1942年7月5日
水上機母艦千代田によりキスカの鳴神島基地に進出した山田九七郎大尉(兵64)指揮の水戦6機が東港空に編入され、防空任務を担当した。
この年6月に占領したアッツ、キスカには飛行場がなく、航空機による防空任務は、水戦隊が主兵力となる。
1942年7月8日、12日
7月8日、12日とB−24を迎撃した。
米側記録、8日は28th Composite Bombardment Group(第28混成航空群と訳される場合がある、CBGと略すると思うが調べてないので長いが以降もComposite Bombardment Groupと書く(どうも28BGで良いようだ))のB−24 7機、B−17 1機が偵察のためアッツ、キスカに行動、悪天候のため失敗したが、日本軍水偵を1機撃墜したと報じている。(と書いてあると、思う、たぶん)。
1942年7月18日
山田九七郎大尉以下6機による3回の空戦のうち,B−24 3機に対する攻撃で1機の撃墜を報じた。
米側記録、28th Composite Bombardment GroupのB−17 3機とB−24 7機がキスカ島及び艦船攻撃に出撃、日本軍戦闘機が1機のB−17を撃墜した。)
1942年7月21日
B−17 2機が来襲、大川介士二飛曹以下2機が攻撃して1機を撃破した。
1942年7月22日
この日の米側記録、28th Composite Bombardment GroupのB−24 8機とB−172機がキスカ偵察に出撃、悪天候の中7機のみが爆弾を投下、帰途B−24 1機を失った。
1942年7月30日
空戦が行われ、水戦搭乗員に不時着水者が出て、翌日駆潜艇に救助された。
1942年8月5日
定数12機の水戦隊として第5航空隊が編成された。
山田大尉以下の水戦隊(現在数6機)が東港空より編入される。
1942年8月8日
巡洋艦と駆逐艦などのアメリカ艦隊のキスカ島への艦砲射撃で水戦1機が破壊された。
午後この艦隊から発進した水偵と3次にわたり空戦が発生。
山田九七郎大尉と佐々木義一二飛曹が水偵2機と空戦、2機を撃墜。
大川二飛曹、内山活太郎三飛曹、皆沢稔二飛の3機が艦隊を銃爆撃した。
米側記録、巡洋艦搭載の観測機は雲中を二式水戦に追いかけられながら、観測機としての役割を果たした。1機の二式水戦が駆逐艦を銃撃、九七式大艇が巡洋艦に爆撃を試み、多少の損害が出た、1機の九七式大艇が破壊された。(と書いてあると思う)
1942年8月9日〜29日
8月9日,11日,14日,29日と来襲するPBY,B−l7,B−24を要撃したが、雲が多く戦果はあがらなかった。
米側記録、11日28th Composite Bombardment GroupのB−17 5機、B−24 3機がキスカ攻撃。
28日 28th Composite Bombardment Groupの B−17 3機がキスカ攻撃、1機を損失した。
1942年9月7日
佐々木二飛曹がPBYを撃破した。
1942年9月8日
この頃米軍は雲に邪魔されるのを避けるため低空爆撃に移行している。
斎藤少尉と皆沢二飛が低空を来襲したB−24 3機のうち2機を撃破した。
斎藤機は被弾のため使用不能となった。
1942年9月14日
低空で来襲したB−24 1機,P−38 2機を,山田大尉,鈴木義男二飛曹,成田八郎二飛が迎撃P−38 1機に不時着確実の被害を与えた。
米側記録、11AFのLB−30がキスカを偵察、54FSのP−38 2機が水上機基地と地上攻撃に出撃、P−38が二式水戦1機撃墜を報じ、P−38 1機が対空砲火により、LB−30が二式水戦によって損害を受けた。
1942年9月15日
戦爆連合約30機を迎撃した水戦4機のうち、斎藤清見飛行特務少尉と内山活太郎三飛曹が未帰還となる。
皆沢二飛がP−38 1機を撃墜し,1機を撃破、不時着確実と判断された。
