NALのSF読書歴

初めてSFを読んでからもう20年以上が経過し、はっきりいってどのようにSFに接してきたかわからなくなっているのですが、これ以上忘却する前に、忘備録として書いておく、もう手遅れのような気もするが。

高校一年生の時の有る日の深夜11時ごろ、廊下に面した棚の中の文庫本を整理する父をみて、たまにはSFでも読んでみようかな、と声をかけ、ちょっと眺めた末『火星のチェス人間』という本に手を伸ばした。
それまでそこに『火星の・・・』といったSFの本が並んでいるのは知っていたのだが、なにしろSFというと人間の血を吸う宇宙人とか、人間を食べる宇宙人とか、ろくなものが出てこないものと先入観を持っており、そんなもの読む気にもならなかったのだ。
なぜ、そのとき声をかけたのか不思議ではあるが、やはりSFに興味があったとは考えがたいので、ちょっと父に声をかけてみただけだったような気がする。
読むなら、最初から読みなさいと『火星のプリンセス』を渡され、(その”チェス”ってのがいいんだけどなあ)と内心思いつつも、床について読み始めた。
ちょっと読んですぐ寝るつもりだったんだ、なにしろもう11時だ、翌日学校もあるし7時には起きなければならない。
所が寝るわけにはいかなくなってしまったのだ、何しろ面白い、そのうえ、次にどうなるか気になって本を閉じる決心がどうしてもできなかった、終盤は眠気と戦い、時計を気にしつつ最後まで読んでしまった。時計の針は5時を指していた、今思えば、それからでも2時間は眠れるじゃないかと思うのだがその当時、深夜1時まで起きていたことすらなかった当時の自分にとっては未踏の時間帯であった。
夢中になっていたわりに、こんな薄い娯楽小説に6時間もかけるのには、奇異に感じるが、当時本を読む習慣のなかった人間の読書ペースはこんなものかもしれない。
結局翌日より一日一冊ペースで”火星シリーズ”全11冊を読破してしまった。
それにとどまらず、”金星シリーズ””地底世界ペルシダー”に進んでいったのだが、そんな有る日、たまには普通のSFでも読んでみるかと、父に手渡されたのがヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』であった、これが事実上のSFとのファーストコンタクトであったのだが、『宇宙船ビーグル号の冒険』はヴォークトにしては理解しやすい小説だそうで、これが最初のSFで幸運であったというほかない、これが仮に『非Aの世界』であったとしたらSFってわけわかんねーと見限ってしまい、いまごろSFなど読んでいなかったに違いない。
『宇宙船ビーグル号の冒険』は面白かったうえに、これが"普通のSF"ってやつかと、SFを読んだんだという勝手な満足感を感じることができた。
こののち順不同になるが、その後高校卒業までの2年半ほどの間に家にあったSFをほぼ全て読んでしまった。たいした量があったわけでないので、全部書いておく。
クラークの『銀河帝国の崩壊』、レイ・カミングスの『宇宙の果てを超えて』、豊田有恒の『火の国のヤマトタケル』『出雲の国のヤマトタケル』、アイザック・アジモフの『暗黒星雲のかなたに』、フレドリック・ブラウンの『未来世界から来た男』『天使と宇宙船』『宇宙をぼくの手の上に』『73光年の妖怪』『宇宙の一匹狼』『火星人ゴーホーム』、フレドリック・ブラウン編の『SFカーニバル』、ジョン・ウィンダム『トリフィド時代』、ハル・クレメント『20億の針』、マレー・ラインスター『第五惑星から来た4人』, 『地の果からきた怪物』、エリック・フランク・ラッセル『金星の尖兵』 レイ・ブラッドベリの『火星年代記』で、マイケル・クライトンの『アンドロメダ病原体』だけは、なぜか触手が動かず読まず、今に至っても読んでない。
このうち気に入ったのが『銀河帝国の崩壊』とフレドリック・ブラウンの諸作品(ただし「火星人ゴーホーム」は除く)、『トリフィド時代』と『20億の針』だった。
