スペイン、アイルランド、東北、パリ、アルル

2020年、足の調子が良くなり、今年はスペインに行きます。6月16日から26日まで10日間の予定。楽しみ。
マドリーからグラナダ、そしてバルセロナ。最後のスペインか?いやいやーーー
行ったところを後追いする感じ。     2020年1月31日


スペインに行ってきました。2017年4月11日より26日まで。
マドリットーグラナダーマドリットーアビラーサラゴサーテルエルーアルバイシンーハカーバルセロ


グラナダ

スペインの旅から帰ってきました。ここはグラナダ。アルハンブラ宮殿とサクラモンテの丘。旅人は3人の日本人ペンショ二スタ。今後、行った先を紹介します。


今日はマドリットです。マドリット象徴の熊の像。プエルタ・デル・ソルは東京の日本橋ゼロkm地点。スペイン広場のドン・キホーテとサンチョ・パンサ像です。


アビラ、旧市街全体が城壁に囲まれた、珍しい都市。イスラム教徒との戦いの為11世紀に作られた。



マドリーからサラゴサに行き、テルエルに行きました。テルエルは「テルエルの恋人達」で知られた街。またテルエルはキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が共存した街。建物はイスラムと西欧様式が融合した独特のムデハル様式とよばれている。


今日はテルエルの近く、アルバラシン。人口1000人の小さな村。中世がタイムスリップしたような、美しい村。万里の長城を思い起こす要塞。あまり日本のガイドブックには紹介されていない。


ピレネー山脈の麓、ハカに来ました。ここはフランスからの巡礼の通り道。一組だけ見ました。これからパンプローナに行くといっていました。ハカには日本の平城(ひらじろ)に似た、堀のある城がありました。スペインでは珍しい。

ここはハカの近くのへチョ、アンソという古い村です。外国人の観光客はいないようです。




2015年6月10日から16日まで東北を旅しました。
昨年も同じ頃行きましたが、今年は仙台から気仙沼までをめざしました。
基本的には歩くことをやろうと思って行きましたが、今年はしんどかった。
途中電車、バスに乗りながら、気仙沼まで行きました。
2013年気仙沼からスタートしました。そのとき会ったギャラリーのオーナーにまた会い、
「復興していくのはいいが、あの陸に上がった船も撤去されるし、震災が忘れられて行くような気がしてならない」
と嘆いていた。

仙台市の荒浜地区の慰霊塔と荒浜小学校。 この屋上で多くの人が助かった。

ここは南三陸町の志津川地区で、町の防災庁舎で「高台に逃げてください」−−と訴え続けた遠藤未来さん、津波に巻き込まれ行方不明になりました。ご両親が作った、海がよく見える、民宿「未来の家」です。、





2014年6月10日から18日までで東北を旅しました。
釜石から宮古、田老までおよそ80キロ歩きました。
田老から久慈まではアマちゃん電車。青森ー秋田ー新潟ー富山ー福井ー名古屋と日本海経由。
復興はまだまだという感じ。



9月24日からパリ、アルル、バルセロナ、マドリッドと2週間の旅をしてきました。
上の左はオルセー美術館、以前のオルセー駅がそのまま美術館になっている。マネ、モネ、ゴッホ等印象派の作品が多い。
右はルーブル美術館
下の3枚はアルル。ゴッホが描いた場所がそのまま残されている。跳ね橋は跡で複製されたものである。




2013年6月10日から16日まで気になっていた、東北”被災地巡礼”に行ってきました。
歩く目線でみると、映像や写真で見るのと違ったものを感じました。
復興はまだまだと思ったのが、実感です。
追って、報告していきたいと思います。

 仮設住宅2013年6月19日

 「どちらからですか」と声を掛けられたのは中学校の横を通りかかった時であった。リックを担いだ年配のおじさんが気になったのだろうか。

 「蕗(ふき)を取っているのですよ」と土手から降りてきた。

 

