251空の若手士官達
「同期生のことは忘れようたって、忘れられるもんじゃないんだから、いいんですよ」
戦死した同期生のことを伺った後で、哀しいことを思い出させたのではないかと危惧する私に、岩下邦雄さんはこうおっしゃられました。
友人を多量に失った辛い想い出を背負って生きてこなければならなかった方の、この重い言葉が今も私の脳裏を去来し続けている。
昭和18年5月に南東方面に進出した251空の昼戦隊には実戦経験がなく初陣となる若手の士官が4名いました、海兵68期の鴛淵孝中尉、海兵69期の林喜重中尉、橋本光輝中尉、香下孝中尉です、それに途中で補充として251空に所属し初陣を迎えた海兵69期の大庭良夫中尉について紹介します。
251空が昭和18年5月に南東方面に進出した際の分隊士以上の構成は以下のようになっていました。
飛行隊長 向井一郎大尉
分隊長 木村章大尉
大宅秀平中尉
大野竹好中尉
鴛淵孝中尉
分隊士 磯崎千利少尉
近藤任飛曹長
大木義男飛曹長
林喜重中尉
橋本光輝中尉
香下孝中尉
(先任順はわかりませんから順不同です)。
このうち大野中尉は鴛淵中尉と同じく海兵68期ですが実戦経験を持っていました。同期ですから同じく若い士官でした、なぜ今回紹介する中に含めなかったかというと、操縦学生の教官として内地に残った鴛淵中尉と異なり岩下氏とは兵学校卒業後は接点がなかったろうということで尋ねなかったからです。
また251空の実戦経験者はこの時点で10名ほどに過ぎなかったと言われています(すいません自分では未だ数えていません)。
251空の初出撃は5月14日のオロ湾攻撃に向かう751空陸攻隊の直援任務でした。
出撃機数は32機、不確実を含め撃墜13機を報じ全機帰還しました、4名の若手士官も無事初陣を終えることができました。
しかし掩護した陸攻隊は飛行隊長の西岡少佐が自爆するなど損害が出ました、その不時着機の捜索機が翌15日に出ますがその捜索機の掩護に木村大尉指揮の12機が出撃しました、第2中隊長は橋本中尉です、出撃後1機が故障で引き返し木村大尉が付き添います、木村大尉はその後単機でとってかえしそのまま行方不明となります。
残った機を率いる橋本中尉は途中B−25 5機編隊と遭遇、全機共同で2機撃墜(内1機不確実)を報じますが、中山義一二飛曹が戦死してしまいました。
(余談になりますが、一般の書籍にはあまり書かれていないことですが、不時着した搭乗員の捜索機は日本海軍においても、まめに出されているようです、唯少し敏捷さに欠けるといいますか、翌日捜索機が出される例が多いようで、当日素早く捜索機が出されていればと思います、出来得るなら、直掩機をつけたうえで救難機を攻撃編隊の大分後方についてゆかせることができたならなあと、タイプしていて気付きましたが米軍がやっていたことですね、余談が長くなりました)。
ガダルカナル方面に対して大規模な制空作戦を実施したのが「ソ」号作戦、この作戦の後艦爆によるガダルカナル方面に対する艦船攻撃を行ったのが「セ」号作戦です。
6月7日、251空、204空、582空の零戦81機が進攻した第一次「ソ」号作戦では全部隊総計で40機撃墜(うち不確実8)が報じられましたが、未帰還9機を数え、77機が進攻した12日の第2次「ソ」号作戦では全部隊総計で29機撃墜(うち不確実6)を報じ、未帰還機6機を出しました。
251空はこの両日で8名の戦死者を出してしまいます。
そして6月16日のルンガ沖の敵艦船攻撃に582空の九九式艦爆24機、251、204、582空の零戦70機が出撃します、艦爆が攻撃態勢に入るまではうまく行きました、最初に攻撃をかけてきたP−38 8機も251空大宅中尉率いる中隊が撃退します、しかし本格的に迎撃戦闘機が襲いかかってきたとき護衛の零戦隊の負荷は多大なものとなりました。
