西沢広義飛曹長は列機を失っていないか?(暫定版)


角田勉男氏の手記『修羅の翼』に以下のような情景が出てきます。
時は昭和19年秋、所は内地。
南東方面の激戦を生き延びた歴戦の戦闘機搭乗員数人が集まって談笑しています。
その中の一人西沢広義飛曹長がこう発言します、「私は直属の上官、列機は一人も落とされていませんよ」
これは凄いことです、坂井三郎氏も列機を失っていないことを誇りにされておりましたが、南東方面の激戦を通じて列機を失わないことは僥倖だけでは実現できないことだと思います。

それで、この快挙を記録から追ってみようと思い立ったわけです。

西沢広義氏の戦歴はざっと書くと以下のようになります。
千歳空派遣隊の一員としてラバウルに進出したのが昭和17年の2月、その後4空に吸収されさらに台南空に吸収され昭和17年11月まで南東方面で戦い続けます。
台南空時代の姿は坂井三郎氏の有名な手記に登場しますから、それを通じて知っておられる方も多いでしょう
11月に251空と改称された台南空と共に内地に引き上げ。
再編が終わった251空の隊員として昭和18年5月再び南東方面へ進出、9月1日251空の昼戦隊の解散と共に253空に移籍、11月初旬頃内地に引き上げるまで戦い続けます。
この南東方面の激戦地に通算15か月も居たというのは他に例のないことではないでしょうか。
内地に戻り厚木空で練成任務についていた時のある情景が冒頭に書いた『修羅の翼』の中の一節です。
昭和19年春厚木空が203空となりそれに所属する戦闘303飛行隊の一員として北千島に進出して戦います。
北千島における203空については渡辺洋二氏『大空の戦士たち』ソノラマ文庫 収録の「北千島 吹雪と濃霧と航空戦」を読むと良いと思います。
捷1号作戦の発動と共にフィリピンへ進出、10月25日には敷島隊の直掩機4機の指揮をとりますが、この時列機の内の1機 管川操 飛長が対空砲火の犠牲となります。
そして翌26日輸送機に便乗して移動の途上、輸送機がF6Fに撃墜され、その短い生涯を終えることとなります。
西沢広義氏についてもっと知りたい方は、PHP文庫の『ゼロ戦20番勝負』に伊澤保穂氏の文章が収録されていますから、読んでみてください。

上記の戦歴のうち、台南空時代に列機を失っていたかどうかは、記録にあたっていませんからわかりません、調査できるまでは暫定版ということで話を進めます。
捷1号作戦時に管川飛長が戦死したのは特攻機を至近で掩護した末に対空砲火で撃墜された結果ですから、西沢飛曹長としてもいかんともしがたかったでしょうし、角田氏の著作に出てくる情景の後の話です。
以下調べた順に書いてゆきます。
昭和18年8月から11月始めにかけては西沢上飛曹は列機を失っていません、ただし253空時代に編隊の総指揮官として出撃した時に編隊中から失われた機が出ています。
ただし、列機を失ってないという条件には触れません。
9月1日に251空が解散して253空と201空に移籍してしばらくは元251空搭乗員達の足跡はよくわかりません。
例えば201空の行動調書に元251空の搭乗員が登場するのは9月9日となります(そして251空のベテラン搭乗員の一人近藤任飛曹長がいきなり戦死してしまいます)。
文書上では9月1日解散でも現地ではしばらく251空の昼戦隊として作戦していた可能性もあるかもしれません。
例えば『日本海軍戦闘機隊』の主要戦没搭乗員の名簿には9月4日に戦死された樫原道隆一飛曹の所属が251空となっています。(所で251空の行動調書をざっと見た限りでは樫原道隆氏の名前がないのですけど、もしかすると他部隊の方なのでしょうか?)
とりあえず9月初旬については列機を失っているかどうかはわからないのでパスです。
で、残る昭和18年の5月から7月にかけてはどうかというと、今回このコンテンツ用に調べてみました。
5月から6月にかけては、戦闘が発生した大空戦の場合、中隊長機の列機として飛ぶ場合が多く、小隊長機として出撃する機会はあまりありませんでした。
ただし6月16日のルンガ沖艦船攻撃における艦爆直掩任務で出撃するまでは長機を失うこともありませんでした、。
この日、中隊長の香下孝中尉の列機として出撃しますが、香下中尉と3番機の清水郁造二飛曹が対空砲火に撃墜されてしまいます、おそらく爆撃する艦爆を守るため最後までついていったのでしょう、これは、西沢上飛曹としても手のさしのべようがなかったでしょう、それどころか香下中尉に続行していたかどうかはわかりませんが、もしそうなら西沢上飛曹も対空砲火の餌食になっていた危険が高かったことになります。
7月以降は小隊長として出撃することがほとんどとなります。

7月7日ルビアナ攻撃の中攻直掩に出撃し敵機約30機と交戦した時のことです。
西沢上飛曹の2番着として出撃した原口徳行二飛曹が戦死していました。
おそらく昭和18年の南東方面の激戦を通じて西沢広義氏が失った唯一の列機でしょう。
部下を失っていなかったわけではありませんが、これだけ少ない犠牲ですませたことは、小隊長として、やはり類稀な実力を持っていたということでしょう。(昭和17年の台南空時代の記録は調べていませんから、あくまで暫定版です)。


7月7日のルビアナ攻撃時の251空の編成
1005 ブイン発進 中攻隊6機と合同発進 総指揮官 龍鳳戦闘機隊 藤原敬吾中尉
1205 レンドバ上空突入
1210 敵戦闘機約30と交戦
1215 戦場離脱
1250 帰着
P-39 1,F4W 4機撃墜撃墜(内1機不確実)(元々F4Wと書いてあるので私に突っ込まないように).

鴛淵 孝 中尉
竹田 要次郎 二飛曹
岡村 栄 二飛曹
浅井 政雄 上飛

西沢 広義 上飛曹
原口 徳行 二飛曹 未帰還、
小竹 高吉 二飛曹
八尋 俊一 二飛曹

追記
1943年8月に西沢小隊で飛行したメンバーを敵との交戦があった条件で拾い出すと、次にような名前があります。
八尋 俊一
栗山 九州男
南田 覺
星野 秀夫
直島 喜文

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