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地域に根ざした 四日市市松本にある教会

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    元気になるお話し


 確かな慰めに生きる・その一 〜信仰のホップ

今、あなたは、心が沈んでいませんか。慰めを必要としていませんか。

 世界の大ベストセラー・聖書が提供してくれる確かな慰めをお届けしましょう。

 パウロという人をご存知でしょうか。パウロは、今から2000年ぐらい昔、キリスト教を地中海世界に伝えた人です。その人が書いた手紙が聖書の一部となっていますが、ローマ教会の信徒たちに書き送った『ローマの信徒への手紙』の一節に次のようにあります。

『わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです』(ローマ14:8。  「主」というのは、神様の独り子、主イエス・キリストのことです。ところで、今から500年ぐらい昔のこと、宗教改革の時代ですが、ドイツのハイデルベルクの町で、あるキリスト者が、この聖書のみ言葉に心打たれました。そして、次のような言葉を書き留めました。人の確かな慰めは、生きている時も、人生の最期を迎える時も、体も魂も全部が、自分のものでなく、真実の救い主イエス・キリストのものとされていることにある、と。それから、500年近く、この人の書いた『ハイデルベルク信仰問答』という小さな本は、世界中で出版され、世界中の人たちが、イエス様のものとされていることに確かな慰めを見出して来ました。日本にプロテスタントのキリスト教が伝えられて、既に150年以上が経ちましたが、『ハイデルベルク信仰問答』の日本語訳が結構たくさん出ているのです。それだけ、確かな慰めが主イエス様のものとされていることにある、この聖書の教えが日本人の心にも響いているということでしょう。実際、私も、その内の一人です。

 それならば、誰もが主イエス様のものとされているのか、そして、誰もがこの確かな慰めに生きることが出来るのかと言えば、決して、そうではありません。この慰めによって、どんな時も支えられるために、まず信じなければならないことは、自分自身の罪深さです。 罪深さとは、神様と隣人を愛するのでなく、神様と隣人を憎むことです。人間は、誰でも、生まれつき、神様と隣人を愛することは出来ないのです。人間は、自己中ですから、憎むことならば簡単に出来ます。もし、このような自分自身の罪深さを認めることが出来ないならば、神様と隣人を愛するための物差し、神様の戒めをとことん行ってみることです。そうするならば、その物差しにどれだけ自分自身が合わないかを思い知らされます。それで、その物差しは、行いだけではありません。言葉も、何と、心も測れるようになっています。私が尊敬する人物の一人に、人物と言っても小説上の人物ですが、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』に出て来る、牧師の伊木一馬という人がいます。この小説は、実話を基にして書かれましたが、主人公の永野信夫は、明治の末、北海道旭川の塩狩峠で、自らを暴走する客車の下敷きにして大勢の乗客の命を救いました。その永野青年が、まだ自分の罪深さが分からない時に、伊木一馬が語ったアドヴァイスが、今でも私の心に残っています。

「わかりました。永野君、これはぼくも試みたことなんだが、君もやってみないかね。聖書の中のどれでもいい、ひとつ徹底的に実行してみませんか。徹底的にだよ、君。そうするとね、あるべき人間の姿に、いかに自分が遠いものであるかを知るんじゃないのかな。わたしは、『汝に請う者にあたえ、借らんとする者を拒むな』という言葉を守ろうとして、十日目でかぶとを脱いだよ。君は君の実行しようとすることを、見つけてみるんだね」(『塩狩峠』,PP276-277,新潮文庫)

 同じ『ローマの信徒への手紙』の一節に次のように書いてある通りです。

『なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです』(ローマ3:20)

 自分自身の罪深さを自覚することが、確かな慰めに生きることの第一歩、言うなれば、信仰のホップです。まず、自分自身の罪深さを信じなければ、主イエス様のものとされていることに確かな慰めをおぼえることは出来ないのです。戒めによる罪の自覚があるままに、イエス様に向かって飛び込んでまいりましょう。イエス様は、そんなあなたをしっかりと受け止めて下さいます。イエス様があなたと共に歩んで下さいますように。
                               (牧師 長谷川潤)