全部隊総計で28機撃墜(内不確実3)を報じましたが、零戦14機、艦爆13機が帰りませんでした、251空の戦死者は大宅中尉など7名に達しています。その中にはおそらく艦爆に最後までついていったのでしょう3番機の清水郁造二飛曹とともに対空砲火で撃墜された香下孝中尉も入っていました。
岩下氏に伺った香下孝中尉は次のような方でした。
「運動神経が良くナイスボーイ、女性にもてた、母一人子一人で、亡くなった時には母親はとても落胆していた。」
当時連合軍はソロモンを北上する反攻作戦の準備を行っていました、「ソ」号「セ」号作戦はその準備をわずか数日遅らせただけに留まりあたら自らの航空戦力を消耗させるだけに終わりました。
そして6月30日その反攻の第1歩がムンダの対岸レンドバ島への上陸作戦として現れます。
251空の零戦24機は雷撃に出撃する陸攻26機を護衛して敵の待ちうける中に突入します、陸攻17機が未帰還、251空の零戦も5機が未帰還となり、さらにブインからブカに戻る際悪天候に見舞われ3機が行方不明となります。
飛行隊長向井大尉、分隊長大野中尉戦死、さらに橋本中尉もまた帰還しませんでした。
岩下氏に伺った橋本光輝中尉は次のような方でした。
「神戸一中の出身で、兵学校の最上学年では26分隊の伍長(つまり同期で26番目の成績だったということです)で優秀で頭が良かった」
大損害を受けた251空の昼戦隊ですが、休むことは許されませんでした、最後に残った分隊長の鴛淵中尉や分隊士の林中尉の指揮下に、敵の上陸地点付近に対して連日出撃が続きます。
しかし7月中旬鴛淵中尉がマラリアで入院、林中尉もまた、原因はわかりませんが8月7日を最後に出撃メンバーに顔を出さなくなります、代わりに指揮をとったのが補充としてやってきた大庭中尉でした、8月9日以降ブイン基地に展開していた部隊の指揮は大庭中尉、バラレに展開していた部隊の指揮は同じく増援メンバーの豊田耕作飛曹長と有田位紀上飛曹がとりました。
大隊長もしくは中隊長から始めた鴛淵中尉や林中尉と違っていきなり編隊の総指揮官を初陣から任された大庭中尉は大変だったでしょう。
251空の昼戦隊は9月1日付けで解散し搭乗員達は201空と253空に吸収され戦い続けることになります。
その後の3人は253空に所属さらに大庭中尉は9月下旬201空に所属して12月23日戦死するまで戦い続けます。
岩下氏に伺った大庭良夫中尉は次のような方でした。
「佐賀中学の出身、荒武者だった、69期の戦闘機乗りで有名なのを2人あげるなら林喜重と大庭良夫で大庭はソロモンで感状を贈られ彼の実家にはその時贈られた日本刀が飾られていた。」
同じく69期の梅村武士氏の手記にも南東方面に向う際の大庭中尉の様子が少し出てきます。
「「オイ、オレの荷物はこれだけだよ」クシとポマードと、新しいゲタ一足を手で持ち上げて見せると、無造作に押し込みなながら、「オレはもうもどらんから、冬服は持って行かんよ」ひとりごとのようにそういって、私をみてさびしく笑うと、トランクのふたをしめた」
林中尉と鴛淵中尉は10月初めに相前後して戦列に復帰253空で戦います、253空には69期の相良治男中尉、高沢謙吉中尉がおり林中尉と肩を並べて戦うことになりました、相良中尉は10月17日にブナで戦死され、高沢中尉は昭和19年のマリアナ沖海戦で戦死されます。
10月の時点で68期の戦闘機搭乗員はソロモンには鴛淵中尉だけとなっていました、ソロモンの空は既に68期の戦闘機搭乗員達の命を呑み干してしまっていたのです、南東方面で命を落とした68期の戦闘機搭乗員は14名を数えます
林中尉と鴛淵中尉は10月末から11月初め頃に内地に帰還します。
林大尉は戦闘407飛行隊長として、鴛淵大尉は戦闘304飛行隊長として昭和19年秋の比島の戦いに参加、昭和20年には343空の飛行隊長として再び顔を合わせることになります。
林大尉は4月21日のB−29迎撃戦において戦死しました。
岩下氏に伺った林喜重大尉は次のような方でした。
