思う)。(と思ったりもしたが、朝偵察に出たB−17 Eが未帰還となった書いており、ラバウル空襲で失われたB−17とは異なるようだ、伊沢氏も秋本実氏も水戦によると書いているが、早朝壊滅した水戦隊に撃墜する機会があったのかどうか?)(
この7日,アメリカ第1海兵師団がガダルカナル島,ツラギ島に上陸し、ツラギの横浜航空隊は全滅した。
当日の様子をエドウィン・P・ホイト『ガダルカナルの戦い』はこう書いている。
「ガビュツの水上機基地を攻撃した。完全な奇襲攻撃だった。アメリカの飛行機は水上に浮かんでいる日本の飛行機を爆撃し、また機銃帰射した。零戦と同型のフロート付きの飛行機九機と川西の四発の飛行艇一機、それに偵察・爆撃用の複葉の水上機八機を破壊した。
数人の日本の操縦士が飛ぴ立とうとしたが、その前に撃ち殺された。ガビュツの日本の飛行機は全部破壊された。」

前述の「タナンボコ島横浜航空隊玉砕の日」によると、破壊を免れ、地上の兵士自らの手で破壊せねばならなかった水戦1機があったという。

1942年8月26日〜9月1日
ショートランドで小藤久輝飛曹長指揮下に横浜空の水戦2〜4機が哨戒を実施している。
その後横浜空より水戦隊は削除され、水戦隊員はショートランドに進出してきた神川丸の水戦隊に吸収されたようです。

横浜空水戦隊 搭乗員 判明している方のみ (順不同)[]内は戦死した日付 階級は当事のものです。
佐藤 理一郎 大尉(兵64)[42/08/]米軍のガダルカナル進攻による。
平橋 読千代 飛曹長(乙3)[生存]
河村 敏夫 三飛曹(乙10)[42/08/]米軍のガダルカナル進攻による。
真田 実 一飛曹(甲3)[42/08/]米軍のガダルカナル進攻による。
小西 修 三飛曹(乙10)[42/08/]米軍のガダルカナル進攻による。
野村 昇 二飛曹(甲4)[42/08/]米軍のガダルカナル進攻による。
辻正二郎二飛(丙3)[おそらく42/08/]米軍のガダルカナル進攻による。
堀 龍生 一飛曹()[42/07/17]ツラギ
松井三郎一飛()[42/07/23]ツラギ
小林一等一飛(曹?)()[42/08/04]ツラギ
小藤 久輝 飛曹長(乙5)[42/11/7]ソロモン 神川丸

R方面航空部隊所属 水戦隊

1942年 9月4日
神川丸の二式水戦11機がソロモン群島ブーゲンビル島南方のショートランドに到着した。翌日基地をイザベル島東岸レカタ(ショートランドとガダルカナルのほぼ中間地点にあります)に決めることになる。(2003/03追記 これは私の読み間違いです、前進基地としてレカタを使用するという事でした)
前月にツラギで全滅した横浜航空隊に続く南東方面で2番目の水上戦闘機隊である。
搭乗員は分隊長小野次朗大尉以下11名(2003/04/23 11名より訂正、私の読み間違いです。
さっそく、同日午前B-17 1機を攻撃するなど、活動を開始した。
翌日には基地上空哨戒(5回)と哨戒艇上空哨戒(2回)と活発な活動を開始する。
2002/9/17追記
戦史叢書南東方面海軍作戦によると、進出目的は水偵の援護のためとなっている。

1942年 9月6日〜12日
連日哨戒、水上機援護、の任務につく。
7日午前小野次朗大尉以下4機が基地上空8,000mに11BGのB−17 1機を発見追撃(追いつかず)。
12日にはマライタ島の敵飛行場を偵察し非存在を確認した。

1942年 9月13日
レカタ攻撃の11BGのB17 1機を小野大尉機が攻撃,銃故障などで効果を与えられなかった。
午後川村万亀夫飛曹長と川井次郎一飛曹はガダルカナル島の飛行場および日本軍(川口支隊)の偵察を行ない,1730(現地時間)高度150メートルでヘンダーソン飛行場へ進入、着陸しようとしていたF4F1機を川村飛曹長が撃墜した。
米側記録によると海兵隊のSBDで、操縦者、銃手とも戦死した。
川村飛曹長らは偵察任務をも完遂した。すなわち「飛行場は敵使用中、場内装甲車、B−17 4機、其の他飛行機あり。飛行場北端にて熾烈なる地上砲火を受く、陸戦状況不明なり」と。

