1944年1月
南西方面で戦った934空のアンボンにおける戦闘詳報は内地に届かなかったようで、そのため行動調書の記載も敵機との交戦があったことや戦果は記載してあっても、誰が出撃したかなどの詳細な情報は記載されていません。
伊沢氏の「日本海軍水上戦闘機隊」によると、この頃(1944年1月)アンボンに常時3〜4機使用できるだけの数が届いており、1月には甲木一飛曹がB−24 1機の撃墜を報じていると、記載されています。
934空の行動調書にB−24の撃墜が記載されているのは、1944年1月16日における1機撃墜、1月19日の2機撃墜、1機不確実撃墜の二日有り、甲木一飛曹のB−24撃墜はこの両日のうちどちらかだと思われます。
1944年3月1日付けで934空より水戦隊は削除されスマトラに水戦を空輸して返納されました。
1944年11〜12月
934空から百一空廠に返納された強風ですが、11月に第一南遣艦隊の936空が強風3機を百一空廠より貸与を受けペナンにおいて使用を開始します。
3号爆弾による敵機の迎撃と敵上陸用舟艇の撃破を目的としていました。
936空には水戦、陸上戦闘機の搭乗員はいませんでしたから、三座水偵の搭乗員を充当することにしました。これらの搭乗員は第一南派遣艦隊付属水上機隊からの派遣という形をとっていたようです。
1945年1月
シンガポールやペナンには20BWのB−29が偵察や爆撃、機雷敷設にかなり頻繁に来襲していました。
1月11日0930より1550(日本時間)に渡る時間にペナン市街を爆撃したB−29に対して延べ8機5回の迎撃を行った強風(実働2機)のうち第3回迎撃において強風101号機の目崎厚紀少尉が3号爆弾でB−29 1機撃破を報じました。
1945年2月
2月1日、ペナン市街を爆撃するB−29に対して延べ3機3回に渡る迎撃が行われました。
藤井正一上飛曹と目崎少尉がそれぞれB−29 1機撃破を報じています。
2月24日
高橋上飛曹がB−29 1機撃破を報じています。
1945年3月
3月3日
藤井上飛曹がカムラン湾上空にてB−24 1機を発見攻撃 撃破を報じました、藤井機も又被弾し不時着水、海岸に向う際岩礁にぶつかり修理不能となりました。
3月12日には目崎少尉と藤井上飛曹は戦闘機操縦者としての訓練のためS特101飛行隊に派遣されました。
そして3月29日藤井正一上飛曹は陸上戦闘機に搭乗し仏印カンゲ沖にてP−38 4機(おそらく475FGのP-38)と交戦、戦死しています。