初稿掲載[Nina, Feliz cumplean~os] 2004.10.18.

   2004年4月の
ブエノスアイレス駆け歩き

                                                       


ブエノスアイレス訪問も今回で4回目となった。

主に関東地方の、それもタンゴに一家言もつ少数の仲間たちに加わっての訪問である。

今、振り返ってみると、最初の訪問はまだ企業組織内に居た時期の1997年であったが、今回までアルゼンチンという国の経済環境の変化をタンゴ見聞の世界というごく狭い範囲ながら体験してきたことになる。

実は出発前の3月末、日本タンゴアカデミー殿より会報第14号(7月発刊)への掲載を依頼され帰国後に執筆した。当感想報告では投稿及び掲載済原稿のオリジナル文を基調にして、ページ数過多でカットしたものを復活させ、訪問先の印象等を付加して日誌形式で纏めてみた。
これから訪問を計画されている方々に多少なりとも参考になれば幸いである。

アルゼンチンの空の玄関口、エセイサ国際空港に着いたのは4月1日。3月中旬過ぎには残暑の厳しい日が続いていると聞いていたが、この日の最高気温は何と35℃を超えていたそうだ。その夜のテレビが “ホット”ニュースとして伝えていた。

【 1 】ブエノスアイレス滞在中に受けた包括的な印象

前回、2002年の10月に訪問した際のアルゼンチン(ブエノスアイレス)は金融危機の真っ最中であったため、日本では見掛けることのない銀行前の行列光景に遭遇したり、またそれに関連した社会報道に連日接したものであった。そういった記憶に対応する形で、今回の滞在11日間の印象を概括してみた。
今回はどうか。冒頭から結論めくが、経済もタンゴ界も変わりつつあるというのが実感
であった。
それは次の4点に於いてである。

[1]先ず、直感的に言えることはブエノスアイレスの街が明るくなっていた……

滞在中の前半は酷暑、後半は晩秋・秋雨といった気候変動の中で行動したが、少なくとも繁華街を行き交う現地の人々の表情に憂鬱さとか厳しさは感じなかった。2年前とくらべ店舗がリニューアルされて華やいだ雰囲気になっていた。
行き交う地元の人や店員の表情には落ち着きが感じ取れた。

[2]観光客が多くなっている…

昼間の繁華街の人通りの賑やかさもさることながら、夜間は観光案内に出ている有名タンゲリーアは勿論、劇場や中小タンゲリーアも盛況であった。タンゲリーアとかホテルはなかなか強気になっていた。

ホテルのフロント氏やフロント嬢に聞くと欧州や北米・中米からの観光客が増えているという。ワールド・トレード・センター・ビル破壊というテロ事件の影響が現れているのであろうか。北米への旅行者が減少していることを考え併せると、アルゼンチンを始めとするテロ環境にない一部の南米諸国(主としてA・B・C3国)に観光客が流れているのかも知れない。

[3]若いタンゴ・アーティストの活動が活発になっている……

タンゴ界が着実に世代交代の時期にさしかかっているようだ。

50〜60年前のタンゴ黄金時代を経験し、今尚現役を通しているマエストロはレオポルド・フェデリコ、カルロス・ラサリ、エルネスト・フランコ、エミリオ・バルカルセ、ルイス・スタッソ、ホセ・リベルテーラ、オスヴァルド・ベリンジェリ等々少なくなって来た。

ワインクラブでライブハウスでもある『クルブ・デル・ビーノ』《Club del Vino(Cabrera 4737、tel:4833-8330)》の週末の顔となっていた「ヌエボ・キンテート・レアル」の主、長老のオラシオ・サルガンも昨年末には引退してしまった。息子のセサル・サルガンにピアノの座を譲った。

一方、ライブ・スポットの老舗、『エル・ビエホ・アルマセン』で存在感を示す「セステート・スール」はすでに貫禄十分であり、そして昨今では前記の『クルブ・デル・ビーノ』の顔ともなっている「オルケスタ・エル・アランケ」は独自のスタイルを確立して単なる若手集団から抜け出した存在になって来た。固定メンバーでの楽団は持たないものの、高度な演奏力を持つ若手同士のコラボレーション・グループで活動しているのがピアノのアンドレス・リネッツキー、ニコラス・レデスマ、クリスチァン・サラテ、バイオリンのラミロ・ガジョ、パブロ・アグリ、バンドネオンのパブロ・マイネッティ、カルロス・コラーレス、マルセロ・ニシンマン、コントラバスのイグナシオ・バウチャウスキーなどであろうか。まだまだ他にもいる。

