大原さんを囲む会の記
2003年2月22日航空隊の搭乗員でありました、大原亮治さんの82歳のお誕生日をお祝いする大原さんを囲む会に参加させていただきました。
会場に着くまで
大原さんにお目にかかることができるのです、せっかくの機会ですから何か質問をと思いましたが、204空や横空についてはあまり詳しくありません。
何も思い浮かばなかったのですが、前日になってひらめきました、昔から気になっていたことを伺えばいいではないか。
豊田穣さんの空戦小説には七ミリ七で照準して二〇ミリ機銃を射つ場面が何度も出てきます。
所が日本海軍の戦闘機搭乗員だった方の手記にそうしたことを行うような記述が出て来た記憶がないのです。
豊田穣さんは誰かからそうした方法を聞いたことを小説に反映しているのでしょうが、これは実際に使われていたのでしょうか?。
8年程前に意外な所からこの疑問は解けました。
翻訳されたアメリカ海兵隊の搭乗員の方の手記に”ゼロは機銃で狙いをつけてから機関砲を射ってくる”と記述してある部分があったのです。
しかしこの方法はどの程度一般的だったのか?。
それと「7ミリ7で敵機を撃墜できるのか?」私は記憶が改変される前の坂井三郎さんの手記などで、困難だと確信しています。
(←ならなぜ聞く?、だってねえ、記憶改変後の坂井三郎さんの手記がねー」)
お聞きする機会があったらぜひ聞いてみよう、そう考え宿を出たのでした。
会場に着いて
定刻前に着いて皆様に挨拶し席に着いて大原さんをお待ちします。
幹事の方が送り迎えされるのかな?と想像していたところ、お一人で来られたので失礼ながら驚きました、お元気な方なのですね。
会の始まり
まず出席者が一人ずつ自己紹介をしてゆきます、飛燕復元に携わっている方とか、操練出身者の研究をされている方とか、模型雑誌などで発表されている研究者の方とか凄い方ばかりで、一介のSFファン如きがここに来るのは間違いだったか?とか一瞬思ってしまいました、一瞬だけだったけどね。
そして乾杯
自己紹介が終わって乾杯しましたが、大原さん私の隣に座っていますよ、どーする、じゃなくて黙って食べて飲んでいたら変だぞ、何か話さねば。
「大原さん、自分は作家の豊田穣さんの『蒼空の器』という小説でこういったことに興味を持ち始めまして、豊田さんは海兵68期ですから豊田さんの小説には海兵68期の方が沢山出てくるわけで、そうなると読者の私も海兵68期の方々に愛着が湧いてきまして」
(バカバカ、自分のバカ、大原さんに対して何を自分のことなど喋り出したですか?、質問はどうした質問は?)。
突然わけのわからない事を話し出した自分に対しても、大原さんは辛抱強く聞いてくださります。
しかし止まらない。
「大原さんの名前を知ったの海兵68期の川原茂人さんとのエピソードからなんですが、大原さんにとって川原さんの思い出はやっぱり殴られた思いでが全てなんでしょうか?」
突然のわけのわからぬ質問にも丁寧に答えてくださります。
「あの人は元気に溢れた人だったなあ、同郷だったから、戦地で会った時にも、おい頼むぞ、といったことだったんだがなあ」
しかし一端開いた私の口は閉じなかったのでした。(もうちょっと他の方の役に立つ質問をしろよー、その時の自分)。
「川原さんのことが書いてある本は他にはなくて大原さんが書き残してくださらなかったら、唯名前だけの人でしかありませんでした。(書き残してなどと故人に対するような表現をしておりますが、実際にそんな言い方をしてしまいました、口から出た後でしまったと思いましたが後の祭です、申し訳ありません、それに戦闘303の安部さんの手記にも出て来るのを失念していたらしいな)。204空には他に田上さんもいらっしゃいましたが、田上さんはどんな方でしたでしょうか?。」
「田上さんはねー、早くに戦死されてしまったから、あまり記憶にないですね、何しろあの当時の兵学校出の人はみんな元気に溢れていましたね」
「おとなしい方はいらしゃらなかったのですか?」「そりゃ100人いれば人それぞれでおとなしい人もいるよ、だけど、そら剣道だ、そら柔道だと普段からやっていれば、おとなしい人だってね、力がみなぎるようになるよ、そういうこと」
そして持参されていたアルバムを見せていただきました、「ほらこれが田上中尉だよ、それでこの人が私が一番尊敬している方だよ。
宮野善次郎さんの写真はアルバムの先頭に1ページ使って大きな写真が貼ってありました。