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 確かな慰めに生きる・その二 〜信仰のステップ

 前回は、確かな慰めに生きる上で信じていただきたいことの一つ目は自分自身の罪深さです。自分自身の罪深さを思い知ることは、いわば、信仰のホップです。今回は、そのステップをお届けしましょう。

 さて、神様の戒めと自分自身を照らし合わせて、自分自身の罪深さを思い知ることが出来たのならば、もう既に確かな慰めは、あなたのものも同然です。しかし、あなたは、もしかしたら、慰めどころではないではないか!とお思いかも知れません。それは、そんなに罪深いならば、一所懸命頑張って、罪の償いをしなければならないからです。特に出来る限り、善い行いをしなければならないからです。そうお思いになって当然かも知れません。私も、イエス様と出会う以前は、そうでした。一所懸命、頑張って善い行いをして、天の神様に喜んでもらおう、そして、罪を赦してもらおう、そのように思っていました。しかし、頑張れば頑張るほど、やっぱり、罪の自覚しか生じなかったのです。神様に喜ばれるどころか、ますます、神様を悲しませているのではないかと思わざるを得なかったのです。まさにこの段階でも、『ローマの信徒への手紙』の一節にあった通りに、『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです』(ローマ3:20。たとえば、次のようなことを今でもはっきりとおぼえています。学生時代、電車で学校に通っていたのですが、満員電車の中に、ご高齢のご婦人が乗って来られました。そうすると、私の周りの人たちは、今まで本を読んでいたのに急に居眠りをするわ、新聞を拡げて読み出すわ、で、誰一人座席を譲ろうとしないのです。それで、私は、勇気を出して、そのご婦人に声をかけて座席をお譲りしました。ところが、吊革につかまりながら、周りの人たちを見渡して、心に生じて来たのは、優越感でした。座席を譲らない人たちを見下げる思いだったのです。ますます、自分自身の罪深さを思い知って、これでは駄目だと思ったものです。自分自身の中に神様に喜んでいただく要素は全くないのだと。


 その頃、私は、宗教改革者のマルチン・ルターに心ひかれて、彼の伝記を読んでいたのですが、ルターも、自分自身の罪の問題で悩みました。ルターの言葉です。「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神の前でまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった」。それで、もはや、自分自身の中に、神様に喜んでいただく要素を全く見出せなくて、絶望するしかないならば、後は自分自身の外に、救いを見出す以外にありません。しかし、自分自身の外に、と言っても、同じ人間であるならば、神様との関係では、自分自身と同じでしょう。さらに人間以外のものであるならば、たとえば、動物であるならば、論外です。神様は、人間にこそ、罪の償いを求めておられるからです。ならば、どうしたら良いのでしょう?こんな惨めな状態から、いったい、誰が救ってくれるのでしょう?今から500年近く昔、ルターは、似たような内的な葛藤で苦しみました。そんなルターに対して、大先輩のシュタウピッツという人が「キリストに注目しなさい」と勧めたそうです。しかし、そのように勧められても、ルターは、すぐにはイエス・キリストに救いを見出せなかったと言われています。


 ところで、自分自身に絶望したら、どうしたら良いのか、『ローマの信徒への手紙』の次の一節にはすぐに示されています。『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ローマ7:24,25、波線は牧師)。シュタウピッツは、この真理に捕らわれて、「キリストに注目しなさい」と勧めたのでしょう。私たちのように罪は全くないけれども、私たちの罪を全部背負って下さって、十字架の死をもって私たちの代わりに罪を償って下さったイエス様に目を向け、このイエス様に私たちの救いの全てをお任せすること、これしか、私たちの罪の問題を解決する道はないのです。自分で頑張るのでなしに、イエス様にお任せする、そうするならば、本当に確かな慰めに生きることが出来るのです。罪の償いのために自分で頑張ることを止めて、イエス様にこそ注目して、お任せ致しましょう。イエス様があなたと共に歩んで下さいますように。