1942年 9月14日
レカタでB-17 1機を水戦5機が迎撃,うち川井次郎一飛曹が一撃をかけて撃破した。その直後0600にレカタを発進した川島政中尉,川村飛曹長,大山敏雄二飛曹はガダルカナル飛行場偵察に向かったが,VF−5のF4Fに攻撃され全機末帰還となった。
前日は夕闇に紛れての侵入で成功したが、今回は完全に夜が明けてからの偵察行でいささか慎重さに欠けていたかもしれない。
午後この損失を受けて水観隊19機によるガ島爆撃が行われた。
水戦2機が援護に出撃。ガダルカナル島の飛行場南方でF4Fと交戦、 大村松太郎二飛曹が撃墜され、小野大尉がこのF4Fの撃墜を報じた。
米側記録では海兵隊と海軍のF4Fが1745サボ島付近で9機の零観を撃墜した、とあります。
この大村二飛曹が戦死した状況は小野彰久氏(改名されたのだと思います)自身の手記がありました(Giftzwerg様に教えていただきました)から紹介します。
潮書房刊 丸エキストラ戦史と旅30号収録の「ガ島をめぐるショートランド水上機隊の血戦」2002/09現在入手可能なはずです。
「左下方に小さく機首を真下にして、旋回しながら落ちて行く二番機の姿が見えた。
かすかに白煙をひきながら吸い込まれるように、
タサファロングの背後の山中に消えた。
と思った瞬間、パッと火柱がたち昇って、メラメラと山の闇を照らして紅蓮の炎を燃やした。」


1942年 9月15日〜10月4日
16日、24日、25日、26日、27日,29日,10月4日とB-17を迎撃、幾度かの撃破を報じた他、26日には丸山一飛がB-17 1機の撃墜を報じている。
水戦隊にも損害は出ている、24日に桑島良三一飛機が被弾モノ島に不時着し重傷を負っている。
迎撃した搭乗員の名には川井一飛曹、丸山一飛、小野大尉、桑島一飛の名があります。
米側記録では29日ショートランドの艦船を攻撃した11BGのB-17 1機が失われているが、この日水戦隊は特に戦果を報じていない。

9月16日時点でのR方面航空部隊保有機、水戦5、零観19、零偵3。
10月5日時点でのR方面航空部隊保有機、水戦5、零観12、零偵9。

1942年 10月9日
ガ島への輸送任務につく水上機母艦日進の上空哨戒を水戦3機(小野大尉,小藤久輝飛曹長,西山二飛曹)、零観1機が行った。
来襲したSBDやP39と交戦、報じられた撃墜は、小藤飛曹長がSBD1機,1機不確実。西山二飛曹がP−39を2機です。
この敵は339FGのP-39などのようで、P-39は複葉水上機1機の撃墜を報じています。

1942年 10月10日
早朝,軽巡竜田,第15駆逐隊上空を哨戒中の川井次郎一飛曹,丸山一飛は来襲した敵機約35機と交戦、他に在空の零観2機と共に、2人共帰還しなかった。
駆逐艦から4機以上の撃墜が認められている。
2機の内1機は敵戦闘機に対して体当たりを敢行するのが、落下傘降下中の零観搭乗員により確認されている。
米軍のF4Fは10機の水上機の撃墜を報じている。

この時点でのR方面航空部隊には、水戦、零観共稼動機無しとなった。

今回の輸送部隊直援任務について。
R方面航空部隊は増援部隊指揮官より以下の感謝電を受け取った。
「増援部隊輸送任務に当たり連日敵機来襲に際し時期を逸せず必ず上空直衛を配し勇戦奮闘多数を撃墜し被害大なからしめつつあるは隊員一同斉しく感謝に堪えざる所なり 加ふるに夜間揚陸中も上空制圧飛行場攻撃を連続実施せられ我揚陸作業に貢献する所絶大なるものあり、此処に深甚なる謝意を表し併せて今後共変わらざるご協力を切望す。」

1942年 10月12日
14空水戦隊の二式水戦9機,搭乗員 分隊長後藤英郎大尉以下10名がショートランドに進出してきた。
(2003/03 訂正 進出地をレカタからショートランドに訂正)。
以降注釈のない限り14空の搭乗員と考えてください。
神川丸の搭乗員の場合には神川丸と書きます。

