偵察機P-38迎撃



6/18 0700 零戦4発進上空哨戒 P-38来襲、追撃せるも逸す。
6/20 0905 零戦4発進上空哨戒 P-38来襲、追撃せるも逸す。
6/21 0620 零戦4発進上空哨戒 P-38来襲、追撃せるも逸す。
6/23 0700 零戦4発進上空哨戒 P-38来襲、追撃せるも逸す。
6/23 0700 零戦4発進上空哨戒 P-38来襲、零戦2ベララベラ付近まで追撃せるも逸す。
6/24 0700 零戦4発進上空哨戒 P-38来襲、追撃せるも逸す。

(582空飛行機隊行動調書より)
昭和18年6月下旬における、ブインに展開していた582空の戦闘機隊のP-38迎撃状況です。
このように有効な早期警戒システムを持たない日本海軍戦闘機隊にとり、偵察機型P-38を捕捉撃墜することは至難の業でした。
「高度30,000ft以上の高度を獲得できた。この高度を
飛行すれは敵戦闘機による迎撃は希でまた基地から離陸する敵戦闘機を例え目
撃したとしても,彼らがその高度に到達するまでには偵察を終え,安全な空域に
避難することができた。またこの高度から軽いダイブをすれば,追従不可能な速
度を獲得することができた。低高度を哨戒中の敵機が大きな脅威となった。この
場合は,緩降下の技術を使うか,さもなければ辺りの雲に逃れるのが最良の方法
だった。このように偵察部隊パイロットにとって敵機はさほどの脅威とはならず,
悪天候そして機械的故障が大きな脅威であった。

(AIR COMBAT誌14号収録、南西太平洋方面の米陸軍偵察機部隊史 C.M.Daniels著より)


6月20日、この偵察機型P-38が撃墜されることが発生しました。
「ポスト少佐は,8時15分,ラバウル偵察ミッションに離陸した。
ポスト少佐は,10時15分ワイド・ベイ付近を飛行中という連絡を最後に消息を断った。
だがポスト少佐は4ヵ月後の10月25日,部隊に帰還した。
高度10,000ftの燃える機体から脱出」

(AIR COMBAT誌15号収録、南西太平洋方面の米陸軍偵察機部隊史 C.M.Daniels著より)

昭和18年ソロモン方面における偵察型P-38撃墜記録で私が思い浮かべるのは。
大野竹好中尉の手記にある以下の記述です。
(また251空についての記事か?ですって、そう、また251空についての記事だったんですよ)
「六月二十日午前八時、優速をほこる敵ロッキード"ライトニング"P38双発双胴戦闘機が
単機、ラバウル上空に偵察に出現した。
あらかじめ敵のくるのを知ったわが基地では、近藤飛曹長以下三機がこれを待ちうけてい たのである。
ツユ知らぬP38は、八千五百メートルの高高度を飛行機雲をひきながら高速で、北から南
へ真っすぐに飛んで行く。近藤飛曹長以下の三機はたちまちこれを発見、全速で追跡し、ワ
イド湾上空で追いついた近藤飛曹長は、後下方よりひそかに接近、
五十メートルほどに迫ったと見るや、ぐっと力をこめて機銃の引き金をひく。
光の尾をひいて、全弾がすい込まれるように敵機に命中する.敵機は猛烈な黒煙をはき、
ついで一瞬にして真紅の火炎と化して、流星のごとく墜ちていった。敵機の搭乗員はすばや
く燃える機から脱出したが、あわれにも落下傘が開かず、大地に吸い込まれていった。
そのあまりのもろさに近藤飛曹長も、呆然たらざるをえなかった。」