佐々木義一二飛曹はP‐38 3機とF4U 1機を撃墜。最後に撃墜したP−38と正面から射ち合い被弾、不時着水した。
この時点で可動水戦は1機となった。
米側記録、28th Composite Bombardment GroupのB−24 30機、B−17 1機及び護衛の11Fighter Command のP−38(54FS) 14機、P−39(54FGの42FS) 14機がアダックを発進、キスカの潜水艦基地を攻撃した。
戦闘機は二式水戦4機と複葉機の撃墜を報じ、天候によりP−38 2機を損失している。
このP−38 2機の損失は、二式水戦を追跡中に2機が衝突したもののようです。(『双胴の悪魔:P−38』マーチン・ケイディンより)
この二式水戦は、この日3機のP−38撃墜を報じた佐々木義一二飛曹機かもしれないと想像できるが、確証はない、誰が追われていたとしても、命がけで得た立派な撃墜戦果だと言える。
1942年9月16日
電波探信儀が敵の感度大を報じたため大川二飛曹が迎撃に発進したが敵を発見できなかった、この頃より電波探信儀の通報を利用した迎撃発進が出来るようになってゆく。
早朝電波探信儀は設置より1月ほどの訓練で探知能力150キロまで向上したと言う。
1942年9月25日
君川丸で水戦6機,水偵2機がキスカに補充された。
1942年9月26日
42FSのP−39 11機、カナダ11SqのP−40 11機が、28BGのB−24とB−17を護衛してキスカ攻撃に来襲した。
0405山田大尉と森川虎雄二飛曹がこれを迎撃,山田大尉がP‐39 1機撃墜を報じた。
しかし森川二飛曹が敵戦闘機と空戦中11SqのP−40に撃墜され行方不明となった。
続いて第2波として、B−24 1機、B−17 1機、P−39 15機がキスカ攻撃に来襲。
0550水戦5機が発進するも滑走中の水戦に対してP−39が銃撃を加えてきた、佐々木忠機が1発被弾、佐々木義一機の被弾もおそらくこの時の事だと思われます、P−39は5〜8機の水上機の地上撃破を報じました。
離脱してゆく優速な敵の捕捉に失敗する水戦隊の中で佐々木義一二飛曹が敵に攻撃を加えたが撃墜には至らなかった。
1942年9月28日
B−24 40機とB−17 1機、2波に渡ってキスカ攻撃に来襲、護衛の戦闘機は悪天候で引き返し、ついていなかった。
これに対し、0600電波探信儀の敵感度大との通報により水戦5機が発進。
宮沢弘蔵中尉,中町国続飛曹長,佐々木忠一飛はB−24、PBY 4機を発見して攻撃し,PBY1機に黒煙を吐かせた。
第2波の来襲機を発見した哨戒中の水戦2機と迎撃に発進した3機は,1機の2つのエンジンから黒煙を吐かせました。
1942年9月29日
早朝発進した水戦は0500にB‐24,P−39,P‐40など約20機と交戦。
中町飛曹長がP−39 1機を撃墜したが、佐々木忠一飛が戦死した。
またこの敵に対し水戦3機が発進し,そのうち宮沢弘蔵中尉が行方不明となり,他の2機が被弾した。
水戦の稼働機が1機、修理を要するもの2機となった。
米側記録、28th Composite Bombardment Groupの重爆がアッツ及びキスカを攻撃、54FSのP−38が零戦1機撃墜を報じ、54FGの57FSのP−39が二式水戦2機の撃墜を報じた。
P−39 1機を操縦士と共に失っている。
1942年10月1日
B‐24 7機を大川二飛曹,佐々木二飛曹,内藤等三飛曹,歌津朝春二飛が要撃して1機に黒煙を吐かせた。
米側記録、28th Composite Bombardment GroupのB−24 7〜9機がキスカ及びアッツを攻撃、日本海軍の戦闘機8機に攻撃を受けたが、損失機無しで帰還した。
1942年10月2日
小規模の空戦があった。
米側記録、28th Composite Bombardment Groupの B−24 7機がキスカの水上機基地を攻撃、54FGの42FSのP−39が二式水戦2機撃墜を報じた。