ここ1〜2年に活動を始めたグループでは、「オルケスタ・ティピカ(O.Tと略)・フェルナンデス・フィエロ」、「O.T・ラ・フルカ」、「O.T・インペリアル」、「O.T・サン・スーシ」などがセントロ街のバイレ・サロンで活躍中である。遠くない時期には先人スタイルの間借りから脱却を果たしてもらいたい。ピアニストのソニア・ポセッティは伴侶のダミアン・ボロティンも加わった5重奏団によって、自作のタンゴで固めたレパートリーで演奏活動を続けている。また、活動成果を問うようなCDアルバムも発表している。

このような動向については、読者諸兄の方がよくご存知だと思う。こういった活動を繰りひろげるメンバーの中から今後のブエノスアイレスのタンゴ界を背負って立つマエストロ・マエストラが何人も輩出されることを祈念したい。

[4]何といっても「食」の自給自足と食料品物価の安定はアルゼンチンの強み……

国家経済債務が破産状態にあることは紛れもない事実であり、耐乏生活を強いられているが、表面上は国民の生活に2年前のような悲壮感はみられない。ただ、ウィークデーに見る勤務者や週末に歓楽街を散策する若者の衣服には決して贅沢感はなく、むしろ慎ましやかである。アルゼンチンには忘れてならないことがある。肉、乳製品、穀物(小麦)など食品物価水準は電氣、機械などの他製品物価に比べて異常に低いという事実である。何もかもがジリ貧ではないのだ。

社会生活の基本、衣・食・住の内、とくに自給自足が出来るという食生活の安定はこの国の救いであり宝でもあろう。


【 2 】タンゴに浸かった11日間

(1)宿泊ホテル近くの繁華街

空港からホテルに到着すると、いつもながら身辺整理の後、先ずブエノスの感触をさらっと味わおうと隣り筋のフロリダ通りに出てみた。
ブエノスアイレスに来た観光客が先ずは流れてくるから、この通りの雑踏は相変わらずだ。
気が付いたらコリエンテス通りを突き切って5月大通りにまで来ていた。
『カフェ・トルトーニ』にはこのあと時間を見つけては何度も店オリジナルのセラミカ製品を買いに来た。併設されているミニホールには若手の演奏グループとか「キンテート・グラン・ティピコ・ブエノスアイレス」が出演していた。
                       
                    フロリダ通り                 『カフェ・トルトーニ』の正面

(2)ラ・ベンターナ《La Ventana(Balcarce 431、tel:4331-0217)》

第1夜はサン・テルモへ。訪問するタンゲリーアは30℃を超す昼間の暑さを癒す意味でも歯切れのいい演奏が楽しめる「
La Ventana」である。周りのグループから聞こえる言葉は英語とスペイン語であったが、全体としては欧州系の観光客が多いようであった。木曜日であっても場内は満席で溢水の余地がないほど混んでいた。

この店、今まではビデオを回すことに寛容であったが、このように来客が目白押しになると、一転して強気になり撮影を厳しくチェックするようになった。ここの出演者は週末には2ステージをこなしていたとの話を後日聞いた
                  
             カルロス・ラサリ指揮オルケスタ・ダリエンソ             全員参加によるフィナーレ演奏
             (前列左端はウーゴ・パガーノ)
 
                     

後半に登場するカルロス・ラサリ指揮のダリエンソ楽団の前座を務めるのは、「トリオ“ラ・ベンターナ”」である。トリオでダリエンソ・スタイルの器楽演奏をしたり、ワルテル・グティエレスやモニカ・サッチの歌伴奏をおこなったり…と大変である。プログラムもプグリエーセからピアソラ・ナンバーまで取り揃えて忙しい。

ここのプログラムの定番メニューになっている、「エヴィータ」風衣装で歌う〈アルゼンチンよ泣かないで〉とかフォルクローレ・グループの器楽演奏を途中に挟んで、ダリエンソ楽団が登場することになる。