1942年 10月13日
ショートランドにおいて五十嵐敏雄中尉と奥山穂二飛曹の2機がB−17 5機(11BGのB17 6機、ブカ島とトロネイ港の艦船攻撃に来襲)と交戦撃破。続いて発進した南義一飛曹長が1機不確実撃墜を報じた。
しかし、五十嵐中尉が落下傘降下、大火傷のため翌日死亡した。
(2003/03追記 五十嵐中尉が撃墜された日付は行動調査書によると10月10日となっています、南飛曹長が不確実撃墜を報じたのは上述の通り13日です、14空の進出日時や戦闘状況からみても伊沢氏の著作に記述してある13日が正しいと思われます)。

1942年 10月17日
VS−71のSBD1機がレカタに偵察に来襲,(輸送部隊上空哨戒中の)4機のうち地頭久雄三飛曹が撃墜した。SBDの操縦士と銃手は米軍に救出されている。
夜、哨戒を終えて着水した奥山二飛曹が転覆し,病気にかかり戦列を離れた。
(2003/03 追記 奥山機は被弾しているようなのでSBD攻撃時に被弾したのかもしれません、哨戒を終えるまで飛行していたところからみても致命傷ではなかったのでしょう)

1942年 10月19日
午後,増援部隊上空警戒 南義一飛曹長,萩原貞徳二飛曹,地頭三飛曹及び神川丸の桑島一飛がB−17 5機と交戦。
南飛曹長が1機を撃墜,萩原二飛曹は被弾不時着水、千歳の零観に救助された。

1942年 10月20日〜29日
特記事項のない日でも毎日数回の出撃を繰り返している。
(レカタに向かう零観の護衛、上空哨戒、ファラ島の偵察など)

1942年 10月30日
0305(日本時間)レカタにF4F6機,SBD2機(機数は日本側観測)が来襲、迎撃に水戦4機が発進、地頭三飛曹が2機撃墜を報じたが、後藤大尉機が被弾のため修理不能、神川丸 渡辺輝男一飛が未帰還となった。
松山英二一飛曹はそのまま二七駆逐隊の上空哨戒任務についた。
0515(現地時間)レカタにてVMF212のF4Fが二式水戦3機水上機2機の撃墜を報じているのがこれに当たるようだ。

1942年 11月1日
14空は802空と改称される。

1942年 11月3日
増援部隊上空哨戒の帰途第2小隊の水戦3機(松山上飛曹,萩原一飛曹、神川丸 松本飛兵長)がB−17を発見攻撃し撃破を報じたが、松本飛兵長が被撃墜戦死した。

1942年 11月5日〜11月7日
連日増援部隊上空哨戒、7日午後、水戦6機全機が未帰還となる、戦死者 神川丸 小藤久輝飛曹長、802空後藤英郎大尉,萩原貞徳二飛曹,地頭久雄二飛曹,近藤治郎二飛曹,溝口一飛長。
この日の空戦の模様は邦訳されているVMF121の指揮官フォスの手記によりわかる。
二式水戦は接敵行動をとるF4Fに気づかず、6機編隊を組んだまま輸送船団にむけて徐々に高度を下げながら北上中に、後方より奇襲を受けた。
(直衛する船団上空に到着直後であり、船団の方に注意が向いていたのかもしれないと想像する)。
5機撃墜のエースCecil J Doyle少尉は水戦を追い低空に降りて追撃していったまま行方不明となった。
又零観の偵察員の射撃により指揮官のジョゼフ・フォスが不時着水した。
フォスの手記を見ても5つの落下傘が視認されており、生存者がいると判断されたのだろう、翌8日延べ6機の水偵が3次に渡りレカタ基地を発進、搭乗員の捜索を行ったが、残念ながら手がかりは得られなかった。

神川丸の活動可能な搭乗員数がいなくなった。
802空も又、南義一少尉が病気で活動できず、松山英二上飛曹と大島新吉上飛のみが残った。
12月13日には神川丸水上戦闘機隊が解隊に至る。