 昨夜、池袋から夜行バスで早朝に気仙沼に着いた。ガレキは撤去されているが、港のいたるところに津波の傷痕があった。中学校は高台にあった。グランドに200戸ほどの仮設住宅があった。コンビニがある。コインランドリーもある。

「女子陸上部」「男子サッカー部」「相撲部」等運動部の部室が並んでいる。屋根のある立派な土俵があった。2人の部員が「すり足、しこ」の練習をしていた。隣の市民グランドの野球ネットの前も仮設住宅である。

 今日は6月11日、発生から2年と3ヶ月である。

 「ゆれている。ゆれている」その日、自宅(名古屋市天白区)近くの喫茶店に友達といた。「東北で震度7の地震があったらしい」スマホで検索した彼が言った。これが東日本大震災の始まりであった。

 

 「いま蕗が盛りですよ。私が住んでいるのはそこの仮設住宅です。湾に突き出た神社の向こうに、大きな船が陸の奥まで流されていたところがあったでしょう。あそこの街で食事のできるスナックをやっていた。あの日は3時から常連の予約があって準備をしていた時です。その日に来るお客の1人も流されてしまったんですよ。近くに住んでいた息子も流された。29歳でした。立ち直れませんよ」最後は独り言のようにつぶやいた。気持ちを理解しながらも、相づちが打てなかった。60の半ばの主婦だろうか。私が名古屋から来たといったので気安く話したのだろう。いや、話たかったのかもしれない。

 「お父さんは、最初の頃はガレキの撤去の仕事もあったんだけど、最近はそれも無くなった。今日は昼からお酒を呑んで寝たので、晩のおかずにと思い、蕗を取りにきた」淡々としゃべる東北訛りの言葉に悲しみの深さを感じた。

 「小学校はこの向こうですよ」と分かれた。小学校のグランドに仮設住宅はなかった。数人の生徒がボール蹴りをしていた。

 200戸の仮設住宅には、それぞれ、同じような「思い」が詰まっているのだろう、とその場をあとにした。
 色んな仮設住宅を見た。辻、辻に「すずらん通り」「はまなす通り」。ある家には班長の表札が掛けられていた。仮設住宅にも、少しだけ街の生活が感じられた。



アラン諸島の大西洋に面した岸壁です。左からコーズウエイ モハーの断崖 アランのドンエガンス(古代遺跡)

妖精の住まい                                             アラン諸島のお墓

アイルランドに行ってきました。スペインもいいけど、アイルランドもいい。

                            “横井久美子と行くアイルランドの旅”に参加

スペインを旅しながら、古代ケルトの遺跡が多く残っているアイルランドに行きたくなった。5月の横井久美子さんのコンサートの時に誘われ、とうとういってしまったという感じです。

アイルランド島は大きな岩盤の島です。島で1番高い山が1100m。御在所岳(1212m)より低い。

北アイルランドは英国領、通貨はポンド。南はアイルランド共和国通貨はユーロ。北はプロテスタント、南はカトリックそこで起こった、{宗教戦争}のあとがデリーの街には生々しく残っていました。

1845年からのジャガイモ大飢饉。死者およそ100万人といわれている。その時アメリカに移民した人たちがいまアメリカでアイリッシュ系といわれている人たちである。ケネディー、 レーガン、 ジョンウエイン、モーリンオハラ等アイリッシュ系と言われています。

アイルランドのジョークにこんなのがあるそうです「食えなくなったら、アメリカに行って、俳優か大統領になるか」。

アイルランドは“妖精”の島です。家の庭にこのような妖精の住まいがあります。アイルランドは貧しい国ですが、音楽があり、踊りがあり、自然があり、文化がある。もう一度行ってみたい国です。




今年の1月に「私のサンティゴ巡礼」という本を出しました。

不安でした「文章の間違いはないだろうか」「本を手に取った人が読むに耐えられるだろうか」等々でありました。

1ヶ月ほど経ち何人かの感想から、ほっとしているところです。お世辞の部分はあるにせよ、「読みやすく、あっという間に読めた」「カラーの写真が美しく、出版にお金が掛かったでしょう」などなど、まずは一安心です。