ラサリとウーゴ・パガーノを中心にした3人のバンドネオン陣にバイオリン2人、ピアノとベースという7人編成で物凄い迫力で演奏するのはいつもの通りである。25分間ほどの演奏時間である。

フィナーレはいつもながらの全員揃っての〈ラ・クンパルシータ〉、〈7月9日〉などのオムニバス演奏である。

(3)エスキーナ・カルロス・ガルデルEsquina Carlos Gardel(esquina Carlos Gardel 3200、tel:4867-6363)》

地下鉄B線のエスキーナ・カルロス・ガルデル駅を出るとアバスト再開発地区の目玉、大型ショッピング・センターが目に入る。
その隣にガルデルの立像とタンゲリーア『エスキーナ・カルロス・ガルデル』、別名『Chanta Cuatro(チャンタ・クアトロ)』がある。2日目に訪問した。
                 
          『エスキーナ・カルロス・ガルデル』のステージ                 「セステート・エリカ・ディ・サルボ」

ここの舞台は1階ステージがダンスと歌、2階が演奏というようにステージが分かれている。このことを考えて席の位置を取ったので出演者の動きや表情をよく把握することが出来た。早くから団体客が次々と入場してくる。2年前の演奏グループは「エル・デスキーテ」(ピアノのフルビオ・ヒラウドとバイオリンのエリカ・ディ・サルボによる双頭のリーダーによるセステート。2002年にはCDを出した)という名前で出ていたが、今年はエリカ・ディ・サルボとセステートとなった。ピアノと第2バンドネオンが入れ替わったが、新しく入ったバンドネオン奏者は2002年の末頃まで「エル・アランケ」で第2を担当していたホルヘ・スペソートで、アレハンドロ・サラテとペアを組むことになったようだ。

ダンスは5組だが、カルロス・コページョ&ホルヘリーナ・グッシが招待参加していた。歌手は3名だが、名前はよく聞き取れなかった。この内の1人は容姿、歌い振りともにカルロス・ガルデルそっくりさん。
〈場末〉、〈ミロンガ・ビエハ・ミロンガ〉、〈カフェ・ドミンゲス〉、〈ボエド〉、〈デレ−チョ・ビエホ〉、〈心の底〉、〈華麗なる40年代〉、〈エバリスト・カリエーゴに捧ぐ〉、〈盲目の雄鶏〉、〈悪い仲間〉、〈ノクトゥルナ〉など正攻法のダンス・ナンバーに加えて、売り物のガルデル・ナンバーもカンシオンやタンゴの有名曲を取り揃えるなど飽きさせることがなかった。

女性歌手による〈氷雨〉とか〈古道具屋〉は現地で聴くという感傷も手伝ってか凄く得した気持ちになった。ダンスの演出効果には欠かせないのがピアソラ・ナンバー。定番ながら〈スム〉、〈アディオス・ノニーノ〉、〈リベルタンゴ〉、〈ラ・エヴァシオン〉を最小限で選曲。全体を通しての演出、ダンスや歌の選曲には大きな変化はないが、演奏スタイルはエリカ・ディ・サルボの色合いを出しているのか、「エル・デスキーテ」時代に比べてややソフトになっていた。個人的にはCDで親しんでいた所為かスタンポーニ作の〈我が友“チョロ”〉、ロビーラ作の〈彼奴をやっつけよ〉が今回とくに感動した。

(4)タコネアンド《Taconeando(Balcarce 725、tel:4307-6696)》

3日(土)は何と地下鉄が全面ストライキ。バスはどの線も満員。空車タクシーを捕まえ難い場所が多く、外出行動の所要時間が読めず困った。気温は昨日に続き30℃を超えた。

夜は今まで入場したことがないサン・テルモ地区の中規模タンゲリーア『タコネアンド』へ行った。以前、日本のテレビ番組がこの店のダンス・シーンを撮って放映したことがあった。その時のイメージ通り80人程度の収容能力ながら、舞台を囲むこじんまりとした座席空間は落ち着きがあって観賞しやすかった。
                             