『宇宙の果てを超えて』はダメだった。
『第五惑星から来た4人』『地の果からきた怪物』もあのころ読んだのはこれのはずといった感覚なので特に印象に残っていない。『火星年代記』も恐ろしいことにつまらなかった、何しろ、”ほら、そこにいるよ”と言われても、そんなこと、当たり前じゃん、といった調子で、どちらかといえば、憤慨していたような気がする、『火星年代記』は今の感性で読めば面白いのではないかと予想できるのだが、最初の印象が悪くて、今に至るまで再読していない。
あのころの私にとって、火星人とはブラッドベリの火星人でも、ブラウンの緑色の小人でもなく、バロウズの緑色人だったのだろう。
上記の本を読みつつSFの勉強もした、家には福島正実の『SF入門』『SFの世界』野田昌宏の『SF英雄群像』があったのだ、おっと、危なく忘れるところだった、家には『レンズマン』もあったのだがこれは、つまらなかったので、読みかけでやめていたのを忘れていた。
『SF英雄群像』も定評のある解説書だが、『SFの世界』もなかなかよい入門書だったのではないかと今でも思っている、解説書が3冊もあるわりに、SFの本の冊数がすくないような気がするのだが、だぶんまず解説書を買って、次に実際に本を読み進めていったのだが、SFには心惹かれるものがなかったのではないのだろうか、私の父の場合は。
さて家にあるSFの本を全部読んでしまったら、後は自分でなんとかするしかないのだが、当時の私にとってSFにまわす金などなかった、モデラーだったので「モデルアート」と「ホビージャパン」という雑誌を毎月買い、残りのお金で「丸」「丸スペシャル」「丸メカニック」「航空ファン」をできるかぎり買っていたので(当然全部買えないので取捨選択していた)、缶ジュース一本買うことさえとんでもない無駄遣いに思っていた。そうなると、後はアルバイトということになるのだが、アルバイト禁止という校則をきっちり守っていたので、あとは親のすねをかじるしかない、遠慮もせずにかじりました、父親に頼んで買ってもらったのが、ブリッシュの『宇宙大作戦』を10冊ほど、それにハインラインの『宇宙の戦士』、ただ『宇宙大作戦』はSFとしての認識で読んでいたわけでなく、中学生時代からようやく理解できはじめていた『宇宙大作戦』が大好きで、とりあえず小説があるなら、その小説も読みたかっただけだったのだ。当時の私は『宇宙大作戦』のことをスタートレックと呼んでいた、最もそのうち映画『スタートレック』が上映されたので『宇宙大作戦』と呼ぶようになった。
人と違う呼び方をすることで偉くなった気でいたんだろうが。
『宇宙の戦士』の方はガンダムからの流れである、ガンダムの元となった小説がいかなるものかとガンダムを期待したのだが、その期待は大きく外れた、訓練ばっかじゃねえか。
そういえば10台後半はアニメファンでもあった、高校時代前半はアニメージュ、後半はアニメックを買っていた、OUTも3冊ほど買ったのだった、月に3000円の小遣いでどうやってまかなっていたのだろう。
自分の小遣いで多少のSFの本も買った、ブリッシュの『宇宙零年』『星屑のかなたへ』と富野よしゆき(どんな漢字だったっけ?)の『機動戦士ガンダム』『機動戦士ガンダムU』である。
前者はSFを読みたいというより、『宇宙大作戦』で知ったブリッシュの本を読みたいといった欲求によるものだった。
『星屑のかなたへ』は良いジュブナイルだったと今でも思っているのだが、最近インターネット上の書評で選民意識がどうのこうのといった評価を読んで、たしかにそういった面があるかもしれないと、多少のショックを受けた。
最も、『星屑のかなたへ』の舞台で人類みな平等とやっていたら、破滅が待ち受けているだけである、努力した者だけが勝ち取れるといった、態度は当然だとも思えるし、当時の私はそれに共感した。
