長谷川 潤 牧師
1962年 群馬県桐生市生まれ
1993年 神戸改革派神学校卒業後、兵庫県神戸市西区で
開拓伝道に12年間従事
2005年 8月~ 改革派四日市教会、桑名伝道所牧師就任
2006年 4月~2015年3月 学校法人 まきば学園まきば幼稚園宗教主事
2006年 6月~2015年3月 同学園理事
2012年 4月~2015年3月 学校法人 まきば学園まきば幼稚園 園長
朝礼拝 11月24日(日) 午前 10:30~12:00
説教者:長谷川潤牧師
説教題:「はらわたがちぎれる神」
聖書:イザヤ書 第16章
午後の予定
映画会 午後1:30~
「死線を越えて」賀川豊彦物語
※ 定期相談会(教師会含む)
「桑名教会福音名画座」
桑名教会から映画会のご案内
(担当:鈴木 章)
桑名教会のホームページをご覧くださり、ありがとうございます。
・わたしども桑名教会の正式名称は日本キリスト改革派四日市教会所属桑名伝道所です。教会の規則では伝道所ですが、教会も伝道所も同じキリストの教会です。
・ホームページのこの福音名画座は堅苦しいことは抜きにして、キリスト教関係の名画を一緒に楽しみ、映画をとおして聖書の福音を知っていただくことで「桑名教会福音名画座」としました。
・どの映画会も無料です。茶菓の時を持ちつつ、映画やキャストへの想いなどを語り合う ことを楽しみにしています。
・映画館でも是非見ていただきたいと願っています。
・本来ならこのホーム・ページに名画の写真を掲載したいのですが、製作者の大切な著作 権侵害にあたりますので、残念ですが、写真を掲載することができません。
・上映映画が何を語ろうとしているのか、また映画製作者の篤い想いを、映画製作の裏話 のDVDがある場合には、そのDVDも見てみたいと願っています。
・このホーム・ページでは、映画の中で示されている聖書のみことばを掲載し、福音(善 きおとずれ、良き知らせ、良きニュースなどの意味)をお知らせできればと願っていま
す。
・今までの映画会で上映してきました作品は
①
2023年 4月23日「海嶺」(三浦綾子原作)
②
2023年 8月27日「塩狩峠」(三浦綾子原作)
③
2023年10月22日「瞬きの詩人」(水野源三さんの生涯を描いた作品)
④
2023年12月17日「偉大な生涯の物語(前篇)」
⑤
2024年 3月24日「偉大な生涯の物語(後編)」
⑥
2024年 4月28日「十戒(前篇)」
⑦
2024年 5月26日「十戒(後半)」
⑧ 2024年 6月23日「炎のランナー」
⑨ 2024年 7月28日「目からうろこシリーズ 聖書を読んだサムライたち1」
⑩ 2024年 9月22日「目からうろこシリーズ 聖書を読んだサムライたち2」
⑪ 2024年 11月24日「死線を越えて」 賀川豊彦物語
このホーム・ページを開設した願いは、映画の中で語られ、翻訳された字幕スーパーのみことばが、ご覧になった皆様の心の内に生きてはたらき、いつの日かみことばが、その人の内にキリストの香りを放つ善き人生への歩みの一助となればと願っています。映画をご覧になって心に残った聖書のみことばがありましたら、世界のベストセラーの聖書を読んでいただければとても感謝です。そのための福音名画座でありたいと願っています。
わたしは映画については全くの素人で、ただただキリスト教の映画が大好きでひとりで楽しんでいたのですが、ただ一人で楽しんでいても勿体なくて、多くの人にキリスト教の名画を知っていただきたいと願って、ささやかながらこのホーム・ページを開設いたしました。
映画に詳しい方はたくさんおられると想います。良きアドヴァイスをいただけると感謝です。
今回は、⑥ ⑦の映画「十戒」について、個人的な想いで掲載いたします。
・この映画は、上映の最初にセシル・B・デミル監督が劇場の緞帳を開けて出て来られて観客のわたしたちに挨拶をされ、映画製作の想いを熱く語られています。わたしはこのような映画を他に見たことがありません。この映画「十戒」に対する熱意と、映画を愛する方々への監督の誠意に心をうたれた一人です。
・この映画音楽を担当されたエルマー・バーンスタインの名曲も素晴らしいです。十戒の
レコードも買いました。「十戒」の映画は二十回以上観ましたが未だ飽きることがあり
ません。映画音楽も何度聴いても飽きることがありません。劇場での迫力には圧倒され
ます。皆様も映画館で上映されているときは是非ご鑑賞ください。
DVDも今では安価ですので是非お買い求めくださって、自由な時間にご自宅で何度で
もお楽しみください。
・この映画は、一コマ一コマが大切につくられていて、どの場面もどのセリフも無駄なところがありません。脚本も翻訳も素晴らしいと想います。