大原さんは宮野さんのことを唯、隊長とだけおっしゃります、大原さんにとって宮野さんがどんな人か判るようではありませんか。
続けてアルバムを見せていただいていると大正谷さんの写真がありました、横空にて紫電改による事故と書いてあります、宮野さんも、川原さんも、田上さんも、大正谷さんも、皆んな、皆んな死んでしまった。
文字で書かれた名前でしか知らない人々よ。自分にできるのは唯その名前を胸に刻み込むことだけです。
今になってみると、変な質問をしてしまったものだと、我ながら冷や汗ものです。
参加者の方の中で普段見ている掲示板の投稿者で普段から博識に感心している方かな?と思った方がいらっしゃったので、伺うとそうですと仰る、戦史の調査方法など色々教えていただく、と共に色々アドバイスしていただく、私は水上戦闘機隊についてのページを持っているのですが、その抜けている所や誤りも教えていただく、このページは色々な方に教えていただきながら作っているのですが、皆さん何の見返りもなく教えて下さります、有りがたいことです。
しかし、嗚呼、桑島良三さんも又戦没されていたのか。
吉良さんとは全くの初対面でインターネット上での交流も全くなかったにも関わらず、古くからの知己のごとく話が弾むのはやはり同じ趣味を持つがゆえなんでしょう。延々と話し込む
見かねて神立さんが声をかけてくださる、せっかく大原さんの話を聞く機会なんですから、お話を聞かれてはいかがですか?。
やばいよ、目的をすっかり忘れてたよ。
皆さんが集まっている所へ行って話しを伺う、皆さん夢中で酒のつまみも消化されぬままになっているのでつまみながら聞く。
大原さんは一つ一つの質問に懇切に答えてくださりました。
しかしどうしよう、話の流れを壊さずにどうやって質問する?。
そんなことを考えつつお話を伺ううちに答えが大原さんの口から出てきたのでした。
或る質問者の20ミリ機銃は弾道特性が悪く使い物にならないと聞きますがとの質問に対し、「20ミリ機銃は初速が遅いので弾道が下の方に曲がってゆくから命中しないため使い物にならないとよく聞くが、それなら最初から予測して射てと言いたい、飛行機はいろいろな態勢をとっているから予測して射つのは難しいが、7ミリ7で狙いをつけておいて、20ミリを射てばいい「7ミリ7で狙いをつけておいて、20ミリを射つということですか?」思わず鸚鵡返しにそう口走ってしまったが、いらいらしたりせずに「そういうこと」と返事してくださる、質問したかったことの答えがいきなり出てきましたから、思わず余分な口を開いてしまいました(汗)。
続いて敵機の防弾についての質問が出る。
「いくら射っても、墜ちないと聞くがね、そりゃ命中してないからだよ、防弾が強力だといってもね、防弾板があるのは操縦手の後ろで、翼にあるわけじゃない、10発も命中すればバラバラになるよ」。
何か機銃の話になってきて質問できそうな雰囲気になってきたのでもうひとつの質問をする、「7ミリ7で敵機は撃墜できるのでしょうか?」「7ミリ7で敵機を撃墜するのは難しいね、そりゃ100発も打ちこめは7ミリ7でだって敵機は墜ちるよ、それに7ミリ7は弾が多いからね無駄弾が射てる、7ミリ7を打ちこんでおいて、敵機が切り返すところを予測してそこに20ミリを射ちこむことだってできる」。
その他色々なお話を聞かせていただきました。
ごめんなさい、ちょっと疲れたので、他に聞かせていただいた話は、また後日紹介させていただくということで、今回は端折ります。
一月以内に紹介するつもりです。(できるか?)
会の終結
なごり惜しくも会の終わりの時はやってきます。
大原さん、幹事の方、参加者の皆様、どうもありがとうございました。
航空戦史を調べていると、あまりの多くの犠牲者の数に言葉も失います。
しかし、今日は大原さんの誕生日のお祝いです、こんな嬉しいことがありましょうか。
大原さん末永くご健康とご長寿を。
いつの日がまたご健康なお姿を拝見できる日が来ることを切望してやみません。
二次会
その後二次会の末席に加わらせていただきました。
皆さん博識で色々なお話を聞かせていただきましたが、聞くのが精一杯で、たとえばある搭乗員の名前が出て来てもなんのことやらわからず、長曽我部隊の唯一機の帰還機の操縦士と説明されてやっと解るていたらくでしたですよ。
上記の文章は記憶によって書かれたもので、実際に交わされた言葉とは相違があることをお断りしておきます。
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