ガンダムとSFについてだが、当時OUT誌上で高千穂遙がガンダムはSFではないと発言した件で、読者の反発を招いたことがある、その後再びOUT誌上で高千穂遙がなぜガンダムがSFでないといったか丁寧に説明してくれたのだが、「SFを読んでいるものには、それがSFかSFでないか瞬時に判断できる」といった説明で(今となっては理解できるのだが、)当時はさっぱり理解できなかった、SFを理解したければ、SFを読みなさいといった論旨なので、理解できなくて当然である。
この文章でセンス・オブ・ワンダーという言葉も知った。やはり読んだ者にしかわからないといった解説なのでさっぱり理解できなかった。
センス・オブ・ワンダーという言葉と実感が結びついたのは水見稜の『夢魔のふる夜』を読んでいるときまで待たねばならず、その間10数年謎の言葉で有りつづけた。
高千穂遙の文章は今となっては理解できるのだが、当時のOUT読者でガンダムファンの反発を招いたのが、ガンダムがSFではないといった言葉そのものよりも、ガンダムを馬鹿にした態度だったのだと思うのだが、なぜガンダムがいけないのかついては説明なされぬままに終わっている。
『宇宙の戦士』を読んだことによって、高校時代にSF御三家の小説は全員読んだことになる、面白かったのはクラークの『銀河帝国の崩壊』ではあるが当時好感を持っていたのはハインラインであった、福島正実の『SFの世界』を読んでハインラインは面白そうな小説を書いていそうだと思っていたのが理由だが、その十数年後『栄光の道』を読んで、これが”ミスターSF”の書く小説かねと、がっくりきて、評価は大幅に下落、現在は三人の中ではクラークが好きである。

高校卒業後も学生をやっていたのだが、やっと図書館の存在に気付く。
借りて読んだのが、ゼラズニイ『わが名はコンラッド』、ディッシュ『プリズナー』、ライバー『ビッグタイム』、レム『砂漠の惑星』、ファーマー『果てしなき河よ我を誘え』、キイス『アルジャーノンに花束を』、クラーク『都市と星』、ハインライン『夏への扉』、光瀬龍の”宇宙年代記”をどれか一冊、石原藤夫『ハイウエイ惑星』『ブラックホール惑星』、アンソロジー『71日本SFベスト集成』『72日本SFベスト集成』
最初の3冊の作家に関しては最悪の接触をしてしまったと言うほかない、特にライバーに関してはほぼ同時期『闇の聖母』を入手しやはり導入部で挫折、ライバーはオレに合わない作家だと確信してしまった、SFマガジンに再録された「バケツ一杯の空気」を読むまで、ライバーの名は避けてとおっていた。
『プリズナー』もわけのわからない本だった、原作のTVドラマ自体が、理解不能だから仕方ないと教えてもらうのは、現在より数年前のことだった。
ゼラズニイもまた悪印象を持ってしまい、その後彼の本をじっくり読んだことがない、たぶんじっくり読まねば理解できない文章を書く人なのではないかと思うのだが、読んでいる最中に気が散ってしまい、現在に至るまで面白かったのは『地獄のハイウェイ』一冊のみである。
レムとファーマーについては良い接触ができた『砂漠の惑星』は、人間の論理では行動しない異星生命を描くことができるレムの長所が良く出た傑作だといっても良いのではないだろうか、『果てしなき河よ我を誘え』もまた私の最も好むパターン「主人公は突然未知の世界に置かれ、行動を起こしてゆくうちに、世界の姿が見えてくる」にピタリ合致した作品だった、以降ファーマーは好きな作家の一人となる。
『アルジャーノンに花束を』も感動した、がこの作家は他にめぼしいSFを書いてないので、後が続かなかった。
石原藤夫の惑星シリーズは手軽に読めて面白かった
アンソロジーの71、72日本SFベスト集成はあの当時でもちょっと古いなと感じた作品が多かった、その中で記憶に残っているのは高斎正の「ニュルブルクリンクに陽は落ちて」だったが、これは、あの当時カーレースを見るのが好きだったせいも多分にある、この短編についてはニュルブルクリンクの文字におっ!、となって読んだのだが、読み終わって気分が悪くなった。そういえばこのころ高斎正のカーレース小説を沢山読んだがSFに含めていいだろうか、たぶん違うな、当時もカーレース物として読んでいたし、余談だが、私にとっての自動車小説のベストはこのころ読んだ、海老沢泰久著の『F2グランプリ』である。