・ひとつ一つのセリフにも作者の想いが詰まっており、その中に作者の福音への想いが込 められているように想いました。語られるセリフやみことばに想いを傾けていただきた
願っています。
・「十戒」について、まったくご存じない方もおられるかもしれませんので、以下をご覧ください。
・「十戒」は、普通「じっかい」と呼びますが、国語辞典では「じっかい」とも
「じゅっかい」とも書かれています。
一般的に礼拝で用いられることばは、
【口語訳聖書】
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した
①あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
②あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。それにひれ伏してはならない。
③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
④安息日を覚えて、これを聖とせよ。
⑤あなたの父と母を敬え。
⑥あなたは殺してはならない。
⑦あなたは姦淫してはならない。
⑧あなたは盗んではならない。
⑩あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
かと想います。① ② ③~の番号は便宜的につけました。
(20:1とは出エジプト記20章1節のことです。)
出エジプト
20: 1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20: 2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神 である。
①20: 3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
②20: 4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また
地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20: 5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父
祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20: 6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
③20: 7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を
④安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20: 9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならな
い。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に
寄留する人々も同様である。
20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれ
たから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
長く生きることができる。
⑥20:13 殺してはならない。
⑦20:14 姦淫してはならない。
⑧20:15 盗んではならない。
⑨20:16 隣人に関して偽証してはならない。
⑩あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
のを一切欲してはならない。」
「十戒」は今から3000年以上も前に、歴史をとおしてわたしたちに語られた大切な
神様からのみことば、聖書(旧約聖書 出エジプト記31章18節)には、このように
記載されています。
「31:18 主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の
指で記された石の板をモーセにお授けになった。」
映画の中でも、この名場面が特殊技術で描かれていました。
この「十戒」が、イエス様とどのような関係なのか、ハーレーの聖書ハンドブック
P.123には、
天地の創造主である聖書の神様は、「わたしは主、あなたの神である」と、あなたに語
り掛け、あなたに呼びかけておられます。
新約聖書マタイによる福音書11章28節で、