(「碑銘よ白き積乱雲の峯をかざれ」大野竹好著、『私はラバウルの撃墜王だった』収録より)
基地 ラバウル
任務 ラバウル上空哨戒
0925 発進
0943 敵
0953〜0955 空戦
1100 帰着
1小隊 近藤任 飛曹長 8000 P-38 一キ発見 後下方一撃にて撃墜。20x60, 7.7 x 140
    塚本秀雄 二飛曹 敵発見セルモ引キ離サル
2小隊 宮本公良 二飛曹 敵を見ず
    秋本正富 二飛曹 敵を見ず
3小隊 栗山九州男 二飛曹 敵を見ず
    新井藤孝 上飛 敵発見セルモ引キ離サル
(251空飛行機隊行動調書より)
時差を考慮に入れると時間はほぼ一致します、P-38の搭乗員が脱出したことも一致しています。
高度が違うことはきになりますが、ポスト少佐機の撃墜者が近藤飛曹長であった可能性はあると思います。

日付がわかりませんが6月下旬には更に偵察機型P-38の損害が発生します。
「ポスト少佐が行方不明となり1週間も経たずにケン・マーフィー中尉が「戦
闘中行方不明者」のリストに加えられている。朝7時,ラバウルに向け離控した
マーフィー中尉は,ポスト少佐のように遠ることはできなかった。ニューブリテ
ンで偵察機の飛来を待ち受けていた日本軍戦闘機に撃墜されたものと予想された。

(AIR COMBAT誌15号収録、南西太平洋方面の米陸軍偵察機部隊史 C.M.Daniels著より)
「翌二十一日から二十五日まで、敵機はとんと偵察にこなかったが、二十六日になって性こ
りもなく、またもやP38型一機が高度を九千メートルに上げ、全速でやってきた。
それにはおりしも上空哨戒中の磯崎少尉、近藤飛曹長その他の計五機の零戦があとを追っ た。
しかしながら、三十分も追いかけてついに捕捉できず、磯崎少尉以下四機は帰ってきた が、
ひとり近藤飛曹長だけは一時間たっても、二時間すぎても帰ってこない。
ようやくみながさわぎはじめたころ、通信長が、
「戦闘機から電報が入った」と叫んだ。
「われ、スルミ発、帰途につく。天候知らせ」
これは近藤飛曹長が機上から発したものだ。さらに、
「ウラモア通過、異常なし。一二〇〇着予定」
そして、そのとおり十二時に帰ってきた。
一時間半ほど全速で追跡し、マーカス岬西方洋上でようやく追いつき一撃をあびせました。
敵はいちど火を発しましたがすぐ消えたので、さらに一撃をくわえました。
敵は猛烈にガソ リンをふきながら墜ちて行きました。
帰途、燃料欠乏のためスルミ基地に不時着、補給のう え帰投しました!」
近藤飛曹長が報告した。
一時間半にわたる全速攻撃、三百カイリ追っかけての敵撃墜−まことに攻撃精神の権化 としかいいようがない。」

(「碑銘よ白き積乱雲の峯をかざれ」大野竹好著、『私はラバウルの撃墜王だった』収録より)
基地 ラバウル
任務 敵機迎撃
0750 発進
0755 二小隊ノ一P-38発見マーカス岬南方ニテ追付キ攻撃ス P-38撃墜す 0900 三機帰着
1220 (帰着 二小隊一番機)

1小隊 磯崎千利 少尉 P-38x1迎撃セルモ逸す
    岩野廣 二飛曹 P-38x1迎撃セルモ逸す
2小隊 近藤任 飛曹長 P-38 x 1撃墜
    国廣欣彌 二飛曹 P-38x1迎撃セルモ逸す
(251空飛行機隊行動調書より)

これも可能性でしかありませんが。近藤任飛曹長は撃墜至難な偵察機型P-38撃墜を2度も果たした搭乗員だったのかもしれません。(あくまで可能性があるということでしかありません、念のため)。

近藤飛曹長は二五一空の昼間戦闘機隊が5月に南東方面に進出し、9月1日付けで解隊されるまで、(階級からいっておそらく中核搭乗員として)戦い続けました。
そして、二〇一空の搭乗員として昭和18年9月9日、残念なことに戦没されています。合掌

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