本を読んだ感想一部紹介させていただきます。

 

谷さんと一緒に巡礼をした気持ちで、読みました。貴兄の人柄で共に遊ぶお友達の笑い声も聞こえてきそうです。

 歴史のある径を踏みしめた足をお大事にしてください。素晴らしい本を有難うございました

。                          西宮市 逸見さん

 

JUNK堂書店にて谷様の「私のサンティアゴ巡礼」を見つけ拝読しました。ジェルソミーナの項では「道」の映画についても触れられ、感激!

 写真も美しく豊富にあり、字も大きく読みやすく、ライブ感有りでとても楽しく、読ませていただきました

。                   名古屋市 原さん

 

 私の知っている谷さんの中からは知りえない一面も見せてもらえました。決断力、力強さ、社交性等、一杯、本から感じました。

 年の重ね方、生き方って、これからの私に、少なからずお手本になりました。

                          四日市市 大橋さん

 

 久しぶりにスペインの香りを聞く機会をいただき感謝しています。谷様もこの旅行で日本では失われた江戸時代の「伊勢参り」「四国巡礼」など旅行者同士がいつも仲間になり、地元の人たちとも話し合う本来の旅行の形をもう一度認識されたではないかと推察します。

 本からツアーにはない、親しい者だけのグループ旅行でもない、昔と変らぬ巡礼の旅を満喫された様子が良く分ります。

 私にとって、5年も前の1ヶ月の巡礼旅行は貴重な思い出として、いつまでも色あせることない人生の1ページです。

                  「ひとり旅 サンテァゴ巡礼」の著者 小池さん

 

 短く素晴らしい文章、写真です。そこには美しさがあり詩を感じました、こんな人生が送れる谷さんをうらやましく思いました

。             名古屋市 小島さん

                      



映画「「星の旅人たち」6月16日より上映されます。 「私のサンティアゴ巡礼」のチラシができました。


しばらく夢谷庵を留守にしていましたが、念願であった”サンチャゴ巡礼の旅”を完成させることができました。
今回はレオンからサンチャゴまで、約320Km歩きました。
また 追って報告したいと思います。

 雨のサンチャゴのカテドラルのまえで喜んでいます。                                         カテドラルの中の大香炉


                                                                          11月4日



あの山はソウル市内からよく見えます。
700mほどで、日帰りで簡単に登れるそうです。今度行ったときは是非登ってみたい。



バックは何だと思いますか、鍵です。展望台の周りは鍵のフェンスです。
このベンチがシャレている。恋人同士がここに座ると、自然と仲良くなるようになっている。テストしてみました。なるほど!右は音楽家ハムさんです。


あの山の遥か向こうは北朝鮮だろうな、と思いながら、眺めていました。




                                                                                 2009年10月10日
不思議なご縁ですね。”巡礼の道”で会った、3人の韓国人に会うために韓国に行ってきました。

     世界遺産  昌徳宮                          東大門                             漢江とソウル市内

            農楽                      ユンさん  タニ  陶芸家ウオンさん          日本語がうまい若い音楽家ウネさん
                                                                      音楽家ハムさんの生徒さん





                                                         2009年1月

私のスペイン巡礼の道(Camino de Santiago

 

昨年の9〜10月にかけて、一人で“スペイン巡礼の道”に、出かけました。この中で感じたことを記したいと思います。

 ピレネーを越えたスペイン側の最初の村から、サンチャゴコンポステーラまで、約750qを歩く予定でしたが、そうは簡単にいかず、約430qの地点で膝の筋を痛め、歩く旅を終わりにしました。 12キロの荷物を担いで、毎日20〜30キロ歩くのはこの歳(66歳)では相当の負担になりました。歩き通すことが出来なかったのは残念でしたが、よく430キロも歩いたというのが最近の実感です。