たを休ませてあげます。」と、イエス・キリストご自身があなたに語られています。
・今年2024年は、7月26日から8月11日まで、パリ・オリンピックが開催されま
す。
・実は、1924年のパリ・オリンピックから、ちょうど100年にあたります。
1896年 第一回オリンピック:アテネ開催。
1900年 第二回オリンピック:パリ開催
1924年 第八回オリンピック:パリ開催(二回目)で、
当時の日本選手団で陸上競技のほとんどが、棄権と予選落ちでした。
男子三段跳び競争は、織田幹雄選手が6位、
・日本人選手の名誉のために以下記載
(谷 三三五選手)
・男子100メートル競走は、谷 三三五(たに ささご)選手で、日本人で最初に
10秒台の記録を持つ選手でした。第14組に出場し3位でしたが、残念ながら1次予選
落ちで記録なしで
りました。30メートル
エイブラハムスらに追い抜かれ、まったく歯が立たなかったとのことです。
・因みに谷三三五選手は、極東選手権競技大会では、1925年マニラ大会で銅メタルを取り
ました。
(納戸 徳重選手)
・400メートル競走は、納戸 徳重(のと とくしげ)選手でしたが、1次予選落ちで
した。エリック・リデル選手と一緒のレースで戦ったかどうかは不明です。
・納戸徳重選手は、1924年パリ・オリンピックに、男子400メートル、男子800
メートル、男子十種競技で出場しました。なお、オリンピックの1大会で11種類の競技
(400mは十種競技に含まれる)に挑んだ点で、納戸は2020年現在日本最多記録
の持ち主である。とウィキペデアに書かれていました。
(映画の主人公は二人です。)
・映画の主人公は、ハロルド・エイブラハムスと、エリック・ヘンリー・リデルの二人で
す。
たらと願っています。
・ハロルド・エイブラハムス1899年12月15日~1978年1月14日(78才)
走ることで自分自身の栄光を勝ち取り、真のイングランド人になろうとするユダヤ人・
ランナーです。
・エリック・ヘンリー・リデル 1902年1月16日~1945年2月21日(43才)
プロテスタントの中でも厳格な長老派である、スコットランド人牧師(宣教師)の家庭
に生まれ、聖書に示された律法である安息日を大切に守るキリスト者ですが、単に
「十戒」という律法にあるからという堅物(かたぶつ)な人間的な性格によるのではな
く、また人生の目標をこの世の常識に置く人生観でもありませんでした。彼にとっては
礼拝をとおしてあらわされる救い主イエス・キリストを愛するが故の喜びでありました
それは赦されることのない彼の罪のために、主イエス・キリストが十字架に架にかかり
死んで三日目に復活された喜びの日、それが復活の日であり、安息日であったからです
神様の栄光をあらわす目標が聖書の大切な教えにあり、2000年来守られてきた日曜
日の礼拝は、単なる休みの日ではなく、わたしたち罪人の罪を贖うために、自ら十字架
に架かられ、死から復活された記念の日であるからです。主イエス様が十字架に架から
れるその前に教えて下さった「最も大切で重要な教え」でありました。
・それがマタイによる福音書の22章37節~40節に記されています。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの
神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
・リデルにとって最も大切な戒めであり、人として最も大切な生き方が、このみことばだ
ったのです。彼にとっては、神様を愛し、隣人に主イエスの愛を伝えあらわすことが最
高のよろこびでありました。彼は自分の栄誉のために走るのではなく、主イエス様から
与えられた賜物を用いて神様の栄光のために走る喜びを見出した、一人のイギリス人ラ
ンナーでしかありません。ですから自分の栄光ではなく、神様が人となられた救い主、
イエス様の愛に溢れたご栄光を、礼拝をとおしてあらわされた安息日、日曜日を感謝の
日、生きる喜びの日としてあらわしたかったのです。
・エリック・リデルは、優勝候補であった100メートル競技を日曜日に出ることを、拒
否したため、殿下やオリンピック競技会会長、団長の名だたる責任者からの忠告よりも
オリンピック規則よりも、主イエス様を愛する信仰を優先し、予選の100メートル競
技に出ないことを選びました。
・それは昔、主イエスの使徒であったペトロたちが、ユダヤ最高法院の人たちから、
「イエス」の名を用いるなと命じられたときの事が使徒言行録の中に記されています。
最高法院が用いるなと命じた手前「イエス」という名前を使うことができないため