「やさ男だが戦争は強かった、(343空司令の)源田さんは仁の人だと評していた。」
鴛淵孝大尉も戦争を生き残ることはできませんでした、7月24日に敵艦載機を迎撃して戦死しました。
岩下氏に伺った鴛淵孝大尉は次のような方でした。
「兵学校入学時同じ分隊の1学年上にいて手取り足とり毛布の畳み方など教えてもらった、五島の出身、いい方、やさしい方だった」
続いて「優しい方では戦闘機乗りに向いてなかったのではないかと」尋ねてしまったのは、鴛淵大尉の戦闘機搭乗員としての能力に疑いを持ったわけでなく、この方のことをもっと聞けないのかと話の接ぎ穂を求めての質問でした、私は毎年7月24日の10時ごろになると手を合わせているのです。
岩下氏は次のように答えてくださりました。
「私はむざむざ死にたくなかった、強くなりたいと思った、精神を鍛えようと思った、宮本武蔵の本を読んだ、今の人から見ればお笑いかもしれないが真剣だった」
251空の昼戦隊に興味を持たれた方は光人社NF文庫刊の『私はラバウルの撃墜王だった』に収録の大野竹好さんの手記を読んでみてください、これが一番わかりやすいと思います、文庫本なので安価ですし
言わずもがななことながら、やはり戦争はいけないのだ、家族を落胆させてはいけないのだ、友人を悲しませてもいけないのだ。
今でも「同期生のことは忘れようたって、忘れられるもんじゃないんだから、いいんですよ」という言葉が脳裏から去らない。
おまけのおまけ
251空に関係ありませんがいくつか印象に残った話を紹介します。
「私はわりに品方行正だったので(パインで暴れた覚えはない)。
73期生が4人横空にやってきたとき、パイン(料亭の愛称)に行きますよろしいでしょうかと聞くので、いいよけれど暴れてはダメだよと言っておいたら、ハーフ(半人前の芸妓?さん)4人と川の字になって雑魚寝してきたそうで、どこの部屋かなーと思っている。」
兵学校に入学される際に上級生として兵学校にいたお兄さんから殴られるから驚くなよなどと、心構えの言葉をかけてもらったのでしょうか、との質問に対して「そんなこと言われるわけがない、兄さんにも率先して殴られたんだもん、だけどね私が飛行学生になった時兄さんも教官としていてね、進路希望を出す時戦闘機乗りになりたくて戦闘機志望と出したんだけど、兄さんが進路希望どこに出したかと聞いてきて戦闘機と答えると、”やめときなよ戦闘機は危ないよ やめときなよ”と言いました」そうで、兄心ですね。
付記しておきますとお兄様の石丸豊大尉は昭和17年10月26日の南太平洋海戦において戦死されています。
昭和20年マルコットにおいて敵機の銃撃で戦死された満岡三郎さん(水戦より転科された方です)のことについて伺った際のこと「私はその場所に居ましたよ、私の部下ですよ、名前の記憶はありませんがその理由はね、私は戦闘701へはいきなりフィリピンに着任したものですから、部下の名前を覚える暇さえなかったのですよ」
大庭良夫さんはオオバヨシオ、林喜重さんはハヤシキジュウ、大野竹好さんはオオノチクコウと読むそうでオオニワヨシオ、ハヤシヨシシゲ、オオノタケヨシと発音して相手を混乱させたのは私(NAL)です。恥かしい。
岩下氏は”ぜろせん”と、251空は”にーごーいちくう”と発音されておりました、これで堂々と”にーごーいちくう”と発音できるようになって助かるな、”ふたごーいちくう”とは発音しにくいと思っていましたから。
多くの搭乗員の方々にインタビューされてきた方の言葉ですが、海兵65期−68期と続くライン(海兵1号生徒と4号生徒で繋がるラインです)、66期−69期と繋がるラインでは戦後でもその人の持っている雰囲気が異なるそうです、持つ雰囲気が変わる程殴り方が違っていたのですね。
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