1942年10月3日
早朝には佐々木二飛曹と歌津二飛がB−24 11機,P−38 8機を迎撃。
P−38 1機を撃墜,他の1機を不確実撃墜した。
後から発進した中町飛曹長と佐藤博三飛曹はB−24を攻撃して1機に黒煙を吐かせた。
米側記録,B−24 6機、P−39 6機がキスカ攻撃。
又、日本海軍機がアダックを攻撃したが、損害は無かった。
1942年10月4日
朝レーダーの瞥報により発進した水戦3機が,B‐24 5機,P−38 5機,P−39 5機を発見して交戦。
内藤三飛曹がP‐38 1機を不確実撃墜したが,佐藤博三飛曹は未帰還,歌津二飛機は被弾のため使用不能となった。
可動水戦0となった。
米側記録、28th Composite Bombardment GroupのB−24 6機、343FGのP−38 8機、54FGのP−39 8機がキスカ港を攻撃。
P−38及びP−39は双フロート機5機の撃墜を報じた。
又、日本海軍機がアダックを攻撃したが、損害は無かった。
1942年11月1日
名称改制により第5空は第452航空隊となった。
1942年11月6日
君川丸によって水偵3機と水戦6機又は7機がアッツヘ送られてきた。しかし翌日の暴風雨により大きな損害が出ている。
(この暴風雨で破損した水戦の写真は存在する、本なりインターネットなりどこかで見ることができるはずです。)
又内地に帰還した鈴木二飛曹,成田二飛,皆沢二飛や6名の損失の補充として長瀬正郎上飛曹以下3名も進出し,翌日にはキスカに進出した。
1942年11月10日
米側記録、4機のP−38がアッツ島に対して初めて攻撃を加え、8機の水上機を破壊したと報じた。
1942年11月20日
P−38の対地銃撃により残存の水戦が撃破された。
1942年12月31日
早朝来襲したB‐25 1機,P−38 7機,PBY1機と哨戒中の水戦2機が交戦,長瀬上飛曹と直井輝行二飛曹はB−25 1機を撃墜し,PBY1機を不時着させた。
迎撃のため発進した中町飛曹長,佐々木一飛曹,長操二飛曹,内藤二飛曹はP-38 9機と交戦して1機を撃墜した。空戦高度300メートル
又、不時着したPBYも水戦2機の銃撃によって破壊され,また別のPBYを要撃した水戦5機は黒煙を吐かしたが撃墜できなかった。
米側記録、爆撃隊掩護中のP−38編隊に雲中から10機余りのニ式水戦が降って来、第1撃でP−38 2機が撃墜され、他のP-38も手ひどい損害を蒙ったものの反撃し1機を撃墜した。
又撃墜されたB−25の搭乗員を救出したPBYも帰還に成功しなかった。
1943年1月1日
朝,哨戒中の水戦5機はP−38 6機と交戦し,山田大尉と中町飛曹長が各1機を撃墜した。
米側記録、P−38 9機に護衛されたB−24 6機がキスカを爆撃した。P−38は二式水戦2機の撃墜を報じている。
『丸スペシャル北方作戦』によると米側確認で前日とこの日の2日間でP−38 4機とB−25 1機が撃墜されたとなっている、前日のP−38の被撃墜が2機のためこの日はP−38 2機の被撃墜が発生していることになる。
1943年1月上旬
天候が悪化し敵機の来襲頻度が少なくなっている。
1943年1月24日
この日、アムチトカ島に新しい滑走路が完成し、初めてP−38が着陸している。
朝、飛行長森田博少佐と佐々木一飛曹が、キスカより約160kmに位置するアムチトカ島を偵察,コンスタンチン湾に敵の輸送船5隻とその護衛艦艇を発見した。
可動の水戦2機で60kg爆弾2発を携行し,1月25,26,28日といずれも森田少佐と佐々木一飛曹が攻撃を行なった。
1943年2月1日
君川丸で水戦6機,水偵1機がキスカに進出した。
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1943年2月2日