「あの名」と表現しています。
(新改訳聖書)
5:28 「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのに
何ということだ。おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった
そして、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしている。」
5:29 しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。
5:30 私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせまし
た。
5:31 神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手
、また救い主として、ご自分の右に上げられました。
5:32 私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊
も証人です。」
・リデルは、国家の威信や殿下への忠誠心よりも、神様の御心、みことばを優先し神様の
教えに従いました。このように主から勇気をいただいて、きっぱりと断ったのです。
同僚がリデルのために競技種目の変更を申し出たことにより、リデルは100メートル
競技ではなく、400メートル競技に出場することになり、47.6秒の世界新記録で
金メダルを取りました。数日前の200メートル競技では銅メダルを獲得し、2つ目の
メダルとなりました。
映画はエリックたちの凱旋勝利、そして英国の聖歌として愛国歌「エルサレム」が歌わ
れています。
・ハロルド・エイブラハムスは、弁護士、英国陸上界長老として、1978年1月死亡。
・エリック・リデルは、終戦6か月前、任地(宣教地である)中国で死亡。全スコットラ
ンドが喪に服しました。
・しかし、わたしは想います。エリック・リデルは、オリンピックだけではなく、任地中
国にて走るべき行程を走り抜き、神様の栄光をあらわし、彼の名が記されている天の御
国である主の御許に招き入れられたのだと。
・とてもすばらしい映画です。わたしは映画だけではなく、EHCトラクトと、下記の本
(「闇に輝くともしびを継いで」)をとおして、個人的にはもっとすばらしいエリック・
リデルに会いました。リデルの生き方に感動を得た一人です。
・エリック・ヘンリー・リデルの生涯はオリンピックまでではなく、オリンピック後、こ
こからが始ま
(宣教師エリック・ヘンリー・リデル)
・以下は、「EHCトラクト」で、「真の栄光をめざしたアスリート(金メダリスト、
エリック・リデルの生涯)」から、一人の少年を知りました。
・そのときの状況が、トラクトにも、下記の本、スティーブン・メディカフ著「闇に輝
ともしびを継いで」(宣教師となった元日本軍捕虜の76年)の本にも書かれています
・収容所でのある日、リデルの聖書クラスで「山上の説教」(マタイの福音書5~7章)
を学んでいた時のことです。リデルがその箇所から、神に喜ばれる生き方を話している
と、「自分の敵を愛しなさい」というイエス・キリストのことばに、生徒たちが反発し
ました。当時「敵」といえば日本兵でし
・わたしはこの少年のことが知りたくなり、調べてみました。
・その少年とは、イギリス人宣教師(中国宣教師)の子で、スティーブン・メティカフと
いう人です。彼は、日本軍の収容所内でエリック・リデルが日曜学校で「山上の説教」
の話しを聞いて、リデルと意見の対立が生じました。
・早速、スティーブン・メディカフ著「闇に輝くともしびを継いで」(宣教師となった元
日本軍捕虜の76年)の本(いのちのことば社フォレストブックス発行)を買い求めて
読みました。今は品切れの
・スティーブン・メディカフの著書「闇に輝くともしびを継いで」(宣教師となった元日
本軍捕虜の76年)」の中に当時の日本兵の事が書かれています。
・当時、日本海軍の将校が、学校関係者を呼び出し、寄宿学校の年長の少女たちをすべて
、海軍の慰安
その後は何も言って来なか
させ、慰安婦にするという悲しい結果に終わったと(P.32)書かれています。
・同著のP.50~53(抜粋)には以下のようなことが書かれていました。
・「日本兵による中国人へのむごい仕打ちを見せつけられていた。私は、両目をえぐり出
された人が目を下に垂らした姿でリヤカーに乗せられて、市中を引き回されているとこ
ろを見たことがある。そのとき彼はまだ生きていた。生きたまま両目をえぐり出された
