M 「お久しぶりですS先生、やっ!Kさんも。」 S先生 「Sナローレイアウトの方はどうですか?Mさん」 M 「いや、さっぱり。趣味まで不景気ですね」(と頭を掻く僕) S先生 「今日はお見せしたい写真があるのですよ。市史編纂の資料の中で室山町の方から提供のあった写真なのですが。何だと思いますか?」 M 「え、2面4線のターミナルですね。真ん中のは機回り線ですね。それに貨物駅までセットしてある。線路はニブロクかな?先生、もしかして。」(と興奮気味の僕) S先生 「そのもしかですよ。これこそ『三重軌道と四日市鉄道の合同駅』」 M 「こりゃ、軽便としては見たこともないようなでかいターミナルですねえ。駅舎も線路もシンメトリー(対称形)。おまけにうまいぐあいにど真ん中に給水タンクだぁ。」 S先生 「三重軌道と四日市鉄道、すなわち現在の近鉄内部・八王子線と湯の山線は四日市市本町のJR四日市駅前に大正時代に合同駅があったことが知られていて、この写真の反対側の駅前広場から写した写真はこれまでの四日市市史にも掲載されていましたが、西側の線路側から写したものは初めて発見しました。」
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Kさん 「それで、この写真を配線図にしてマックでドローしてみましたのがこれです。右側は院線、つまり現在のJR関西本線の四日市貨物駅との積み替えホームにつながっています。また共同線として南方向に阿瀬知駅へも軽便の線路が延びているのが解ります。」 S先生 「当時室山は製糸業のメッカ。東洋紡の前身である三重紡績もここが原点。三重軌道の使命のひとつは上りは製品輸送、帰り荷は工場の原料と動力源の石炭を運ぶこと。したがって港とつながる阿瀬知川河口付近で海運と軽便をリンクさせようとしたのです。」 M 「軽便が港湾荷役に入る港っていいですね。レイアウト・ネタとしては面白い。あっ!写真でも小さなターンテーブルが二つもある。まるで模型のようにうまく収まっていますね。いやはや、ちょっとした模型のセクションにでもしたくなりますねえ。駅舎もシンメトリーになって仲良く2社が入居していたわけですか。」 Kさん 「駅舎は2階建てのかなり大きな建物で1階の真ん中が入り口、通路、改札になっています。両翼が2社の本社になっていて写真で向って右が三重軌道、左が四日市鉄道が使っていたようです。この写真はトリミングしてあるのですが、三重軌道の元重役さんの家にあったオリジナルの写真には写真に注釈があって『大正5年11月、四日市合同駅』とありました。先生の資料によると駅の開業日は大正5年3月です。」 M 「そういえば近鉄の線路は、そのころはありませんね。」 |
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S先生 「いやいや近鉄じゃなくて後の伊勢電鉄となる伊勢鉄道ですね。伊勢電鉄と大阪から延びた参宮急行が合併してできたのが近鉄。伊勢鉄道の線路は諏訪駅から国鉄四日市駅の間は軽便の線路敷を使って作られるので、昭和3年にはこの駅はつぶされて伊勢電の駅となるわけです。で2社の軽便の始発駅は西へ移って伊勢電の諏訪駅になります。」 M 「わずか12年くらいの命ですか。残念。しかし、こんな立派なターミナルだったとは想像もつきませんせした。まさに『幻のターミナル発見』ですね。それにしても伊勢電といい、2つの軽便といい当時の四日市の経済界の実力はすごいですね。今じゃ考えられないぐらい。」 S先生 「たしかにそうですが、軽便鉄道法の存在が大きい。当時、全国的な輸送体系の見直しが行われて、幹線の国有化と平行して地域社会の足として民間資本で軽便や電気軌道の普及を奨励しました。それを強力に推し進めたのが鉄道院総裁であった後藤新平です。」 M 「後藤新平は東京の都市計画でも知られる人物でしたね。国鉄の広軌改築論もそうでしたね。自動車もない時代の話だから地域にとっては喜ばれたでしょうね。」 S先生 「明治43年にできた軽便鉄道法は全文で8条しかない簡単な法律でしたが、いろいろな面で制約の少ない法令で、必要ならば市街地や道路上に敷くいわゆる「軌道」でも許可される。おまけに翌年には軽便鉄道補助法という法令までできて国有鉄道の益金から運営費に補助するということまで約束した。それで全国津々浦々から軽便鉄道の出願が殺到した。」 M 「それにしても、たった一枚の写真からずいぶん話が膨らみますね。いやあ、面白い。」 |
S先生 「いやいや、面白いのはまだあって左側の四日市鉄道だけホーム前面には背の低い給水用スポウトが2ヶ所見えます。これは四日市鉄道が16キロ先の湯ノ山まで上り坂であることと走行距離が長く、コッペルが水タンクの容量の大きいボトム式だったことによります。三重軌道は距離が短いためサイドタンク式でした。さらに奥の給水タンクを良く見てください。三重軌道のサイドタンク式コッペルが使っていたようですが、目的地である八王子や室山あたりは醸造業が盛んで創設者の中にも酒造業の笹野長七氏がいる。酒の仕込み樽を流用したのではないかと推理しています。」 M 「いや、酒樽の給水タンクなんて模型ネタとしても面白い。機関車が二日酔いしたりして(笑)。」 Kさん 「給水タンクやスポウトに関連して機関車の話がでてきたところで次回は2社の蒸機の話でもしませんか?」 M 「賛成!」 |
※)このターミナルがあった場所ですが、今は戦後の戦災復興区画整理事業ですっかり道路の位置も変わっています。右の写真の善光寺の山門(現在はない)の位置から現在の四日市市本町、四日市公共職業安定所(ハローワーク)のあたりと推定できます。本文にあるようにこの線路を使って現在の近鉄名古屋線の前身伊勢電鉄が敷設され、右奥方向津方面へ延びていきます。急激に回る俗に「5チェーン・カーブ」は軽便用に敷かれた線路の利用でやむを得ずできたものです。ちなみに、その後、線路は昭和31年には都市改造事業で市街地の北でショートカット、近鉄とJR関西本線それぞれの駅が中央通を会して向き合う現在の形となるわけです。 |
〔おことわり〕この記事は実際の会話を基にはしておりますが筆者の創作です。したがって文責は私(むらかみ・まさき)にあります。文中のS先生とは医師にして四日市市郷土史研究会会長、その実態はモデル・レイルローダー椙山満先生。Kさんとは先生の資料整理を担当され、ある時はイラストレーターにしてアメリカ型模型と軽便愛好家の小林泰夫氏のことです。今回もすてきな図面を提供していただいきました。時折、先生のお宅にお邪魔しては模型やアメリカの鉄道の話題で盛り上がり、時間を忘れて深夜まで話し込むこともしばしばです。 〔参考文献〕四日市医報「四日市に生まれた軽便合同駅 幻の大正5年」椙山 満 |