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蒸機軌道

M 「先日の合同駅の写真にはワブとかいうボギーの有蓋貨車だけで機関車が写ってないのが残念でしたけれども2つの軽便会社の開業当初の機関車といえば・・」

S先生 「OK!じゃなくてO&K。すなわちオーレンシュタイン・ウント・コッペルですね。例の『自転車に抜かれた』(笑)。三重軌道(現在の近鉄内部・八王子線の発足当時の名前)のコッペルは頻繁に西日野駅の向こうの坂で登れなくてストップ、乗客が降りて押したという、何とものどかなエピソードが残っています。」

K 「今日の話題にしたいのは三重軌道のトラム型コッペルのことなのですが」(と写真をだす。)「先生のコレクションの1枚で輸入してばかりの時に八王子駅で写したものです。」

M 「これがなかなか魅力的で模型心をそそるというか・・メーカーズ・プレートやステップのところに見える三重軌道と書かれた工具箱がいいアクセントですね。」

Kさん「そうですね。9ミリナローならスカートで隠れるのでバルブギアの心配がいらなくて、Nゲージの下回りの流用が簡単ですね。」

M 「Oナローならパワトラとかね。だけど熱心な蒸機マニアはそれでは納得できなくて、この写真のようにスカートのチョロ見せにするかもわからない。その方が色っぽいとかいってね。」(大爆笑)

M 「三重軌道が、そもそも、なぜこんな仕様の機関車をドイツに発注したのか?それが大きな問題ですね。そもそも会社の名前がなぜ『三重軌道』なのでしょう。」

S先生 「会社設立の時期は三重軌道が明治43年、四日市鉄道(現在の近鉄湯ノ山線)が44年。前回に話題にした軽便鉄道法成立が43年ですから設立申請時期はなんとも微妙な時期なのです。伊勢にもあった雨宮敬次郎の大日本軌道鰍ヘ法律ができる前に軌道条例の解釈によった軽便の先駆といわれていますが、それに習って三重軌道も「蒸機軌道」として計画されていたのではないか、と考えられます。」

keiben_route00c_s.jpg (64161 バイト) M 「すると四日市の市街地は併用軌道のはずだった?」

S先生 「そうです。明治30年に市制施行がなったばかりの四日市市の四大事業のひとつとして知られる諏訪新道は、その完成が40年。三重軌道はできたばかりの道路の上を走らすことも計画した。」

M 「新道は別名『十二間道路』、幅が22メートルあり、諏訪神社と旧港を結んでおり、今でも市街地の骨格をなす道路です。トラムを走らそうと考えたとしても不思議ではないですね。」

Kさん 「三重軌道の考えていた四日市市街地の路線の3ルートを図面にしてみました。海運との接続を考えた阿瀬知川沿いルート案、当時の繁華街に近い諏訪新道ルート案、そして結局、出願され実際につくられた四日市鉄道と仲良く並んで一見複線の真中のルートです。」

M 「やっ!またでた得意のマック技ですね。」

S先生 「諏訪新道ルートは市役所の反対でつぶれるわけです。理由については定かではありませんが、2社とも起点の四日市駅からではなく市街地を避けて終点から工事にかかっているのは、市街地のどこを通すのか、なかなか決まらなかったのが背景にあるのかもしれません。」

Kさん 「市役所の反対というより、四日市鉄道との関係かもしれません。三重軌道に諏訪新道をとられると四日市鉄道が院線四日市駅にタッチするにはクロスすることになる。」

M 「なるほど。それでどっちになってもいいようにO&Kにはトラム型蒸気機関車を発注したということですか?」

S先生 「いや三重軌道は西日野〜八王子も道路脇を走っていたので、あくまで計画上のコンセプトはといえば、『軽便』ではなく『蒸機軌道』なのかもしれません。」

M「うーん。四日市の目抜き通りの真中をナローのトラムが通っていたかもしれないと考えるだけでも楽しいですね。のちの三重交通の電車も花巻のような形になっていたかもしれない。さらに今残っていたら観光資源になったかも?と想像が膨らみます。」