のである。スパイ容疑などで殺された人が、見せしめにさらし首にされているのも見た
。友人のレイの母親は南京で看護婦をしていたが、勤めていた病院に南京大虐殺の犠牲
者が次々に運びこまれてくるのを見ているうちに、その傷のむごたらしさに、神経が完
全にまいってしまった。中には、小さな肉片になるまで切り刻まれた女性の死体なども
あったという。同じ殺すにしてもなぜそこまでしなければならないのか。これが人間の
やることなのか。目に入ってくること、耳に入ってくることのすべてが、とうてい赦せ
るようなものではなかったのである。愛せるはずがない。この教えはやはりあくまでも
理想だ。私たち少年の意見がそう
言った。「僕もそう思うところだったんだ。だけど、このことばには続きがあることに
気がついたんだよ。『迫害する者のために祈りなさい』という続きがね。ぼくたちは愛
する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者
のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎
むとき、きみたちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、きみたちは神中心の人間に
なる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ」。そ
う言うリデル自身、毎朝十五分早く起きて日本と日本人のために祈っている人だった。
・リデルを心から敬愛し、彼のようなクリスチャンになりたいと思って、日本と日本人の
ために祈り始めた。が、日本人の振る舞いが変わることはなかった。
・しかし、祈るようになってからは、「~これが戦争だ。ひどい戦争だ。今の彼らは死に
慣れっこにな
られた大切な存在であることも知らないであんなことをしている」と思うようになった
。それは強い怒りでもあり、悲しみでもあったが、憎しみではなくなっていったのだ。
・また、そんな残酷なことをする日本兵であっても、彼らは神に愛されている存在なのだ
と思うようになった。
・十字架に架かられたイエス様のはかりしれない苦痛の中で「父よ。彼らをお赦しくださ
い。彼らは、
・日本兵たちもまた、自分が何をしているのか、どれほど神を悲しませ、苦しませる恐ろ
しい罪を犯しているのか。~そんな彼らのことをも、神は憎んでいたのではない。愛し
ていたのだ。そう思うと、
様のもとに立ち返ってくれればいいと思うようになっていった。
・リデルが教えてくれた「きみの姿勢が変わる」とはこういうことだったのか、と体験し
て初めてわかった。
・リデルのことばを聞いた一人の少年は、その時から日本兵のために祈るようになり、後
に宣教師となって来日し、生涯を日本宣教にささげる人とされました。
・エリック・リデルはその三週間後、脳腫瘍で1945年2月21日、43才でイエス様
の天の御国に帰っていきました。まだ戦争中であったため、奥さんと子どもたちはカナ
ダに疎開していて、愛する家族と会うことができないまま、(カナダで生まれた三女の
顔を見ることなく)葬儀はほんの十数人だったということです。
・リデルは、亡くなるその少し前に、少年であったスティーブン・メディカフに、「きみ
もその靴をかなりはきつぶしているようだね。また冬が来ることだし、僕のこの靴なら
二、三週間はもつんじゃないかな」と言うと、軽くうなずいてその手にその靴を押しつ
けていった。」と、スティーブンの書い
の靴が、リデルがオリンピックで履いていた継ぎはぎの靴であることを後になって知っ
たのです。
「闇に輝くともしびを継いで(宣教師となた元日本軍捕虜の76年)P.54より」
・原題のChariots of Fire の、Chariot(チャリオット)とは「戦車」のことで、古代
の二輪馬車
英和辞典)とのことです。
・この映画のタイトルのモチーフ(動機)となったのは、旧約聖書の中の列王記の主人公
ともなった預言者「エリヤ」が炎の戦車に乗って地上を見下ろすシーンであり、ウィリ
アム・ブレイク作「ミルトン」の序詞からとられた詩「Chariot of Fire」であると
、下記の詩がウィキペデアに書かれていました。
Bring me my bow of burning gold! わが燃えたぎる黄金の弓をもて
Bring me my arrows of desire! 欲望の矢を、槍をもて
Bring me my spear! 0 clouds unfold! 雲よ散れ
Bring me my chariot of fire! わが炎の戦車をもて
・1916年のこの詩に曲がつけられ、英国では愛国歌として歌われている「エルサレム