『都市と星』と『夏への扉』と光瀬龍は普通だった。

古書店の存在も知ることになる、以降どのSFを読むかは古書店で見つかった本次第、しかも半値以下、さらに何を読んで良いかわからないので、知った作家又は”なんたら賞受賞”という文句がカバーに書かれている本にかぎられた。
アンドレ・ノートン『魔法の世界エストカープ』『魔法の世界の凱歌』、バロウズ『石器時代から来た男』、ハワードの”コナンシリーズ”、リン・カーターの”ゾンガーシリーズ”、ヴァンス『竜を駆る種族』
これらの本は”火星シリーズ”からのヒロイック・ファンタジーつながりで読んだ。コナンシリーズを除けば外ればかりのような気もするが、やはりハワードがおどろおどろしい未知の物への恐怖を書く才能が卓越していたせいもあるのではないかと思う。『竜を駆る種族』はヒロイック・ファンタジーと間違えて読んだもの、表紙が火星シリーズのイラストレータと同じ人の手によるものだったからだ。

ブリッシュ『悪魔の星』『時の凱歌』『地球人よ、故郷に還れ』は宇宙大作戦からの流れ、オーキーシリーズはこの順番で読んだので読む順番を間違えている。
このシリーズの本の最初に提示される、歴史家の人類史の解説が魅力的であった。『悪魔の星』は宗教SFらしいのだが、さっぱり理解できなかった。
アジモフ『銀河帝国の興亡1』『銀河帝国の興亡3』『永遠の終り』『わたしはロボット』
『銀河帝国の興亡2』が抜けているのは古書店でみつからなかっただけである。3を読んだ後では読む気にもならず、今に至っても読んでない。
アニメ雑誌で存在を知って読んだ本もある。
アンソロジーの『冷たい方程式』A・バートラム・チャンドラー『連絡宇宙艦発進せよ!』、バンシンの『成長の儀式』、高千穂遙”クラッシャージョーシリーズ”、<『ダーティペアの大冒険』
『冷たい方程式』は粒ぞろいだった、多分今読んでも面白いだろうと思う。チャンドラーの本もよかった、このシリーズは現在でもぼちぼちと読み進めている。
『クラッシャー・ジョー』と『ダーティぺア』のようなスペースオペラも好きだ。
『成長の儀式』はダメではないが特に感銘を受けなかった。

そのころRPG(現在では頭にテーブルトークとつくらしい)をやっていたので、それで読んだのが、アン・マキャフリイ『竜の戦士』『竜の探索』と、あとタブの”デュマレスト・サーガ”もこのころ読みはじめたはず、それと”グインサーガ”。にセイバーヘーゲン『西の反逆者』
『竜の戦士』と『竜の探索』は期待したほどではなかった、最もかなり後になって、パーンの竜騎士4〜6巻を読んだら面白かった。4〜6巻はジュブナイルとなっていて1〜3巻と大分感触が異なるので、1〜3巻が膚に合わなくとも、挑戦してみる価値はあると思う。4〜6巻を読んだころにはもうRPGからは離れていたのだが、本の中で登場する小さい竜の姿に、当時の持ちキャラクターの一人が連れ歩いていた、小さい竜の元ネタがこれから持ってきたことに気付きなつかしかった。
デュマレストサーガはRPGのトラベラーに設定がそっくりだった、この本は最終的に全部読んだはずだが、今となるとよく読んだものよと思ってしまう、地球を探して旅をするのだが、最後は有望かと思われた手がかりはガセだったと判明し新たな旅に出る、ストーリーは各巻異なれど、物語の骨子は同じなのだから、よく飽きなかったものだ。しかし下等船客が行う蘇生率70%の恐怖の冷凍睡眠宇宙旅行などその世界は一読の価値はあると思う
”グイン・サーガ”は最初のうちはけっこう大好きだった、特に序盤ノスフェラスを旅するあたりは異界情緒満喫で楽しんだ、当時100巻が出るころには36歳だよと気が遠くなりそうだったが、もうその歳をすぎグインサーガは読まなくなっている、途中、女々しいイシュヴァーンとアムネリスに嫌気がさしイシュトヴァーンが国を獲るまで我慢して読んでそれから、やめるぞと決心し、そのようにした。最も多少の未練はあるのだが、読む暇はできそうにもない。