                         バルカルセ通りの歩道に出ている『Taconeando』の立て看板

大人数の団体は来ていないが、オランダ、ポーランド、ギリシャ、スイス、ポルトガル、スペインといった欧州圏からの小さいグループが目立った。勿論、アメリカ、カナダ、ブラジル、ペル−という観光のお得意さんも。それに『タコネアンド』を週末の楽しみにしていると言う地元の家族グループも何組か来場していた。23時前の開演どきには満席になった。

  
 出演中のエドゥアルド・マラグアルネーラの親戚、     男性歌手(アンドレス・ガストン)と                 ベテラン・バイオリン奏者の
 医師一家(右前はエドのお姉さん)             
女性歌手(スサーナ・クリスチアーニ)
         エドゥアルド・マラグアルネーラと共に

嘗ては今は亡きノルベルト・ラモスが4重奏団を率いて常時出演していたところである。現在はバンドネオン奏者アドルフォ・ゴメスの4重奏団が出演している。バイオリンは今年6月九州のタンゴファンの招聘でトリオを組んで来日したエドゥアルド・マラグアルネーラ。
開演の前後には我々の席に来て、“訪日が楽しい”と盛んに愛想を振りまいていた。コントラバスはダニエル・プッチである。ダンスの3組は派手さはないがなかなか達者。

男性歌手のアンドレス・ガストンと女性歌手のスサーナ・クリスチアーニが専属歌手のようだ。何年も歌い込んだであろう持ち歌を直向きに披露してくれたが、前者の「我が人生のすべて」、後者の「ウノ」や「空のひとかけら」などの歌い振りはなかなか好感の持てた。後半に15分程続けて歌ったエドゥアルド・プリスはゲスト歌手であろうか。「淡き光に」、「首の差で」などポピュラーな曲の他に、聴き慣れないミロンガやタンゴを歌っていた。お喋りが多かった所為か言葉の分かる地元やスペイン語圏と思しき客だけが反応していた。

〈バンドネオンの嘆き〉、〈オルランド・ゴニに捧ぐ〉、〈悪い仲間〉、〈盲目の雄鶏〉、〈デレチョ・ビエホ〉などの器楽演奏ではダンスを伴って、そして〈ラ・クンパルシータ〉や〈来るべきもの〉ではソロをふんだんに入れた器楽演奏に徹して場内を沸かせていた。

(5)エル・ナシオナル劇場《Teatro el Nacional(Av.Corrientes 960、tel:4324-1010)》

4日(日)も引き続いて30℃以上という暑さ。酷暑の中をデフェンサ通りとインデペンデンシア通りの交差点付近からドレゴ広場にかけて昼の下町散策を楽しむ。プグリエーセ・スタイルをちょっぴり拝借してCDも出している「オルケスタ・ティピカ・インペリアル」が近隣のカフェ・レストランに出演していたらしいが、残念ながら買い物に熱中していた為、聴き損なってしまった。

ブエノスアイレスに来ていつも散策コースに組入れているのはタンゴ人が眠っている墓地である。ドレゴ広場近隣を歩いた後はリディア・プグリエーセ夫人と共にガルデル、プグリエーセ、ダリエンソ、ディ・サルリ、トロイロ、C.エステバン・フローレス等々の墓があるチャカリータ
墓地へ。続いてビジャ・クレスポ地区の一角に建立されている偉大なマエストロ、プグリエーセの胸像に訪亜の挨拶を…と言った具合である。なお、2日の午前中は徒歩でCementerio de la Recoleta(レコレータ墓地)まで行き、往時のエヴィータ(ペロン大統領夫人)を偲んだ。
              
      O.プグリエーセの胸像      O.プグリエーセのピアノ演奏全身像     エヴィータのツンバ・プラカ
      (ビジャ・クレスポにて)          (チャカリータにて)              (レコレータにて)

夜の訪問先は『テアトロ・エル・ナシオナル』。前回(2002年)に入場機会を失したタンゴ・ミュージカル「タンゲーラ(Tanguera)」を観た。予め承知していたことであるが、ミュージカルとは言っても音楽は生演奏でない。実際に舞台に流れる音楽は同名タイトルのCDとは違っているようだ。新鮮な感じがした。会話が入らず他愛ないストーリーであるから、スーッと雰囲気に入ることが出来た。