1942年 11月12日〜12月13日
この間の出撃回数42回,松山上飛曹35回,大島上飛40回で,主にショートランド上空哨戒にあたった。

11月15日ショートランド上空哨戒中B−24を発見攻撃をかけたが雲中に逸した。
なお大島上飛の名前が行動調書に出てくるのはこの日が最初となります。
11月18日初来襲の339FS(山本五十六長官機を撃墜した部隊)のP−38の掩護下にB−17とB−24がブイン沖の艦船攻撃に来襲、爆撃後のB−17に対して攻撃、撃破2機を報じた。
零戦も迎撃を行っており、B−17 1機が零戦の攻撃により被弾不時着水している。

12月10日午前にはB−17 11機(AirSoPac[AirCraft, South Pacificの略])とP−38 3機(339FS)と交戦し(機数は日本側観測),大島新吉飛長はP−38 2機(内1機は不確実)を撃墜した。
米側記録では339FSのP−38が零戦3機、二式水戦2機の撃墜を報じている。

1942年 12月19日
午後ショートランドの艦船攻撃に来襲したB−17 7機(AirSoPac),P−38 8(339FS)機を要撃(機数は日本側観測)、高位から攻撃し,松山英二上飛曹はP−38を1機撃墜し,大島飛長はB−17編隊に対して2撃を加えた。
米側記録では339FSのP−38が零観2機の撃墜を報じている。

1943年 1月5日
午後,哨戒中の松山上飛曹,大島飛長は、ブインの艦船攻撃に来襲したB−17 5機(AirSoPac),P−38 7機(339FS)を発見(機数は日本側観測),松山上飛曹がP−38 1機を撃墜の後,零観と戦闘中の他のP−38 1機を協同して撃墜。
一方大島飛長は2撃でP−38 1機を不確実撃墜後,他の3機と交戦、被弾炎上、落下傘降下した。
その他に零観5機がP−38 3機撃墜を報じ。零観2機が不時着している。
339FSのP38は零観3機撃墜を報じ、P−38 2機を失っている。

1943年 1月7日
2002/9/17追記
この日ブインを攻撃したB-17とレカタを攻撃したB-26のうち2機が失われている。
ケーディンの『双胴の悪魔 P‐38』に零観によってB-26が撃墜されたとの記述があるのだが(日時不明)この日のことだろうか?。
水戦には直接関係ないが、私自身の覚書として書いておく。
(03/02/10追記、状況的にこの日のことだろうと思われます、339FSのP−38はB−26と合同できず、多数の零観に襲われたB−26のうち1機が撃墜され、またB−17とも途中ではぐれB−17 1機が撃墜されている。

802空水戦隊への増援の編成と派遣
12月20日横空で横山岳夫中尉以下15名の増援部隊が編成された。
12月31日国川丸に水戦6機と共に乗り横須賀を出発、機関故障のため国川丸はトラックへ寄港、1月5日搭乗員のみ飛行艇でショートランドに到着。時期は今の所不明ですが、修理を終えた国川丸によって機材も遅れて到着した。
(雑誌丸掲載の山崎圭三氏の手記より)。

1943年 1月14日
増援の水戦搭乗員が活動を開始した。
雑誌丸掲載の山崎圭三氏の手記によると、常時2〜3機で上空哨戒、ほかは即時待機、見張りのある本島の司令部から警報によってただちに飛びあがる態勢であったそうです。(つまりこの頃はショートランドを根拠地としていたということか、2003/03追記そういうことでした)。

1943年 1月18日
午後バラレ飛行場及びショートランドの艦船攻撃に来襲した敵機を9機で迎撃、砂見慶治二飛曹と皆沢稔飛長がそれぞれ1機づつ撃墜したが、2人共被弾落下傘降下,皆沢飛長が降下中にP−39に銃撃され戦死した。

米側記録では、347FGのP40が二式水戦2機撃墜を報じ、1機を損失している。
(2003/02/26追記、交戦したのは2機のみだったようで、他の7機は会敵に失敗している、少数機でよくぞといった感じがします)。

1943年 1月20日
朝、山崎圭三中尉以下5機が発進し,B−17 9機とP−39 4機を攻撃し,石田信二上飛曹がP−39を1機撃墜した。
米側記録ではブーゲンビル南方の駆逐艦攻撃にB−26が来襲、347FGのP38とP40が零戦3と零観3を撃墜と報じ、1機を失っている。