」であり、映画のラストで聖歌隊によって歌われているとのことです。
(わたしにはこの詩や歌がよく理解できていません。申し訳ありません。)
映画音楽は、ヴァンゲリスが作曲し、日本でも有名になり、世間で良く聴かれる名曲で
す。
・エリック・ヘンリー・リデルについて
1902年1月16日生まれのイギリス人ですが、生誕地は中国の清の時代、天津の
生まれです。1945年2月21日(43才)で死亡。
国山東省に位置する地級市です。イホウ市の「い」は、サンズイ編に維新の維です。
エリック・リデル選手の記録
・身長:173センチ 体重:68キロ、
・自己ベスト記録は、100ヤード( 9.7秒)1923年
220ヤード(21.6秒)1923年
400m (47.6秒)1924年
・単位 1ヤード=0.9144m
・パリ・オリンピック記録 200m(銅メダル)
400m(金メダル)
⑪2024年11月24日「死線を越えて」賀川豊彦物語
(Ⅰ)賀川豊彦の人物について
(参考:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
①
1888年(明治21年)7月10日、兵庫県神戸市で生まれ。
②
1960年(昭和35年)4月23日召天(71歳)。
③
父賀川純一は回漕業者。母菅生かめ(徳島で芸妓)。
④
4歳の時に父母と死別し、姉と共に徳島の本家に引き取られ、血のつながらない父の本妻と祖母に育てられるが、「妾の子」と陰口を言われ孤独な幼年時代を過ごした。
⑤
15歳の時、賀川家は破産、叔父の家に移る。
⑥
旧制徳島中学校(現在は徳島県立城南高等学校)に通い、1904年(明治37年)日本基督教会徳島教会にて、南長老ミッション宣教師H・W・マヤスより受洗。
⑦
この頃安部磯雄、木下尚江の著作を読みキリスト教社会主義に共感。トルストイの「戦争と平和」の反戦思想の影響を受け、軍事教練サボタージュ事件を起こす。
⑧
伝道者を志し、1905年(明治38年)明治学院高等部神学予科に入学・卒業。
⑨
1907年(明治40年)新設の神戸神学校(のちの中央神学校)に入学。
⑩
結核に苦しみ、信仰への懐疑に煩悶しながら、貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたいと一念発起し、1909年(明治42年)神戸市新川のスラムに住み込み路傍伝道を開始。
⑪
1909年(明治42年)12月24日新川の貧民窟に転居、救霊団(のちの神戸イエス団)事業を開始。
⑫
1911年(明治44年)神戸神学校を卒業。
⑬
1912年(大正元年)に一膳飯屋「天国屋」を開業。
⑭
スラムで芝ハルと出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げた。 (ハルは印刷工場に勤務していた父の転勤で、家族と共に横須賀から神戸に転居し、父が勤務する印刷工場の女工となった)
⑮
賀川とハルは、スラムで貧民数歳活動に献身し、ハルは不衛生な環境によりトラコーマに感染し右目を失明する。
⑯
1914年(大正3年)渡米し、プリンストン大学・プリンストン神学校に学ぶ。
⑰
1915年(大正4年)渡米前に執筆した「貧民心理之研究」が出版。
⑱
1917年(大正6年)帰国。
⑲
1919年(大正8年)友愛会「関西労働同盟会」を結成。理事長。日本基督教会で牧師の資格を取得。
⑳
1920年(大正9年)自伝的小説「死線を越えて」を出版、100万部一大ベストセラーに、他著作の原稿料、莫大な印税を社会運動に投じ、労働者の生活安定を目的とし、神戸購買組合を設立し、生活協同組合運動にも取り組み、同組合はのちに灘神戸生協を経て、日本最大の生協となったコープこうべへ発展。
㉑武藤富男らとともに、キリスト教系新聞「キリスト新聞(キリスト新聞社)」を立ち上げた。
㉒1921年(大正10年)神戸三菱造船所、川崎造船所における大争議を指導し、労働者と警官隊と衝突し、賀川を始め百数十人の幹部が一斉逮捕され、戦前最大の労働争議は、労働組合側が敗北に終わった。これを契機に賀川は「無抵抗、非暴力」を訴える。これより「農民運動」の活動に切り替える。
㉓1922年(大正11年)日本農民組合を設立。
㉔1923年(大正12年)関東大震災を機に、「本所基督教産業青年会」を発足。「貧民診療所」などを経営。罹災者救済活動を行う。
㉕1926年(大正15年)労働農民党を結成。廃娼運動にも参画。
㉖1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していった。
㉗1929年(昭和4年)日本基督教連盟特別協議会を主導し、「神の国運動」を議決。