順番を間違わないように

出発の前、なぜこんな“無謀な旅”をするのかと、よく言われました。私もそう思いました。私を大きく突き動かしたのは6年前に28歳で亡くした娘の死でした。自分なりに整理が出来ていたような気がしていましたが、いま何かをやらなければと思いたったのがCamino de Santiagoでした。それは昨年の3月(娘の7回忌)のことです。それから巡礼の資料を読み、経験者から話を聞き、トレーニングをし、そして今回のたびになりました。

死に順番はないと思いますが、順番を間違わないようにしたいものです。

 

巡礼の合言葉 Buen Camino (良い巡礼を)

 この“道”で多くの国(ドイツ スペイン フランス カナダ ブラジル 韓国他)の旅人に会いました。スタートするとおおよそ歩く距離も同じなので、宿泊場所(巡礼宿)もだいたい同じです。そして親しくなります。お互い“良い巡礼を”と挨拶をし合います。私はスペイン語も英語も充分ではないのですが、同じ旅をする人の心は通じるものです。足を痛めて、引きずるように宿に着いた時、途中”buen camino”と激励しながら 私を追い越して行った人達が手をたたいて、迎えたくれたのには、感動しました。

 

病院は午後7時からです

足を痛めて、宿に着き膝のテーピングをはずしても、歩ける状況でないので、病院に行ことになりました。だいたい宿に着くのは午後2時か3時頃です。ところが午後7時以降でないと診察出来ないというのです。後でわかったことですが、巡礼の道に在る病院は午後7時まで地域の病院として、地域の人達を診察します。7時以降は巡礼者を診察するということでした。言葉もよく通じず苦労しましたが、料金がタダというのには驚きました。

 またある大きな街では、巡礼病院(Peregrino ospitar)がそのまま大きな総合病院になっていました。永い巡礼の歴史を感じました。

 

それぞれの巡礼

巡礼手帳(巡礼宿に泊まるにはこの手帳が必要)の申請をする時、何のために巡礼路を目指すのかを明示しなければなりません。宗教、スポーツ、文化から選ぶのですが私はキリスト教徒ではなく、文化としました。会った旅人は必ずしも宗教目的でなく、私のようにそれぞれの思いで、道を歩いていました。

病気を克服して歩く人、仕事をやめ貯めた金で歩く若者、韓国の旅人は「いま韓国ではマスコミの特集もあって、スペイン巡礼はブームです」と言って歩いていた人、また4年をかけて、巡礼を完成させるというスペイン人など、それぞれの旅人に、それぞれの巡礼があるのだと思いました。

ハムさんのこと

巡礼の道で多くの韓国人に会いました。その一人がハムさんです。

スタートして二日目の頃だと思います、日本語で「こんにちは日本の方ですか」と声を掛けられたのが最初です。ハムさんはカナダの人と歩いていました。しばらく3人で歩き、親しくなりました。ある時「タニさん、今日は妻の誕生日です。タニさんのことは話していますので、今から妻に携帯を掛けます、おめでとうといっていただけませんか。」というので、電話口でハッピバースデーツーユーと歌いました。すると奥さんから「タニさんありがとう。お元気ですか」と日本語で返事が来ました。私は韓国に対し、日本の過去の歴史的あやまちから、常に後ろめたさを持っていました。ところがハムさんに是非韓国に来て下さいといわれ、これから韓国語も少し勉強して、いつか行きたいものだと思いました。

 ハムさんはオーボエ奏者ということは聞いていましたが、HPアドレスを聞いていたので、さっそく今度名古屋北法律事務所に入所される「明玉(ペミョンオク)弁護士に調べてもらいましたら、ドイツの交響楽団に6年程いて、現在は韓国の大学の音楽教授をしており、韓国では著名な音楽家ということがわかりました。韓国に行って会ってみたいですね。  