コンスタンチン湾の敵艦船を水戦8機,水偵1機で攻撃したが,大川介士上飛曹と内藤等二飛曹が行方不明となった、水戦2機が捜索に出撃したが消息不明で終わった、対空砲火の犠牲になったのかもしれないし、悪天候で機位を失したのかもしれない。
1943年2月5日
2次にわたるB‐24,B‐25混成の来襲機を要撃。
又、水戦4機,水偵1機でアムチトカ島に攻撃をかけた。
1943年2月14日
来襲したB‐25,P‐39 17機を要撃した佐々木一飛曹と直井二飛曹はP‐39 1機を奇襲して撃墜した。
また水偵3機,水戦3機でアムチトカ島攻撃を敢行効果不明。
米側記録、重爆と中爆がキスカを空襲、54FSのP−38が二式水戦3機の撃墜を報じている。
1943年2月16日
アムチトカ島攻撃、効果不明。
米側記録、二式水戦6機がアムチトカの滑走路を攻撃してきた。
1943年2月19日
アムチトカに対して行われている爆撃はレーダーで敵の非存在を確認してから行っていた、この日も薄暮攻撃に出撃する準備をしていたところ、レーダーが敵戦闘機の出撃を探知、水偵の出撃を取りやめ、中町国続飛曹長と佐々木義一一飛曹が偵察に出た、レーダー室のスクリーンではこの2機が敵機に寄って行って最後に一つになるのが確認されたが、レーダースクリーンから消えた2機が帰投することはなかった。
米側記録、18FSのP−40がアムチトカにおいて1900二式水戦2機の撃墜を報じている。
1943年3月17日
この頃可能機数の減少と補給の都合から,山田大尉の発案による,有利な時のみ戦闘することを基調とすることになっていた。
P−38 10機と交戦,7機協同で2機を撃墜した。
これがキスカにおける最後の空戦となる。
米側記録、キスカを攻撃した機の内、B−25、1機を失っている。
1943年3月27日以降
この日発生したアッツ島沖海戦の影響でアッツ,キスカヘの補給が困難となり、搭乗員は潜水艦で脱出,横須賀で再編成に入った。
4月に入ると天候が回復し4月8日から21日まで一日平均60機の米軍機がキスカに対し空襲をかけてきた、これに対し挑戦してくる日本戦闘機は無かったと米側戦記は書いている、対空砲火でB−24、とP−40が1機ずつ撃墜され、9機の戦闘機が故障で墜落しただけだと。
たとえ水戦隊が残留していても、激化した空襲には対抗し得なかったろう、撤退は潮時であったと考える。
1943年5月
12日アッツ島に米軍が上陸してきた。
1943年7月下旬
分隊長荒木俊士中尉(兵67)の元、北千島、占守島の別飛沼に進出した。
北千島に対しては既に7月11日米機の初来襲があった。(爆撃失敗のため日本側は気付かなかった。)
1943年7月19日
B−24 5機が幌筵地区に来襲、水戦11機が0625発進、哨戒中の零観と共に迎撃したが、捕捉し得なかった。
1943年7月29日
キスカ湾に撤収任務の艦隊が突入、キスカの日本兵の収容に成功した。
1943年8月12日
B−24 4機を水戦10機で要撃し,相当の損害は与えたが撃墜には至らなかった。
陸軍の飛行五十四戦隊は撃墜を報じた。
米側記録では、幌筵海峡沿岸部を爆撃した28th Composite Bombardment Group(第28混成航空群)のB−24 9機が零戦40機の攻撃を受けたが損害無しとなっている。
注(渡辺洋二著の「さいはて迎撃戦」ではB−24 2機を失っている、となっている。)
1943年9月12日
朝来襲したB−25とB‐24の混成編隊を陸軍第54戦隊の隼と共に水戦10機が迎撃。
香田克巳中尉(兵69)と長廻勝秋二飛曹が協同でB−24 1機撃墜ほぽ確実,加藤禎一少尉(予10),甲木清美二飛曹,八郷勲二飛曹,遠藤司郎二飛曹,大橋光夫上飛は協同でB−24 2機を撃墜した。
日本側は陸軍の飛行五十四戦隊の一式戦がB−24 5機(内1不確実)撃墜、B−25 2機(内1不確実)撃墜、、水戦隊が前述のようにB−24 3機(内1ほぼ確実)撃墜、高射砲が2機撃墜を報じた。