四日市鉄道のコッペル

M 「話をこの機関車に戻しますが、故金田茂裕さんの「ポーターの機関車」の巻末にこのトラム式蒸機の写真とともに四日市鉄道と安濃鉄道のコッペルに関する話がでていますが、その顛末をお話いただけませんか?」

S先生 「金田さんの『O&Kの機関車』に『1911年製Wnos.4698―4700の3輛は安濃鉄道Nos.1―3であった。ブーデ・リストには納入先を三重軌道としているが、ORリストでは四日市鉄道への納入3輛と書かれているのがこの機関車だと思われる。約一年後に譲渡(四日市鉄道から安濃鉄道)されたのではないだろうか』(P50)という記述があるのですが、(※注)ブーデ・リストとは、近年ドイツで発行されたO&K社の研究本、ORリストとは現存するO&K社日本代理店オット−ライメルス社の納入リストの事です。

 そもそも金田さんの推測どおりだとすると、四日市鉄道の3両のコッペルは、1911(明治44)7月頃に四日市到着後、すぐに新品同様で安濃鉄道に譲渡されたことになります。そんなことがありえるだろうか、それと製造番号4698−4700は三重軌道の機関車の番号のはず、という疑問が発端です。それで金田さんに三重軌道のトラム型コッペルの写真を送ったところ、金田さんは写真を引き伸ばしてメーカーズ・プレートの製造番号の判読に挑戦した。」

M 「今ならパソコンの画像処理があるので楽でしょうが、金田さんもたいへんだったでしょうね。それで結果はどうだったのですか。」

S先生 「金田さんは4700という番号を確認した。4698-4700のO&Kはまさしく三重軌道の機関車だとわかった。それで『ポーターの機関車』の中で改めて載せることになった、というのがことの顛末なのです。金田さん自身、かなり驚かれた様子でした。」

Keiben_koppel01s.jpg (44586 バイト) M 「それじゃ、安濃の方はどうなるのですか?」

Kさん 「安濃鉄道は明治44年(1911)に軽便鉄道出願をしていますが、数次にわたって申請の延期をし、大正3年(1914)にようやく一部開業にこぎつけます。申請出願書類に記された3台の機関車の性能データはまさしく四日市鉄道の5トン・ボトムタンク、しかし製造番号は三重軌道の4698-4700という矛盾がそもそもの発端。ひょっとして書類上の架空の機関車かもしれません。私はかの金田さんもこの『詐欺的書類』にだまされたのではないかと疑っています。」

M 「ぎょつ!過激な。でも安濃のコッペルの写真もあるのでしょ。」

S先生 「牧野俊介さんが昭和13年に車庫で取ったものがあり(『自転車に抜かれたコッペル』参照)、安濃に存在したのは確かなのですが製造番号の板はわざと外されていた。戦時中の金属供出の時代ならともかく、何とも奇怪な話なのです。」

M 「むむつ、のちの変な形の『ジハ』とか、やはり『安濃』はあやしいですね。」

S先生 「『清水の次郎長』じゃないのだから(笑)『詐欺的書類』の真偽はともかく、おそらく四日市鉄道の電化後、例のGEスケネクタディの箱型電機が3台入りますので譲渡の時期はその時点大正10年ごろが真実なのではないか、それまでは雨宮製の蒸機を専ら使っていたのではないか、と考えています。」

M 「また今回も一枚の写真から、ここまで話が膨らんでしまいましたが、ボックス・キャブがでたところで次回は電化後の四日市鉄道の話をお願いできませんか?」

三重軌道

機関車:三重軌道1〜3号機(Orenstain& Arthur Koppel A.G.1911)

客車:三重軌道ホハ1、ホハ2(日本車両1912) 

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四日市鉄道

機関車:四日市鉄道1〜3号機(Orenstain& Arthur Koppel A.G.1911)

客車:四日市鉄道ホハ1、ホハ2(名古屋電車製作所1913) 

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