1943年 2月2日
午後,上空哨戒中の10機が来襲敵機を攻撃,秋月清二飛曹が落下傘降下して零観に救助された。
米側記録では347FGのP38とP40が零戦4、二式水戦2機の撃墜を報じている。

1943年 2月13日
1020(日本時間)来襲した敵戦爆連合を水戦11機、零戦33機、零観(三号爆弾携行)7機で迎撃,水戦隊はB−24 2機撃墜(内1機不確実)を報じた,撃墜確実機は砂見二飛曹がコロンバンガラ島まで追撃、搭乗員の落下傘降下を視認しています(2003/03追記 この情景は零戦隊側の手記にも見られるため、この撃墜は重複してカウントされているようです)。
山崎圭三中尉はP−39 1機を不確実撃墜(2003/03追記 行動調書の部隊の戦果欄にはP−39、個人の戦果欄にはP−38と記述されている),大島飛長はP−38 1機を撃墜し,粟田勝司二飛曹と古内秀二 二飛曹は被弾のため不時着した(生存)。
長田延義上飛曹と本多慎吾飛長はこの不時着機の捜索に出かけてB−24 1機を発見し,空戦して不確実撃墜を記録した。
(2002/02/25追記 なおこの日の山崎中尉のP−39の不確実撃墜であるが、802空の部隊としての戦果欄にはP-39,山崎中尉の個人戦果欄にはP-38と記載されている、どちらかが誤記だと思われる又粟田機と古内機の不時着と長田機と本多機の捜索出撃は行動調書に記載が無いが、私の見落としもしくは伊沢氏独自の調査の結果判明したことだと思われます)。
日本側全体ではB−24 3機、P−39 4機、P−38 3機撃墜を報じ、零戦2機自爆(204空の山本一二三 飛兵長、252空の高野幸太郎 二飛曹)、3機被弾の損害を出した。
米側記録、この日ブインを発進した零戦隊の迎撃を受け、B−24 3機、P−38 4機、P−40 2機を損失している。

1943年 2月14日
敵戦爆連合を水戦10機、零戦31機、零観4機が迎撃。
副島良三二飛曹と本多飛長がB−24 1機を共同撃墜,砂見二飛曹がP−40 1機を不確実撃墜,全機協同でB−24 1機を撃墜した。

日本側全体では、B−24 2機を含む21機の撃墜を報じ、零戦1機が自爆(252空の吉田善男 二飛曹)する損害を出した。
米側記録、この日もブインから発進した零戦隊の迎撃を受け、初登場のF4U2機の他、P−38 4機、PB4Y 2機など合計10機を失い、血のセントバレンタインと呼ばれた。

この日以後しばらく(おそらく4月18日まで?)昼間の空襲は無くなった。
3月13日802空水戦隊13機はマーシャル群島ヤルート島の本隊に合流のためショートランドを後にした。

その後の802空水戦隊
イミエジに到着したのは5日後の18日です。
ここでの主な任務は上空哨戒、対潜哨戒でした。
8月下旬から10月1日までギルパート諸島マキン島にも進出しています。
7月になると、長期間南東方面での勤務が続いた搭乗員たちも、内地に帰してもらえる者が出てきます。
7月〜10月にかけて、松山上飛曹、大島飛長,古内二飛曹,満岡二飛曹、本多飛長、横山大尉、平野上飛曹、秋月二飛曹、粟田二飛曹が内地に帰還します。

10月15日付けで802空より水戦隊は削除されることとなり、10月20日山崎中尉以下水戦7機と二藤忠少尉以下整備員14名はトラックの902空に編入され、トラックへ向った。(902空の水戦隊については中部太平洋方面水上戦闘機隊に書いてあります。)

総括
ソロモン方面における、神川丸水戦隊の出撃回数211回,出撃延機数は360機,9月4日から10月12日までの個人出撃回数は川井次郎一飛曹43,渡辺輝男一飛41,小藤久輝飛曹長39,小野次朗大尉36,丸山一飛33回,撃墜数は確実14,不確実1,戦死・行方不明は9名でした。
ソロモン方面における、802空(14空)の戦果は撃墜13機,協同撃墜1機,不確実撃墜8機,損失は直接戦闘によるものは13機,戦死は7名でした。