                   
    『エル・ナシオナル劇場』のネオンサインと“タンゲーラ”の広告             4月4日(日曜日)の入場券

ここで、出演者について気付いたことを書き留めておきたい。主役ではフランセシータ・ギセジェ役のモラ・ゴドイとマダマ役のマリア・ニエベスは2年前と同じであるが、ガウデンシオ役のフニオール・ソアレスはアントニオ・セルビージャに、ロレンソ役のファン・パウロ・オルバスはエステバン・ドメニチーニにそれぞれ代わっていた。

歌手は今人気の高いリディア・ボルダからマリアネージャになっていた。場内配布のパンフレットに記載されていることからみて、交代制による変更ではないようだ。曲ではCDに入っていない〈デレチョ・ビエホ〉、〈ラ・クンパルシータ〉、〈バンドネオンの嘆き〉などのような超有名曲が取り込まれていた。
            冒頭場面の“港(El Puerto)” のプログラム       同左のステージ・シーン        壁画ではなく畳2枚ほどのサイズの油絵(一部分)

上記写真(左端と中央)のような場面別のプログラムに従って、第1場面“序曲”に続いてブエノスアイレスへの入国光景扱った“港(El puerto)”の第2場面に移る。ここで入国女が歌う“約束の場所(Tierra promision)”が流れる。場面3で流れる「共同アパート」(El conventillo)はこのミュージカルのテーマ曲のようなイメージを与えてくれる。このようにして「アパートの中庭」、「キャバレーの奥部屋」等々と場面が進み、最後の場面11では再度“港”と題して、男(ロレンソ)と女(ギセジェ)の間の恋のシーンが演じられる。そしてエンディングに入って行く。主演のモラ・ゴドイ、エステバン・ドメニチーニなど溌剌としたアクションに時間を忘れて楽しむことが出来た。

会場は日曜日ということもあってか満席。観客はタンゲリーアと違って、ご当地ブエノスの人が多かったようである。遅い夜食を取ったラバジェ通りのレストラン「Papa Filetes」の店内には大型キャンバスに画かれた素敵なタンゴの絵が掛かっていたので、写真(上記右端)を1枚撮らせてもらった。

(6)カルロス・パス(Carlos Paz)観光

5日目から7日目にかけてはカルロス・パスとコルドバ市への旅中旅。ホルヘ・ニューベリー空港から1時間少々掛けてコルドバ空港へ。ここからチャーター・バスで目的地へ。内陸型のリゾート観光地であるが、観るべきものはなく無意の日を過ごした。

(7)教会と大学の都市、コルドバ(Cordoba)市

6日目の昼にはコルドバ市に戻り、ポイントだけの市内観光をする。時折、小雨の歓迎もあって早々にホテルに入った。落ち着いた50万都市であるが、明らかに街の景観にそぐわないような商業施設が建設され始めたようである。違和感のあるアメリカ系の大ホテル(実はここに宿泊した)、ケバケバしい外装のハンバーガー・ショップ、スーパーマーケット等のオープンは比較的最近のことと思われる。

夕方にはコルドバ訪問の目玉であるファンタジック・ピアニスト、「ホルヘ・アルドゥー」が宿泊ホテルまで来てくれた。歌手のマルセロ・サントスも帯同してである。仲間全員が喜んだのは言うまでもないが、これで旅半ばの疲れが吹っ飛んでしまった。サインを貰おうと予めブエノスでアルドゥーのCDを購入して来た強者もいた。1時間余にわたって、自身のオルケスタにおいてお得意のレパートリーである〈降る星のように〉、〈ラ・クンパルシータ〉、〈あなたの影〉、〈わが愛のミロンガ〉などをホテルのグランドピアノで披露してくれた。

現在も出身地のコルドバに在住する日本贔屓のムシコ、アルドゥー氏の気遣いが嬉しかった。1924年生まれだから、既に80才。身のこなしや外観からはとてもそうは思えないほど元気であった。コルドバのタンゴ勇士にはいつまでも元気で居て貰いたい。

                      
              談笑するホルヘ・アルドゥー       演奏するホルヘ・アルドゥーと歌うマルセロ・サントス

(8)『コロン劇場(Teatro Colon)』での「魔笛(La Flauta Magica)」観劇

7日(水)の夕方、ブエノスアイレスに戻った。19時からは過去3回の訪亜で一度も実現しなかった、憧れのオペラハウス『コロン劇場』で観劇することになった。訪亜後であったが、現地在住者の協力でバルコニーの指定席を同行者分確保出来たのだ。

