北勢軽便王国物語第3話

箱電こけた

『湯ノ山へ行く小さな電車はピピイ、ポポウと警笛を鳴らして、野中の道を、御在所ヶ岳の麓へ向けて走っていく。』

M 「これは四日市市高角町出身の直木賞作家伊藤桂一氏の『帰郷』の一節です。「電車」とあるのですが、警笛の表現から、なぜか三重交通時代の箱型電機デ51を思い出すのですが・・」

Kさん「そうですね。四日市鉄道の101。メーカーはGE、ジェネラルエレクトリック。れっきとしたアメリカ製ですね。」

M 「先生、開業したのが大正5年なのに電化したのが大正10年(1921年)とはずいぶん早い気がするのですが」

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元東京市電ヨト1型141、142、145、146>四日市鉄道(デ)21、22、23,24の唯一の写真(伊勢新聞)1935年ごろに廃車

S先生 「そうですね、四日市の経済人はさらなる地域の飛躍を目指して菰野に水力発電所をつくります。それが北勢電気株式会社で、四日市鉄道の社長九鬼紋七と平野太七が社長、専務取締役を兼ねていました。電力の宣伝の意味もあったのではないかと思いますね。この記事を見ていただきましょうか。電化開業にあたって東京市電ヨト1型を3台を買い入れて旅客運搬に使いました。」

M 「へえーー。この前も言ったけれど四日市の経済界って本当に凄い。電力会社までやっちゃったんですか。でも先生、東京の市電って線路の幅が違うじゃないですか、どうやって改造したんです。」

S先生 「市電の幅は狭いですから、車体はそのまま使えたのですが、線路の幅にあわせて車輪を縮めるという芸当はそんなに簡単ではありません。」

M 「我々、ナローの模型の好きな連中は、キットをよく改軌したりしますが、たしかに車輪は上手くやらないとフレがでたりしますね。」

S先生 「四日市には当時、最高水準の車両整備工場があった。それは元の関西鉄道の四日市工場です。東京の市電は船で運ばれてきて、関西堀という運河から陸揚げされて、そこで軌間762ミリの車両に改造されました。」

M 「昔の市史には、関西鉄道の四日市工場を源としてこの地域の機械工業が発達したとある。戦後の石油化学コンビナートのプラント・エンジニアリングや鈴鹿市のホンダを支えているのも、こういう会社が四日市にあったからこそ、のような気がしますね。代表的な会社が諏訪町にあった三重機械鉄工梶B」

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イラスト:小林泰生画

S先生 「そうそう、それで思い出した。四日市鉄道の車両の車輪はよく片減りしたといいます。それは四日市鉄道敷設の時の主任技師神田喜平氏特有の『神田カーブ』と呼ばれるカーブが原因と言われています。のちの電車もターンテーブルに乗せて時々は転向していましたが、コッペルの動輪を諏訪駅で外して、諏訪町の三重機械の大型旋盤で研磨するために、大通りを転がしていくのを子供のころに目撃したことがあります。」

M 「えーー。本当ですかあー。」

Kさん 「この電車を画像にして見ました。」

M 「いいですねえ、向こう製のHOの路面電車を9ミリナロー化して作ってみたいぐらい。台車は路面電車でよく使われるブリルですか。」

Kさん「いやペックハム製だといわれています。」

M 「色はこういう色だったの?」

Kさん「色相は想像ですが、白黒写真からの判定でみるぐらいこれぐらいの群青色だったのではないかと思われます。」

 

 

四日市鉄道101

(>三重鉄道101>三重交通デ51>1964.3廃車) 

ジェネラル・エレクトリック製 1923.5製造 電動機32.8Kw×2、自重8.1t B型BoxCab電気機関車

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M  「それでは、いよいよ本題の箱型電機101ですが、GEがもともと工事用とか、工場内の専用線の入換えのために作ったものだといわれています。箱型電機の定義は割りに曖昧ですが、こういう車体が四角いのが『Box Cab』、凸型のものは『Center Cab』ですね。廃車が1964年ですので、40代の自分にとっては記憶が無いのですが、先生の世代にとっては、伊藤桂一氏と同じように・・」

S先生 「そう懐かしい。よく乗りましたよ。これの思い出といえば、まずレトリーバですね。」

M 「えっ、それ何ですか。」

Kさん 「レトリーバ(Retreaver)、直訳すると『しつける』って意味かな。犬にゴールデン・レトリーバーってのがあるでしょ。あれと同じ。ポールが架線に圧着するようにバネで長さを伸縮する装置ですよ。車体の前面に箱みたいになってたり、円形だったり」

M 「おへそのようにくっついている奴ですね。」(笑)