へミングウエイとパンプローナ

 今回のたびの中で、ヘミングウエイを訪ねることも大きな目的でした。私がスペインの事に興味を抱いたのはヘミングウエイの小説からです。「日はまた昇る」を読み、「誰がために鐘が鳴る」でスペイン人民戦線のことを知ってからです。そしてジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」堀田善衛の「スペイン断章」を読んで、スペインへの思いを強くしました。

 小説「日はまた昇る」の舞台はパンプローナです。第1次世界大戦後アメリカの新聞記者(ジェイク)がパンプローナでの虚無的な生き方と、パンプローナの人々のフィエスタ(サン・フェルミン祭=牛追いで有名)に掛ける情熱的な生き方を対比しながら描かれています。祭りの期間中、飲み明かす店として、イルーニャ(1888年創業)の店が描かれています。この店が現在も営業しています。

もう一つこの小説の中でえがかれている、ジェイクが友人とマス釣りに行くピレネーの麓の街、ブルゲーテにヘミングウエイが当時、常宿にしていたオスタル・ブルゲーテが営業しています。この二つの場所を訪ねることも今回の旅の楽しみでした。

 99日に日本を出発して、11日パンプローナに着きそのままタクシーでフランス側からピレネーを越えて最初の村、ロンセスバリエスまで行き、サンチャゴ巡礼者の救護院だったロンセスバリエス修道院で巡礼手帳を発行してもらいました。

 

ここから1時間ほどのところに、ブルゲーテはありました。オスタル・ブルゲーテの外観は綺麗にされていましたが、中は昔のままであろう所が多くありました。ヘミングウエイが泊まった部屋には写真が掛けられており、この部屋には泊まることはできませんでしたが、あのヘミングウエイも、この宿に泊まっていたのかと思うと、嬉しくなると同時にはるか遠くまで来たのだということを、実感しました。12日から巡礼の旅は始まりました。

 パンプローナは巡礼の道では通過点のため、帰りにもう一度よるつもりにしていました。幸か不幸かレオンで足を痛め、充分に時間があり、帰りに4日間パンプローナに滞在しました。あのサン・フェルミン祭(牛追い祭り)は76日から14日までおこなわれます。

毎朝8時に市長舎前からその日に行われる闘牛の牛が放され、闘牛場まで男達が牛を追い込みます。この様子が毎朝スペイン全土に中継されます。以前スペインを旅したとき、この期間と重なり、ヘミングウエイ「日はまた昇る」を思い出し、いつかはパンプローナに行かなければという思いを強くしました。

「ああー、ここからスタートするのか、この狭い道を牛と男達が走るのか、ここが闘牛場なのか」と独り言を言いながら、ぞくぞくするような思いに浸りました。祭りの期間中、パンプローナの街は眠らないといわれています。

人々はバル(居酒屋)で一晩中飲み明かし、あらん限りの情熱を、全て祭りに次ぎ込むといわれています。私が泊まった安いホテルもこの期間中の料金が3倍くらいに跳ね上がるそうです。すでに予約で一杯だと言っていました。

イルーニャの店は町の中心地のカスティーリョ広場の正面にあります。店内はアンティークでヘミングウエイが一晩中飲み明かした面影を残しています。

イルーニャというのはバスク語で、パンプローナという意味だそうです。夕方になると、イルーニャのあるカスティーリョ広場には多くの旅行者や、若者達、親子連れが集まってきます。金曜日、土曜日の夜ともなると若者達で朝方まで、騒がしく、これは寝られないなと思っていたら、朝4時頃、街の清掃車が動き出すと、みんな一斉に家路につくのか、静かになります。

 「日はまた昇る」は1925年ヘミングウエイ26歳の作品ですから、約80年前、ヘミングウエイもここで、ビールを飲んでいたのかと思うと、嬉しくなります。私も毎日のようにビールを飲みに来ました。写真をお願いしたカウンターの向こうの、かっこいい親父さんが(ウエイター)が「日本人か?よく日本人がこの店に来るよ。日本人はヘミングウエイが好きなのか。」と言っていました。充分言葉はわかりませんが、多分そういっていると思いました。

サルーン(乾杯)!