演目はオペラ慣れしていない小生にも理解可能なW.アマデウス・モーツアルト、最後のオペラ作品「魔笛」。3階席から場内を見渡すとオペラハウスの迫力に圧倒される。1997年には場内有料見学会に参加してフロアーを通ったが、荘厳さはその比でない。3大歌劇場と言われる所以なのだろう。6分余りの序曲が終わる頃には、気持ちは既に「魔笛」の雰囲気に入り込んでいた。このオペラにはオペレッタのような喜歌劇的な要素が加わっており、現代のミュージカル劇にも繋るものがあるように思えた。
     
 ヌエベ・デ・フーリオ大通りからの『コロン劇場』     対向するバルコニー席を斜め撮り            「魔笛」の入場券

なお、オーケストラ・ボックスの演奏者を隈無く観察した同行者の1人が、タンゴ界でも活躍しているバイオリン奏者“マウリシオ・マルチェリ”の姿を確認したようである。

(9)『カフェ・エル・ガト・ネグロ』における女性歌手、ミルタ・バケのライブ

8日(木)はブエノスに来てはじめての小雨日。期待していたアルベアール劇場におけるブエノスアイレス市立タンゴ・オーケストラの演奏会が中止になった。聖週間が始まる前日で演奏者が集まらないためだろうという話を聞いた。

夜の訪問先はコリエンテス通りとモンテネグロ通り交差点近くにあるカフェ・レストランの『エル・ガト・ネグロ』。東京出発前から同行者の一人が訪問話を進めていた女性歌手ミルタ・バケの自主ライブである。彼女は“法学博士”氏の奥さんであるが、“tangos”というタイトルのCD盤(2002年アルゼンチン録音)も出しているという歌好きの方である。〈まるで他人の様な二人〉、〈わが人生の全て〉、〈ミロンギータ〉など長年歌い込んだレパートリーの曲は流石に素人の領域をとっくに超えている。首の限界まで頭を起こしてミルタの顔を仰ぐという最前列の席で熱唱を堪能することが出来た。しかし、この至近距離からでは閃光を浴びせることなど到底出来るものでなかった。したがって、颯爽としたファッショナブルな歌唱姿を掲載出来ないのが残念である。
                         
                                自主ライブで歌うミルタ・バケ
                          
 バンドネオンのポーチョ・パルメルは一部分しか見えない 

あまり大きくない場内には彼女や夫君の友人、知人、地元のタンゴ・ファンが詰めかけて立ち席まで出ていた。ピアノ、バンドネオン、そして歌によってはバテリアがサポートを担当したが、バンドネオンは何度か来日して顔なじみのポーチョ・パルメルであった。

(10)ホームコンサートにおけるモンテス=アリアス=ビアンコ

個人的に10日(土)夜の訪問先として狙っていた『カフェ・トルトーニ』(キンテート・ティピコ・ブエノスアイレス)とか『クルブ・デル・ビーノ』(新編成のキンテート・レアル)はリザーブ出来なかった。祭日休店で行き場を失った観光客が纏まって殺到したためであろう。幸いなことに同行者の尽力により、私邸でのコンシエルト・デ・ラ・カサ(ホーム・コンサート)が実現したので参加させてもらった。

参加のアルティスタスは“マリネーロ”ことオスヴァルド・モンテス、アニバル・アリアス、そして歌手アルベルト・ビアンコの3名。マエストロたちと第一線歌手という贅沢な布陣であった。

モンテスは6月中旬自身の4重奏にアリアスをゲスト・ギター奏者として迎えて来日し、成功裡に全国公演を終えた。某会場でのコンサート終了後には、「ホーム・コンサート」時に約束した指定依頼品を無事手渡すことが出来た。
                  
                           
左からビアンコ、アリアス、モンテス

ビアンコはモンテス=アリアスのサポートで〈マレーナ〉、〈破局〉、〈遥かなる我が故郷〉、〈グリセ−ル〉、〈動機〉、〈アジャクーチョ通りの部屋〉、〈灰色の昼下がり〉などをたて続けて披露してくれた。2人の器楽演奏でも〈よろこび〉、〈酔いどれ達〉、〈わが愛のミロンガ〉などいつものステージの雰囲気を漂わせて演奏してくれた。