南東方面を去った水戦搭乗員の多くはその後戦闘機に転科、そのほとんどが、太平洋戦争を生き残ることはありませんでした。

神川丸水戦隊 搭乗員 判明している方のみ (順不同)[]内は戦死した日付 階級は当事のものですが、42年の11月に進級がおこなわれており多少ずれがあります。
小野 次朗 大尉(兵64)[生存]
川村 万亀夫 飛曹長(乙4)[42/9/14]
川井 次郎 一飛曹()[42/10/10]
川島 政 中尉(兵67)[42/9/14]
大山 敏雄 二飛曹(甲4)[42/9/14]
大村 松太郎 二飛曹()[42/9/14]
丸山 滝雄 一飛(丙3)[42/10/10]
桑島 良三 一飛()[44/12/21 T301(瑞雲)]
小藤 久輝 飛曹長(乙5)[42/11/7]
西山   二飛曹()
渡辺 輝男 一飛(操56)[42/10/30]
松本 正明 飛兵長(丙3か4)[42/11/3]

第14航空隊(第802航空隊)水戦隊 搭乗員 判明している方のみ (順不同)
進出時メンバー
後藤 英郎 大尉(兵66)[42/11/7]
五十嵐 敏雄 中尉(兵68)[42/10/14(前日の火傷による)]
奥山 穂 二飛曹(甲5)[生存]
南 義一 飛曹長(乙2)[44/10/29 マニラ 254空]
地頭 久雄 三飛曹(操49)[42/11/7]
萩原 貞徳 二飛曹(甲5)[42/11/7]
松山 英二 一飛曹(甲3)[45/8/14 琵琶湖上空 601空]
近藤 治郎 二飛曹(甲6)[42/11/7]
溝口 一 飛長()[42/11/7]
大島 新吉 上飛(丙4)[44/6/15 那覇201空(事故)]
増援メンバー
横山 岳夫 中尉(67)[生存]
砂見 慶治 二飛曹(操51)[生存]
皆沢 稔 飛長(丙3)[43/1/18]
山崎 圭三 中尉(兵68)[生存]
石田 信二 上飛曹(甲1)[44/5/29 ビアクS311]
秋月 清 二飛曹(甲6)[生存]
粟田 勝司 二飛曹(甲6)[44/3/31 ペリュリュー263空]
古内 秀二 二飛曹(甲6)[45/2/16 関東 筑波空]
長田 延義 上飛曹(操35)[45/5/14 沖縄 S303]
本多 慎吾 飛曹(丙4)[44/10/26 ミンドロ島 輸送機上 S303]
副島 良三 二飛曹(乙11)[生存]
平野 三一 上飛曹(操44)[生存]
早瀬 里之 二飛曹(乙11)[生存]
満岡 三郎 二飛曹(乙11)[45/1/4 マルコット銃撃による 341空]
成田 八郎 飛長(丙3)[生存]
43年6月ヤルートにおける集合写真に見られるメンバー
小山 輝雄 一飛曹(丙7又は8)[44/1/10 モートロック島 事故] 902空
堀之内 義宗 上飛(丙7又は8)[44/7/8 サイパン S316]
鈴木 義男 上飛曹(操49)[44/2/17トラック]

2002/09/08追記 川崎まなぶ様より搭乗員名や消息の追加情報をいただき訂正しました(小藤、丸山、松本、粟田、成田、平野、各氏について)、またゼロ様より大島氏、奥山氏、石田氏の消息についての情報をいただきました。
2003/01/18追記 川崎まなぶ様より平野氏の出身期及び消息について情報をいただきました。
2002/02/25日追記 吉良様より桑島氏の消息について教えていただきました。
2002/03/10日追記 吉良様より辻氏の出身期について教えていただきました。
2003/12/21日追記 吉良様より渡辺氏の出身期について教えていただきました。
川崎様、ゼロ様、吉良様どうもありがとうございました)。


その他の参考文献
『南東方面海軍作戦<2>』
『日本海軍戦闘機隊』秦郁彦 監修
『第二次世界大戦のワイルドキャットエース』パレット・ティルマン
『AIR WAR PACIFIC CHRONOLOGY』ERIC HAMMEL
「R方面航空部隊のゲリラ作戦」多田篤次
「ガ島をめぐるショートランド水上機隊の血戦」小野彰久


変更履歴
2002/09/01
横浜航空隊の水戦隊の項目を追加してショートランド水上戦闘機隊を南東方面 水上戦闘機隊に改題。
神川丸、802空に水戦隊の項目も、多少変更。

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