そろそろ、タンゴの話に移ろう。
近所に住んでいた、オルディーズと外国映画の好きな1年先輩の畏友(のちに彼は薬学士となって県庁で活躍した)が教えてくれた
深夜ラジオ放送の音楽番組について少し話をしたい。まだ高校生、1955年頃のことである。
 
この番組との出会いが切っ掛けとなって、タンゴが生涯の友となってしまった。
週末の指定時間帯をチューニングすると、軽音楽(かなり前にこの言葉は死語になった)専門の番組で確かリクエスト・タイムとか言って、
当時の人気曲や歌のリクエストに応じていた。彼が言った通り、番組の途中でタンゴと言って紹介された曲が流れて来た。
足拍子を取りたくなるような感覚が全身を駆け抜けた。何曲か流れた中で今想い出せるのは2曲、つまり
「Cuando llora la Milonga(ミロンガが泣くとき)」と「La cumparsita(ラ・クンパルシータ)」であった。
実はこの後者の曲が曲者で、後年わたしの生活の一部に入り込んで来てしまった。
これが切っ掛けとなって、ダリエンソ、ディ・サルリを知り、カナロは特にピリンチョ、それにフィルポ、更にはデ・アンジェリスやロドリゲスに
現をぬかすには、それ程時間は掛からなかった。
工業大学で金属加工を専攻した学生時代、研究過程でデータ処理評価を学んだことからか、以降のタンゴ嗜好と評価に一層拍車がかかった。
世はLPレコード、さらにステレオの時代に入ろうとしていた。
当時、中南米音楽研究会の名古屋支部的な存在(名前はよく覚えていないが)だったタンゴ・ラテンの同好会には時たま顔を出した。
そして、この音楽に意外と熱い思いを持った老若男女が多いことを知って感動した。
今でも近くでタンゴ・コンサートなどがあると、当時若手の同好会世話人として仕切っておられた方々にバッタリ出会える。これは最高にうれしい。
 
こういったいい経験と思い出を携えながら、いよいよ社会人にになった。東京オリンピックの数年前である。
日本が経済の高度成長期に向けてアクセルをいっぱいに踏み込んでいた時期である。
入社後の何年かは残念ながら「ボクはタンゴ大好き人間」なんてヤワイ話をしようものなら、ぶっ飛ばされかねない雰囲気の中で生活していた。
だが、ここにあって神はお見捨てにならなかった。
 
それは、当時「労音」という全国的な労働組合の啓発組織があったことである。管理職に登用される迄は、入社後自動的に入会する仕組みが
あった。何はともあれ、頻繁に招聘開催される音楽コンサートに参加出来るようになった。
クラシック系ではバロック音楽、ジャズ系では室内楽的なMJQ(モダン・ジャズ・クァルテット)とかジョージ・ルイス(ニューオルリンズ・
ジャズバンド)のような演奏会に動員がかかったので、喜々として参加した。MJQを入口にして、ディジー・ガレスビー、バド・パウエル、
ビル・エバンス、マッコイ・タイナー、ホレス・シルバーなどのハードバップ・ジャズが好きになり、学会報告の谷間の時間、束の間の時間を
割いてはレコードでピアノのファンキー・トーンを楽しむようになった。タンゴは何故か声が掛からなかった。
これが幸いしたのだろうか。その頃、装いも新たに登場した「タンゴの異端児〜アストル・ピアソラ」の音楽が大変新鮮に聞えたのだ。
それは、前出の友人に貸してもらったVOGUEレーベルの「Sinfonia de Tango」というLPレコードを聴いた時のことである。チャウ・パリ、
バンドゥー、ピカソなどピアソラ・オリジナル曲が入っていた。
タンゴ以外の音楽に多少なりとも下地が出来ていたことが「ピアソラ音楽」に対してレセプターとして作用したのであろう。いや、そう確信している。
 
さらに、遅ればせながら手に入れた、DiscJockeyレーベルの「オクテート・ブエノスアイレス」とMusic Hallレーベルの「オルケスタ・デ・
クエルダス」を聴いて、ますますピアソラ音楽の虜になってしまった。それでも自分の頭の中で、ピアソラ音楽がピアソラ・タンゴとなるには、
1961年に2枚制作されたキンテートのレコードを聴くまで(輸入盤の入手がかなり遅れたが)ちょっと時間を必要とした。
このあとは転げるようにアストル・ピアソラのチャレンジするタンゴを追っかけてレコードを求め、感激を更新していった。

第1部の期間内で、どうしても書き落とせないことがある。新幹線が走ったこと、東京オリンピック開催、パンチート・カオが会場でクラリネット
を演奏
していた大阪万博の開催など、インパクトの大きい思い出である。
そして・・・・・、良きパートナーにめぐり会えた。 結婚という人生の大きな節目を経験し、3人の子供も授かった。
結婚6年目の夏。まだオイル・ショックの激震など世間一般では考えてもいなかった時期だった。
1971年の8月21日付けで東京本社の技術本部という丸の内族に転身する日がやって来た。はじめての東京生活であった。
公私両面で人生の転機となる家族全員の移動となった。
この時、末っ子は生後1年未満であった。生まれ故郷・県内に勤務し、また姓が変わった今でも地元言葉は辿々しい。
標準語をマスターするより、ローカル訛りを話す方が難しいようだ。

                   
プロフィール 次へ