後はけっこう手当たり次第で。
アンソロジー『ラブメイカー』『年間SF傑作選2』『忘却の惑星』『危険なヴィジョン 1』豊田有恒『地球の汚名』、ハリスン『テクニカラー・タイムマシン』『宇宙兵ブルース』、レム『宇宙創世記ロボットの旅』、ファーマー『わが夢のリバーボート』、ボイス『キャッチワールド』ヴォークト『非Aの世界』、ライバー『闇の聖母』、スタージョン『原子力潜水艦シービュー号』、ニーブン『太陽系辺境空域』、フェアマン『シービュー号と海底都市』、山田正紀『竜の眠る浜辺』『デッドエンド』、小松左京『復活の日』『継ぐのは誰か』、神林長平『戦闘妖精雪風』筒井康隆『日本列島七曲がり』『家族八景』『七瀬ふたたび』、堀晃『梅田地下オデッセイ』
ここにあげたアンソロジーに関しては数年後再読してから良いと思えたものが2冊ある、『年間SF傑作選2』には大好きなヤングの「たんぽぽ娘」が収録されているが、最初に読んだ時印象に残ったのが、コードウェイナー・スミスの「シェイヨルという名の星」だった、この本には他にも大好きな作家のフレデリック・ポールの短編も収録されているので、これだポールの作品との初の出会いとなるのだが、この時点では特に脳裏に残ることはなかった。『忘却の惑星』にはシマックの「河を渡って木立を抜けて」とマッスンの「旅人の憩い」が収録されている、両作とも好きな短編ベスト20には入ってくるはずだ、他の収録短編も粒ぞろいの良いアンソロジーだったが、これもまた良いと思ったのは再読してからだ。『危険なヴィジョン 1』もまた素晴らしい短編集で、この3冊に『冷たい方程式』『梅田地下オデッセイ』『SFカーニバル』それにSFマガジンのバックナンバーが私の短編好きを決定付けた。
だが『ラブメイカー』に関しては、何が収録されていたか記憶してないほど印象が薄い。
レムの『宇宙創世記ロボットの旅』は全て本屋での立ち読みです。悪いことをしました。ファーマー『わが夢のリバーボート』は”リバーワールドシリーズ”の2巻、1巻の『果てしなき河よ我を誘え』だけでも、きっちり起承転結になっているのだが、1巻を気に入って2巻を読まずに済ますことはできません。
ハリスンの『テクニカラー・タイムマシン』『宇宙兵ブルース』はたいがいの人は面白いと感じるはずだと思う、『テクニカラー・タイムマシン』はついこの間(2001/3)再刊されたので、興味のある方は今のうちにどうぞ読んでみてください。
ボイスの『キャッチワールド』とヴォークトの『非Aの世界』は、わけのわからぬ怪作
ライバー『闇の聖母』は前述したようにライバー嫌いの一因(今は好きです)
スタージョンの『原子力潜水艦シービュー号』とフェアマンの『シービュー号と海底都市』はTVドラマの”シービュー号”(正確な題名不明)が好きだったから。
子供のころ宇宙大作戦と謎の円盤UFOは理解できなくともシービュー号はある程度理解できていたらしい。
ニーブン『太陽系辺境空域』もちょっと自信がないが学生時代に読んでいたと思う。
ホーガンとニーブンは本格的にSFを読み出す前の時点で、最も好きな作家で名前を見つけたら小躍りして買っていた。
豊田有恒『地球の汚名』山田正紀『竜の眠る浜辺』『デッドエンド』はつまらなかった、それぞれ彼らの小説を嫌いになるきっかけとなった、最も最近評価は変って見なおしている、そのきっかけはそれぞれ『ダイノサウルス作戦』、『神狩り』である
小松左京『継ぐのは誰か』は放り出したが、『復活の日』はつくづく凄いと唸らされた、現実にありえないことでもないと思うと今でも背筋が凍る思いだ。恐すぎて再読する気になれない
神林長平『戦闘妖精雪風』謎の敵の設定が明瞭で分かりやすく、楽しめた。