㉘1932年(昭和7年)「福音伝道」で全国並びに米国、中国、欧州世界各国で講演活動。
㉙1940年(昭和15年)8月25日、渋谷憲兵隊に反戦的平和論で拘引される。
㉚1943年(昭和18年)5月27日、神戸で憲兵隊に留置取り調べを受ける。第二次世界大戦に関しては「国際戦争反対者同盟」に属したが、11月13日の憲兵隊による取り調べを境に、同同盟を脱退。「国際友和会日本支部」を自ら解散。賀川は、徳島中学時代に軍事教練拒否で鉄拳制裁を受けるなど、生来の平和主義者であり、その平和思想を危険視する憲兵隊に逮捕されるなど弾圧を受けるが、太平洋戦争(大東亜戦争)後期においては(一説には太平洋戦争当初から)、多くの宗教家と同じく戦争に協力的な姿勢であった。これは、賀川が設立した協同組合等社会事業とその関係者や、彼を慕う多くの弟子・支持者を軍部の弾圧から守るため「取引」をしたものともいわれる。
㉛1944年年10月20日、宗教使節として中国に赴く。敗戦により中止となったが1945年(昭和20年)8月16日には賀川も奨励者として名を連ねる「戦意昂揚音楽礼拝」が「日本基督教団戦時活動委員会」の主催により予定されていた。
㉜1946年に学校法人桜美林学園の創立のため、町田市内の米軍工場跡を安三に提供した。安三と共に桜美林学園創始期の運営に携わり、初代理事長に就任したが、後に方針の違いから安三と袂を分かつ形で桜美林学園を去っている。
(Ⅱ)政治家・賀川豊彦
①戦後は、1945年(昭和20年)10月1日に芦田均、安部磯雄、有沢広巳、馬場恒吾らと自由懇話会を結成して政治活動を開始。東久邇宮内閣参与や貴族院勅選議員(1946年3月12日就任、登院は一度もなかった。「東久邇宮捻彦王(ひがしくにのみや
なるひこおう)内閣」
②
1947年5月2日まで在任)を務め、日本社会党の結成にも参画した。民間人として初めてマッカーサーに会った人物であるとされている。終戦直後の目立った活動としては「一億総懺悔運動」への協力が挙げられる。マーク・ゲイン著『ニッポン日記』によると、東久邇宮稔彦王の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとのことである。同書には、一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判が連合国軍総司令部(GHQ)により封じられていたともある。
③
幣原内閣解散後の吉田内閣組閣の難航に伴い、総理大臣候補として名が挙がったこともあるという。
④
晩年は世界連邦運動に取り組む。
⑤
1947年(昭和22年)と翌1948年(昭和23年)にはノーベル平和賞の候補となり(1947(昭和22)年は候補48人中、1948(昭和23)年は候補45人中)、1954年 (昭和29年)1955年(同30年)1956年(同31年)および1960年(同35年)の4回にわたりノーベル平和賞候補者として推薦された]。
⑥
大宅壮一によると、賀川はクリスチャンかつ労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、日本社会における天皇(天皇制)の存在意義を積極的に認めていたという。⑦日本社会党結党の際には、中間派の浅沼稲次郎らと共に中心メンバーとなり、結党大会で「天皇陛下万歳」三唱の音頭を取ったことで、社会党左派との内部対立を引き起こした。
わたしは今回、賀川豊彦を調べてみて、内閣総理大臣候補者、ノーベル平和賞候
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南長老ミッション宣教師 ハリー・W・マヤス
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ハリー・ホワイト・マイアース
(71才)
生涯
アメリカ合衆国バージニア州レキシントンに生まれる。ワシントン・アンド・リー大学を卒業する。1897年にレキシントン中会で按手礼を受ける。来日して、岡崎、徳島、豊橋を経て、1907年より神戸で伝道を始め、神戸湊西教会を設立する。その間、1904年に賀川豊彦に洗礼を授ける。1941年神戸神学校の校長になり、ギリシア語、新約聖書学だけではなく数学と天文学も追及する。日米開戦について批判して逮捕され6か月投獄された。1942年6月釈放され、交換船でアメリカ合衆国のニューヨークへ渡り、同地で没した。
賀川豊彦と宣教師マイヤースは、共に71才の生涯でした。
マイヤース宣教師は、まるで賀川豊彦に洗礼を授けるために、主が日本に遣わされたかのような気がしました。