(11)昼のタンゲリーア巡り

今回の訪問でスケジュールに入りきれなかったタンゲリーア、タンゴ・バールなどを11日目の昼前に90分程の時間を割いてタクシーで巡ってみた。サン・テルモ〜バラカス〜モンセラート〜パレルモ(カブレーラ)といった地区である。当然のことながら、夜とは異なった下町の在りのままの表情に出合うことが出来た。その代表的な姿がサン・テルモ地区のエンペドラード(石畳道路)とコルドン(歩道縁石)であろう。電車のレールがそのまま残っている。エスタードス・ウニードス通りがデフェンサ通りを抜けて『バル・スール』前を通り、その東端がパセオ・コロン通り[フランシスコ・カナロ作曲=フアン・カルーソ作詞による名作品、〈ガウチョの嘆き〉の歌詞に出てくる]に出合うあたりまでを散策してみた。嘗て栄華を極めた通りのなごりを味わうことが出来た。

バルカルセ通りにある『エル・ビエホ・アルマセン』《El Viejo Almacen(Balcarce 799、tel:4307-7388)》の周辺は夜間には得られない近隣住民の生き様を垣間見て現代のサン・テルモを実感することが出来た。

                 
            バルカルセ通りのバル・スール                   エル・ビエホ・アルマセン・レストラン〜パセオ・コロン大通り

                         
           エスタードス・ウニードス通りの石畳                      バルカルセ通りのエル・ビエホ・アルマセン
                    

バラカス地区にはブエノスアイレスのタンゲリーアで最大の収容員数を誇る『セニョール・タンゴ』《Sen~or Tango(Barracas、H.Vieytes 1653、4303-0231)》はよく知られた存在。正午の陽光を正面から受けて派手な彩りが眩しく輝いていた。エントランスの上面に来場した(或いは予定)顧客の国の旗が9本ひるがえっていた。やはり日の丸は存在していた。

『セニョール・タンゴ』に行く際、ダゴスティーノ=バルガスのコンビによりヒットした‘歌のタンゴ’、「トレス・エスキーナス」(三叉路)の跡地と思しき付近をタクシーが走行しているのに気付いた。客席での“題名の独り言”に耳聡く気付いた“運転手氏”は何とこの歌を口ずさみ始めた。嬉しくなって手を叩いたのが悪かった。イタリア系という陽気な同氏が更に調子に乗ってきたのは言うまでもない。ハンドルのことなどお構いなしに両手を上げてのゼスチャーを入れ始めたのだ。ハラハラして両足を突っ張り、カメラのシャッター・チャンスを失して終った。
                 
      バラカス地区、ヴィエイテス通りのセニョール・タンゴの正面      セニョール・タンゴ正面右の建物に施された壁面画

(12)タンゴ人を描いた地下道のタイル壁画

ここで地下鉄の探訪を一つ紹介しよう。2度目のタイル壁画訪問となった。地下鉄A線リマ駅とC線5月通り駅を結ぶ地下道に施されたタイル壁画は通勤のラッシュアワーを外して行けば楽しい場所である。通路幅は結構あるが、人通りの煩雑な時間帯にカメラ等を構えていると迷惑だろう。3枚のタイル壁画を見つけた。@アストル・ピアソラとバンドネオン、Aフリオ・デ・カロを中央にしたもの、もう一枚はBアニバル・トロイロ〜カルロス・ガルデル等を集めた構図のものである。
                
                @                     A                     B

(13)カフェ・レストラン『レクエルド』のランチタイム・ライブコンサート

ランチタイムにはボエド通りとカルロス・カルボ通りの交差筋にあるタンゴ・レストラン『レクエルド』、またの名を『エスキーナ・オスバルド・プグリエーセ』に行った。2000年に火災に遭う前は『アラバマ』と言う名の店であったが、当時と同じように現在でもプグリエーセの写真や公演ポスターなどが処狭しと飾ってある。

