本土方面水上戦闘機隊


本土方面で戦った日本海軍の水上戦闘機隊について紹介します。
このページは伊沢保穂氏の「日本海軍水上戦闘機隊」に全面的に依存しています。

父島における水上戦闘機隊

1944年6月22日
佐世保を出発した平野三一飛曹長以下10機が横須賀経由で、同月末父島に進出した。

1944年7月4日
米機動部隊機の空襲が父島及び硫黄島に行われた、水戦は直井輝行上飛曹以下9機が迎撃を行い、未帰還機4機を出し稼動機は2機に減少した。
VF(N)-75のF4Uが二式水戦7機撃墜を報じている(John W.DEar,Jr中尉が3機、Fred L.Dungan中尉が4機)迎撃した水戦は わずか2機の夜戦型ヘルキャットに叩きのめされた、米軍側からみたこの空戦の様子は渡辺洋二氏が「夜のヘルキャット」(『大空の攻防戦』収録)において紹介されています。

下記の手記を読む限りでは多数のF6Fに叩かれたようにも見えます。
「明けそめた東の空を見上げたとき、敵戦闘機グラマンの大編隊が、まあ、来るわ、来るわ、ものすごい爆音をと射撃音である。(中略)水戦隊の格納庫前のエプロンでは、佐世保空の二式水戦全機がエンジンを始動していて、すでに水上滑走しているものもある(中略)上空千メートルぐらいの高度で、佐世保空の水戦と敵機が猛スピードでわたり合っている。しかし多勢に無勢水戦がつぎつぎに落とされるのを見て、思わず強くこぶしを握りしめた。同期の坂一飛曹はどうなったかと、気がかりであった。」以上『予科練の群像』収録の小松島空父島派遣隊水偵搭乗員、横尾久喜氏の手記より

未帰還者のうち、八郷勲一飛曹は 遺体が流れついて収容された。
戦果も報じられた。
直井上飛曹がF6Fを1機撃墜,2機不確実撃墜を報じた。
父島方面特別根拠地隊戦闘概報によれば水戦による確実撃墜2機と記されている。
水戦と戦ったF6F2機とも手酷く被弾したことがこの戦果の証拠であるが、頑丈なF6Fは被弾にもかかわらず帰還している。
以上「夜のヘルキャット」「日本海軍水上戦闘機隊」及び「戦史叢書 本土方面海軍作戦」より。

1944年8月5日
横空からの水戦の空輸が行なわれ補充されたが,B−25の低空来襲で地上で炎上して可動機は減少していた所を,この日の艦載機延べ400機の空襲で出撃できないまま可動0となった。

1944年8月5日以降
搭乗員は中攻で木更津に帰還した。
その後佐世保に戻り、中国方面からのB‐29を迎撃を行ったこともある。

鹿島空 水戦隊

B−29の迎撃
横須賀空と共に,水戦搭乗員の練成を行ってきた鹿島空の水戦隊は、
B−29の迎撃も行っているが戦果はなかった。

1945年2月16日
この日、米機動部隊が関東域に対して大規模空襲をかけてきたため迎撃が行われた。
柳原大尉,砂見慶治上飛曹,成田八郎上飛曹の3機が発進、会敵せず、陸軍機に誤認されて1機が被弾した。
続いて池田一夫上飛曹と瀬戸幸雄上飛曹の2機が発進、F6F編隊を攻撃,池田上飛曹が1機を撃墜、瀬戸上飛曹が撃墜されて基地の滑走台の近くに墜落し戦死しました。

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