                    (牧師 長谷川潤)
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 確かな慰めに生きる・その三 〜信仰のジャンプ

 この「確かな慰めに生きる」シリーズでは、三回にわたって、確かな慰めに生きる上で信じていただきたいことをお届けしています。その一が、信仰のホップとして、自分自身の罪深さを思い知ること、その二が、ステップとして、自分自身の罪からの救いの全てをイエス様にお任せすることでした。今回は、そのジャンプです。

 本来ならば、私たち人間が、神様に対して犯した罪の償いを完璧に行わなければならないのですが、神様に対する償いを頑張って行えば行うほど、罪の自覚が増し加わるしかないのです。『ローマの信徒への手紙』の一節にこうありました。『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです』(ローマ3:20。しかし、この罪深さ、惨めさを自覚出来るならば、確かな慰めは、もはや、あなたのものです。どうしてかと言えば、そんな罪深く、惨めな私たち人間を見捨てるのでなしに、豊かに憐れんで下さる神様が、あなたに御顔を向けていて下さるからです。だからこそ、憐れみ豊かな神様は、あなたの救いのために、御子イエス様をお与え下さったのです。宗教改革者のマルチン・ルターが、”小型の聖書”と呼んだ箇所をご紹介しましょう。新約聖書、『ヨハネによる福音書』の第316節です。罪深く、惨めな人間に対する良き知らせ、”福音”のエッセンスがここに込められています。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ3:16。聖書の大事な読み方の一つは、聖書の教えを自分自身と重ねて読むことです。たとえば、”神は、その独り子イエス様をお与えになったほどに、私を愛された。独り子イエス様を信じる私が滅びないで、永遠の命を得るためである”。今、「私」と言いましたところをご自分のお名前に置き換えて読んでみてもよろしいかと思います。また、独り子イエス様はイエス様で、御自分に罪は全くないのですが、私たちの罪の償いを私たちに代わって行うために、十字架で尊い御命を捨てて下さったのでした。御自分の御命を捨てることで、私たちの罪の償いをして下さったのです。御自分を無視し、拒絶するような私たちのためにです。『ローマの信徒への手紙』の別の箇所に次のように書き留められています。
『実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました』
      (ローマ5:6-8

 私たちの罪の問題は、全て、イエス様が解決して下さるのです。罪の償いはもちろんです。罪汚れからのきよめも、イエス様が行って下さいます。このイエス様にお任せするならば、私たちはもはや頑張る必要はないのです。救いのためには頑張るしかないと思い込むのが人間ですが、そんな人間にとっての慰めがここにあります。イエス様にこそお任せすれば良いのです。イエス様にお任せする、イエス様を罪からの救い主と信じる、そうするならば、イエス様は、私たちの魂も体も丸ごと、御自分のものとして大事にして下さいます。キリストのものとされている、それが”クリスチャン”の意味です。そして、クリスチャンは、イエス様の尊い御命と引き換えに自分が永遠に生かされるようになったことへの感謝から、自分自身を神様に献げて生きるのです。よく、牧師になる人のことを”献身者”と呼びますが、実は、クリスチャンは誰でも”献身者”なのです。それで、『ローマの信徒への手紙』のまた別の箇所に次のようにある通りです。『また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい』(ローマ6:13)。ところで、五体を義のための道具として神様に献げるなんて、ちょっと穏やかじゃない!と思われるかも知れません。しかし、これは、結局、神様、そして、イエス様への感謝の思いから、聖書の教えに従って生きるということに他ならないのです。これが、クリスチャンとしての生き方です。救いを獲得するためではありません。救いの一方的な恵みへの感謝から、神様と人のために、聖書の教えに従った善い業に生きるのです。

 確かな慰めに生きる上で、ぜひとも、信じていただきたいことを三回にわたってお届けしました。信仰のホップ!ステップ!ジャンプ!あなたに、イエス様のものとされていることによる豊かな慰めがありますように。             
                  (牧師 長谷川潤)

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