今回の訪問は3回目である。地元の人が集まる店だから、電子ピアノの伴奏で3人の歌手がお客と表情に呼応ながら歌ったが、場末っぽい雰囲気がブエノスを実感させてくれた。ピアノ奏者はマリオ・マルモといい、何年か前にトリオで歌手2人の伴奏をしたスタジオ録音のCDが出ている(註:CDタイトルはUn Tango Vos y Yo)。この中の1人である女性歌手のシルビア・ニエベスが当ライブにも出演していた。生ではじめて聴くドミンゴ・フェデリコの〈心のときめき〉は嬉しかった。

他に2人の男性歌手、ルーベン・セラーノが〈最後のカッコいい男〉、〈やって来た女〉など、ミゲル・ロマンが〈忘却〉、〈魔法の草〉などをそれぞれ下町風に歌っていた。
                 
               カフェ・レストラン『レクエルド」』
の屋根看板     ボエド通り沿いのガラス窓に貼ったライブ予告

(14)タンゲリーア『エル・ケランディ』《El Querandi(Peru 302、tel:4345-0331)》

今回の旅の締めとなる夜の行き先は、モンセラート地区はペルー通りにあるタンゲリーア『エル・ケランディ』である。ここは毎回訪問する店である。看板歌手はカルロス・ガリ。マリアニート・モレスの孫に当たるガブリエル・モレスも出演している。

演奏はビクトル・ラバジェンも加わっているクアルテート・エル・ケランディ。ピアノのアド・ファラスカがリーダーを務める。このグループの代表的な器楽演奏は〈ソロ・グリス〉、〈エル・エントレリアーノ〉、〈ティエラ・ケリーダ〉などで聴けるが、リズムの切れが大きくスピード感溢れるもので心底タンゴを楽しむことが出来た。これは「クアルテート・タコネアンド」、「トリオ・ラ・ベンターナ」、今回行けなかったが『エル・ビエホ・アルマセン』の「セステート・スール」の奏法にも共通している。ステージ・ショーの大半はダンス・シーンであるから、このように盛り上げを意図した編曲・奏法になるのであろう。〈ベンタロン〉など歌の伴奏ではオブリガードなどにタップリと飾りをつけ歌の雰囲気に変化を持たせていた。
                  
              『エル・ケランディ』の有名なレトゥレーロ                 入口全景

(15)ピアソラ・タンゴ《Centro de arte y espectaculos(Florida 165/San Martin 170)、www.piazzollatango.com》

なお、兼ねてから訪問を考えていたのは、アストル・ピアソラに関わる情報を集めたAstor Galeria(アストル・ギャラリー)とかTeatro Astor Piazzolla(ピアソラ劇場)といったスペースで構成されるShow and Art centerであるが、今回の旅行中には残念ながら足を運ぶチャンスが持てなかった。聖週間などの休館日に出会したり、スケジュールが調整出来なかったためである。

上記のサイトには「ピアソラ・タンゴ」館の内容が80秒程度の動画像で紹介されている。また、“Discografia”のファイルでは完成度の水準は分からないが、2003年までに出たレコードやCDを若干のデータ付きで閲覧することが出来る。

この「ピアソラの館」、一度は訪れてみたいところである。
                   
                         「ピアソラ・タンゴ」の広告(タンゴ紹介誌
 “El Tangauta” より)

【 3 】終わりにあたって

経済情勢が改善されつつあるのだろうか。

アルゼンチン経済に関するネット・サイトを見る限りでは、金融システムの崩壊、ハイパーインフレ、GDPの減少などと言った経済ショックの状態から、遅々としてではあるが、立ち直りつつあるようだ。

4ペソ/米ドルを超えていた嘗ての為替相場も今は2.7…ペソ/米ドル(訪亜期間中)で安定していた。大都市のブエノスアイレスや中都市のコルドバだけを見て、しかも短期の旅行滞在だけでこの国の印象とかタンゴの実情を語るのは当を得たものでないと思うが、当旅行報告については一タンゴファンという視点からの感想ということでご了解戴き瞥見願えれば幸甚です。

この仲間の旅は毎回そうであるように、参加各位の手作りになるものである。今回もスケジュールや訪問先などにおいて“意外性”と“機知”に富んだ楽しさ溢れる2週間となった。
                                      −完−


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