                                  谷 尚典





10月末、スペインの旅から、無事に帰ってきました。
 当初、ピレネーを越えたスペインの最初の村、ロンセスバゼスから、サンチャゴコンポステーラまで、約750キロを歩く予定でした。結果はレオンの手前で約430キロの所で、膝の筋違えと、肉離れを起こし、回復せず残念ながら、歩くことを中止しました。
 サンチャゴまで、バスで行き、今回の大きな旅の目的は終わりにしました。残念といえば、残念ですが、よくやったと思えば
(430キロ歩いた)、よくやった、というのが「巡礼の道を歩く旅」を終えた実感です。

 そのことにより、帰国まで約20日間、パンプローナとバルセロナで過ごしました。足を引きずりながらの生活でしたが、今までの旅と違って、これも私にとって大変貴重な体験でした。今は足もよくなってきました。
 おって、歩く旅 生活の旅について、報告していこうと思っています。

来る日も、来る日も歩く、 行けども、行けども道 

     自転車で旅する人                 アミーゴ 左からカナダ オランダ 私 韓国       歩いて旅する人                                    

 道                                    影  わたし                   ドイツ 私 スペイン

  


左の写真
 ブドウ畑の中の道 ブドウをもらいま した。ごめんなさい。甘ずっぱくて本 当に美味しかった。


 今日の泊まりは、あの町
  


                                                          2008年1月

 日本人のペンショニスタ(年金生活者)3人がスペインを旅しました。1人はスペイン語教室に通うベテラン、1人は私、単語を並べて手振り身振りで、意思を伝える程度のスペイン語、もう1人は初めてのスペインこんな3人が1ヶ月間のスペインの旅に出かけました。
 ブエノスデァス(おはよう)、オラ-(やあー)、エスト(これ)、ポルファボール(お願いします)、グラシアス(ありがとう)、アデオス(さようなら)日常的にはこれだけの言葉で何とかなります。スペイン人は陽気で親切、道を聞くと「俺もそこまで行くので、つれていってやるよ」とこんな調子です。

スペインの旅

9月2日バルセロナから

バルセロナーーーガウデイーの街
ボルタニアーーーピレネーの麓
サラゴサーーーーマリア信仰の中心地
セコビアーーーーローマ時代の水道橋
サラマンカーーースペイン最古の大学がある
トレドーーーーーかっての首都
マドリードーーー現在の首都
セビーリャーーーアンダルシアの中心都市
サンタマリアーー小さな港町
ヘレスフロンテラーーーセリー酒の街
カヂィスーーーー大西洋に面した古い港町
マラガーーーコスタデルソルの玄関口
ミハスーーーー白い村
グラナダーーーイスラム最後の砦
アリカンテーー地中海に面した明るい街
タラゴナーーーローマ時代に栄えた街

9月30日バルセロナまで




   ピレネーの村

 画家の氏家時夫さんを、ピレネーの麓の村、ボルタニアに訪ねました。
 
 ちょうど新しく出来たホテルで個展をやっていました。ピレネーの山々、湖、村の小さな教会、古い城など日本で見るのとは違う新鮮な感じがしました。

 氏家画家の絵が夢谷庵の「小さい美術館」に4点あります みてください。

 ウオルト デズニーの白雪姫のモデルになった城(セコビア)              )セコビアの水道橋
 
 今後 スペインの色々な町や建造物を紹介していきたいと思います。



 
 この建物はグラナダの
         ロルカ公園にあるロルカの家です

フェデリコ ガルシーア ロルカは1898年生まれ、詩人 劇作家 画家 音楽家と多彩な才能
の持ち主
1936年わずか36歳で、ファシストの手によってグラナダ近郊のオリーブ畑で銃殺された
ここはロルカ一家の別荘で、大半の詩や戯曲はここで書かれた

アルハンブラ宮殿も素晴らしい、でもグラナダにきたら、ここにも寄って下さい



 


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