S先生 「そうそう、これがおへそのように重要な部品でね。これがないとポイントのところでポールが架線から外れて、電気が止まって動かなくなってしまう。メーカーの名前は忘れましたが、これもアメリカ製で戦争が進むにつれて入らなくなって・・結局、どうしたかというと、駅のはじっこのポイントのところへくると車掌が最前列の客車の中からポールの紐をひっぱって一瞬、架線から離し乗り移す、という離れ業をやっていた。」

M 「こんなものは国産でできなかったのですかね。なにせ物資窮乏の折ですから。」

S先生 「それで戦後の混乱時には客車の屋根が自分たちの定席なもんだから、或るとき車掌にそれをやらしてもらったことがありますよ。乗り移るたびに頭のすぐ上で青白いスパークはでるわ、ちょっと怖かったですよ。」

M、Kさん 「ひえーーっつ。すごーい。」 

S先生 「実際、車掌が電柱に頭ぶつけて死んだり、堀木のカーブで客が落ちたりしましたね。」

M 「ぞーっ。」

S先生 「それに、この機関車の最大の欠点は粘着重量が不足していて、車体の中にはコンクリートの板を敷いてデッドウェイトにしていまして、おまけに戦争直後には機関車の中までつり革をつけてお客を乗せていましたよ。それによく脱線した。鵜の森神社の横でカーブでもないのに脱線して腹を見せていたのを見に行きましたよ。」

M 「これの模型でみても、車体のサイズに比べて異様に車輪がでかくていかにもバランスが悪い感じがします。最初は車輪のサイズが違っているのかと思いましたよ。80分の1の模型で直径にして1ミリは余分だなあ。脱線するわけですよ。でもなんとなく可愛いマッチ箱みたいで。模型を始めた頃に親に買ってもらった初心者向けセットに入っている機関車みたいでナロー好きの連中には好まれていますね。」

S先生 「四日市鉄道は三重軌道と合体して三重鉄道となるわけですが、昭和17年には内部―諏訪の間が遅まきながら電化されます。これは海軍燃料廠が四日市に来ることになって、その沿線に海軍の宿舎を作るのに海軍の骨折りでシンプル・カテナリー・サスペンション式という旧四日市鉄道の区間とは違う方式で作られたもので、両方行き来するには機関車も電車もポールとパンタグラフの両方備えることになった。もっともその後に湯ノ山方面も全部パンタ式になったのでポールはなくなりましたが・・」

Kさん 「Mさんのご要望で下のように3種類並べて書いてみましたよ。」

M 「うわー、真ん中のはやたら派手ですね」

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四日市鉄道101(三重交通デ51)三態     
S先生 「背が低いもので台付きのパンタとか、祭りの屋台みたいににぎやかでしょう。」

Kさん 「腰高は別にしてデザイン的にはポール時代のオリジナルが一番バランスがいいと思いますが、形態の違いとしてはパンタの他には、ヘッドライトを屋根に載せたのと、前面の窓が3枚引き戸になったり側面の窓も格子状になったりして、国鉄のED14っぽくなっていますね。」

M 「ED14ね。なるほどそれで昔の模型セットのように感じるわけだ。やっぱり僕もポールの姿が好きですね。音も『しゅるしゅる』てな具合で路面電車っぽい。しかし、このGEの箱電を入れて、先のボトムタンク式コッペル、蒸気機関車は駆逐されたのでしょうか。」

S先生 「ところが、そうじゃないのですね。前回の話で電化後すぐに安濃鉄道にコッペル3台を売り払ってしまったのですが、伊勢鉄道(伊勢電鉄、今の近鉄名古屋線)の工事で大量に砂利が必要になったため三滝川の架線の張られてないところまで入れる蒸気機関車を再び手に入れました。前回取り上げた三重軌道のコッペル3両は路面型でやや小ぶりですが、これはホイルベース1100ミリ、動輪径550ミリ、20馬力と日本に入ってきたコッペルの中でも典型的なBタンク、これの前身は猪苗代水力電気梶B大阪の湊町駅近くの運河沿いの立売堀にならべてあったものを買ってきたという、いわくつきの機関車です。」 

M 「さすらいの機関車、店先でさびしそうにしていたのを拾ってきたって泣かせる話ですね。しかし、そのころには蒸気機関車の中古ショップまであったのですね。(笑)それにしても当時の諏訪駅(今の四日市一番街あたり)は何ともにぎやかですね。漫画家の水野良太郎先生が近くに住んでいたそうですが、鉄道マニアになるわけだ。ナローの蒸気機関車や電気機関車がうじゃうじゃいるわ、伊勢電の特急が横をかすめて通るは・・」