筒井康隆『日本列島七曲がり』『家族八景』『七瀬ふたたび』はどうして筒井康隆知りそして読んだのか、今では知りたいと思っている、当時SFとして認識していなかったことは確かだ。
堀晃の『梅田地下オデッセイ』は良いです、ですが堀晃好きを決定づけたのはSFマガジン収録の諸短編の影響の方が大きかったと思う。
星新一のショートショートも3冊ほど読んだ、これで鮮烈に記憶に残っているのは5冊100円の本だったこと、そのせいで、その後半値程度の値段ではこの著者の本については買う気にならず、以降読むことはなくなった。
水見稜『マインド・イーター』
この本もぎりぎり学生時代に読んだ本のはずである、正直なところ当時よくわからないところや、辻褄の合わぬところもあったと記憶しているが、この本を凌駕するような素晴らしい体験をさせてくれた日本SFは、未だ現われてこない。当時、数度読み返して以来、冒頭の「野生の夢」を除いては10数年読み返していないのだが、もう一度読み返してみるつもりでいる、あれ以来幾多のSFを読んできた現在の自分にどんな思いをさせてくれるか、楽しみでもあり、恐くもある。

一番最初に買ったSFマガジンは1980年10月号でもちろん古書で買ったからいつ買ったのかは判然としない、表紙が火星シリーズのイラストレータの武部氏の追悼に加藤氏が描いた火星シリーズの絵だったからそれが目的で買ったのだった。その後1980年度のSFマガジンがひと束で1000円で売っていたので買い(ただし11月号のみは79年のものだった、おかげで楽園の泉は未だ読んでない)。
その後ぱらぱらと10冊ほど購入、短編SFの面白さを知った。ちなみにSFマガジンを新刊で買ったのは1994年9月号「オースン・スコット・カードとジョン・ヴァーリイ」の解説特集の時である。
定期的に買い始めたのは1995年10月号からである。
SFマガジン掲載の短編は基本的に古本で買うのでいつ読んだのか不明なものが多いのだが、学生時代に読んだのがほぼ確実で、かつ、好きな短編が。
「 逆行の夏」1979/11 ヴァーリイ
「琴蜘蛛の歌」1980/12 ピートリイ
「青ざめた逍遥」1981/1 プリースト
「草原の吸血鬼」1981/6 ピートリイ
「無伴奏ソナタ」1981/7カード
「サンドキングズ」1981/7 マーティン
「巨人退治」1983/5 チャンドラー
カードにも学生時代に遭遇していたことになるのだが、作家名は意識していなかった、後になってカードの作品だったと判明したのだった、同じことがヴァーリィ、ピートリイ、マーティン、チャンドラーにも言える、ただプリーストは少し違って、「青ざめた逍遥」を後に再読した時点でプリーストの名前は意識し始めていた、1991年以降に『SFガイドブック』を購入した時点でこの作家の他の作品名を探したことを覚えているからだ。
以上が高校卒業後就職までに読んだSFの本である。
SF SFじゃない本やSFとして認識していなかった本も含めて、約80冊・・・げげっ、けっこうあるじゃないか、これでSF読んでなかったといえるのだろうか、しかし年平均すると15冊強、
全部合わせて今なら半年で読んでしまえる量でしかない。
同じ時期にマンガの本の方は約1000冊を購入しかつ読んでいるのでこの時期は完全にマンガファンであった、意識的にもマンガを読む事に興味がむいていた。
就職してからはSFを読むペースは多少落ちたはずである、就職すればさすがに時間はなくなる、(今は量を読んでいるが、それは他のやりたいことを犠牲にしたうえで成り立っていることにすぎない。)
その状況が一変したのが今から約10年前のことである、『SFハンドブック』を購入したのがきっかけだった、(1991年7月の6刷)。これで読みたい本に指標ができ、かつ読むにつれどんどん興味が増してゆき、今では(自称)立派なSFファンである。

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