ある戦歴


水上戦闘機搭乗員 大島新吉さんは
丙飛4期の出身、元は整備兵だったらしいです
丙飛戦死者名簿や横須賀鎮守府の資料では「大嶋新吉」となっています。(注1)
以降この項では大嶋新吉と記述させていただきます。
昭和17年7月に飛行練習生を卒業しています。(注2)
前線に出たのは14空(昭和17年11月1日以降は802空と改称)の
水上戦闘機搭乗員としてでした。
10月13日以降出撃を開始した14空ですが大嶋上飛が出撃することは
ありませんでした。
これについてその理由の説明となるかもしれない記述が戦史叢書にあります。
「水戦は新機種のために搭乗員のソースが少なく、未熟者が多かったようで
、その後補充された者はすぐには任務行動に使用できず、作戦の合間をみて
訓練を実施した。」
(注3)
仮に未熟者だとみなされていたとしても、大嶋飛長の出番はすぐにやってくることになります、
未熟者との評価(をされていたのかどうかは判然としませんが)を実戦で
撥ね返すことになります。
初陣となったのは昭和17年11月15日のB-24の迎撃でした。
当時802空は戦死者と病のため実働搭乗員は大嶋飛長を含めわずか2名
に減少していました、ショートランドを基地とした防空任務に、
わずか1機、もしくは2機での出撃を連日繰り返すことになります。
南東方面における大嶋飛長の出撃回数は96回に及びます。
11月18日にはショートランドに来襲した B-17とP-38を迎撃、B-17を撃破
12月10日B-17,P-38 を迎撃、B-17と交戦中上空より攻撃して来た
     P-38に対し応戦 大黒煙を吐かしめ撃墜(1番機目認)
     つづいて上方より攻撃して来たP-38 1機を攻撃、接近して
     一撃、右発動機から多量の白煙噴出させ不確実撃墜した。
12月19日B-17、P-38を迎撃、B-17に対して計4撃を加え続いてP-38
     に対し前上方より一撃を加えたが撃墜には至らなかった。
翌昭和18年1月5日 B-17,P-38を迎撃、P-38と格闘戦に入り、1機を
     不確実撃墜、更に他の3機と交戦中、被弾炎上し、落下傘降下
     山陽丸観測機に救助された。
1月17日から増援搭乗員が作戦を始め、大嶋飛長の負荷は幾分軽くなったはずです。
2月13日には迎撃戦闘で P-38を1機撃墜、出撃全機共同でB-24 2機撃墜(内1機不確実)します。(注4)
3月13日802空水戦隊13機はマーシャル群島ヤルート島の本隊に
合流のためショートランドを後にしました。
3月18日以降イミエジ基地において上空哨戒、対潜哨戒の任につき。
7月〜10月にかけてのどの日かに内地に帰還します。(注5)
そして陸上戦闘機への転換訓練を受けるのですが、
休む間もなく前線への再出撃はすぐにやってきました。

昭和19年2月17日大嶋一飛曹は204空の搭乗員として、
トラック島に来襲する米機動部隊の大編隊を迎撃、幾度かの出撃でF6Fを
5機撃墜しますが、
機体は大破し、軽傷を負います。(注6)
204空は解隊され、201空の所属となった大嶋上飛曹に最後の日が
訪れることになります。
ただその最後の様子は判然としません。
201空の行動調書には以下のような記述があります。

19/06/15 那覇 那覇基地上空哨戒
1730 零戦6発進
1940 零戦4帰着
零戦2海上不時着
□ 森井宏 大尉
大島新吉 上飛曹 海上不時着戦死
向井正道 飛長
△ 野田徳晴 上飛曹
佐藤全徳 上飛曹 海上不時着戦死
池田忠 一飛曹
また「201空の部隊史」には海上不時着戦病死との記述されています。(注7)

薄暮の海上で何があったのでしょうか、
今はただ大嶋新吉さんを偲び冥福をお祈りしたいと思います。


(注1)名前、及び出身の情報は吉良氏に教えていただきました。
お礼申し上げます。
(注2)『日本海軍戦闘機隊』より
(注3)戦史叢書 南東方面海軍作戦<2>の神川丸戦闘詳報を元にした記述
、当時14空は神川丸の指揮下に作戦していた。
(注4)「802空行動調書」より
(注5)『日本海軍水上戦闘機隊』伊澤保穂著より
(注6)「204空行動調書」より
     大嶋上飛曹の総撃墜機数は不確実撃墜、協同撃墜を含め11機となる。
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