米側記録では28th Composite Bombardment GroupのB−24 8機(404BG)とB−25 12機(77BG)が40機の日本機の攻撃を受け、B−24 1機が対空砲に撃墜され、B−25 7機、B−24 1機が日本の戦闘機により撃墜された、又B−24 2機がカムチャッカ半島に不時着しソ連に抑留された。
注(渡辺洋二著の「さいはて迎撃戦」では
カムチャッカ半島に不時着した7機を含め、B−24 3機、B−25 7機を失っている、となっている。)
1943年10月
キスカと異なって別飛沼は凍結が考えられたため内地に移動することとなり,水戦隊は10月1日付けで削除され横須賀に移動して解散した。
総括
水戦隊の全期を通じての戦果は撃墜17,不確実撃墜6に及ぶ。
空戦での損失は12機,搭乗員の戦死は10名でした。
17年7月から18年3月まで,キスカに運ばれた水戦は判明しただけでも35機にのぽり、当時の二式水戦の生産機の約半数が北東方面への補充に回されていたそうです。
東港航空隊、第5航空隊、第452航空隊、水上戦闘機隊 搭乗員 判明している方のみ (順不同)[]内は戦死した日付 階級は当事ものですが、毎年5月、11月に進級がおこなわれており多少ずれがあります。
キスカに進出したメンバー
内山 活太郎 三飛曹(丙1)[42/9/14 キスカ]
斎藤 清見 特少尉 [42/9/14 キスカ]
森川 虎雄 二飛曹(甲5)[42/9/26 キスカ]
宮沢 弘蔵 中尉(兵68)[42/9/29 キスカ]
佐藤 博 三飛曹(甲6)[42/10/4 キスカ]
佐々木 忠 一飛[42/9/29 キスカ]
内藤 等 二飛曹(乙11)[43/2/2 アムチトカ島]
大川 介士 上飛曹(乙8)[43/2/2 アムチトカ島]
中町 国続 飛曹長(乙5)[43/2/19 アムチトカ島]
佐々木 義一 一飛曹(操44期)[43/2/19 アムチトカ島]
山田 九七郎 大尉(兵64)[終戦時自決]
皆沢 稔 二飛(丙3)[42/11/8 ショートランド付近 802空]
鈴木 義男 二飛曹(操49)[44/2/17 トラック 902空]
成田 八郎 二飛(丙3)[生存]
長瀬 正郎 上飛曹(甲1)[44/03/31 ペリュリュー 263空]
直井 輝行 二飛曹(乙11)[生存]
長 操 二飛曹(甲6)
歌津 朝春 二飛
森田 博 少佐
北千島進出時より加わったメンバー
荒木 俊士 中尉(兵67)[45/2/16 関東 302空]
香田 克巳 中尉(兵69)[44/06/24 硫黄島 S601]
長廻 勝秋 二飛曹(操53)
加藤 禎一 少尉(予10)[44/11/04 セブ S303]
甲木 清美 二飛曹(操54)[生存]
八郷 勲 二飛曹[44/7/04 父島 佐世保空]
遠藤 司郎 二飛曹(甲7)[45/3/19 松山 343空]
大橋 光夫 上飛
星 清三 一飛曹
飯島 文明 飛長
浜谷 行正 二飛曹
野瀬 満 上飛
参考 キスカに進出していてかつ北千島進出時のメンバーでもあることが判明している方
長瀬 正郎 飛曹長(甲1)
直井 輝行 二飛曹(乙11)[生存]
長 操 二飛曹(甲6)
八郷 勲 一飛曹
2003/02/24 吉良様より内山活太郎氏と佐々木義一氏の出身期についての情報をに教えていただきました、吉良様ありがとうございました。
、
なお佐々木義一氏の出身期を調べあげたのは川崎学様とのことです、川崎様にもお礼申し上げます。
その他の参考文献
『双胴の悪魔P−38』マーチン・ケイディン
『予科練外史』倉町秋次
『海軍航空予備学生』碇義朗
「さいはて迎撃戦」渡辺洋二
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