Enrique28の『Salon_de_Tango』(中部サロン・デ・タンゴ)へ ようこそ!
私 Enrique28のプロフィールは簡略自分史的なものにしました。
「タンゴ」に関係しない部分は着色しました。ご興味のない方は飛ばしてご覧下さい。
更新日:2014.08.11.
【第1部】 原産地で生活した時代(1971年まで)原産地は某県某郡日永村字大瀬古。寅歳生まれ。血液型は何故か歴代続いた純粋系のO型。
小学校低学年で終戦をむかえた。
毎夜のように繰り返される軍需工場(後の石油コンビナート)への爆弾投下を恐ろしさに固まりながらも
花火を眺めるような感覚で見て(見せられて)いたように思う。
我が屋敷内には2発の焼痍爆弾が遠慮気味に物置小屋へ落ちた。幸なことに人災はなかった。
サイパン方面に帰還するボーイング機が残ったものを整理していったのだろうと噂されていた。
また、今になって思えば、親父のレコード箱に入っていた「巴里ムーランルージュ楽団」や「藤原義江」
のシェラック(SP)盤は、爆弾が母屋から少し逸れたお陰で焼失せずに残ったのであろう。
話は変わって終戦後。戦時体制下での記述文体や用語を削除する、いわゆる「教科書の墨入れ」から
私の戦後は始まった。勿論、家に帰れば、背に腹変えられない芋作りなどの“にわか農作業”に追い立て
られた。今どきの家庭菜園とか言うような“きれい事”ではなかった。
その様な日常生活の中で、時間のある限り楽しんだのが“野球”であった。本を折り曲げて紐で縛ったままの
ファースト・ミット、2枚の端切れを器用に縫い合わせたボール、お袋に作ってもらった手袋のお化けのような
布製グローブ。これらの道具でボールが見えなくなるまで遊んだ。
そんな夢中の遊びの後で、ふっと思ったことがある。今夜の晩飯は何だろう?と。
電気が灯された家に走って帰るのもうれしかった。
もう一つ熱中したことがある。「LOS TIGRES BRAV0S」である。“鐘の鳴る丘”とか“リンゴの歌”も
好かったけれど、時すでにプロ野球「阪神タイガース」の熱烈ファンになっていた。
愛読書は雑誌「野球少年」だった。
プロ野球復活の2年目、1947年の阪神優勝には子供同士で大騒ぎしたのをはっきりと憶えている。
当時は学校でも地域社会でも身の回りは大抵「阪神」か「巨人」のファンであった。
戦前も監督だった若林忠志は復帰第一年目で、投手も兼ねたプレーイング・マネージャーとして活躍した。
そして何と26勝もあげ最高殊勲選手に選ばれた。チーム打率は2割6分近くでダントツだった。
この辺りから“猛虎タイガース”“ダイナマイト打線”の威名をとることになったようだ。因みに1948と1949年
は各々3位と6位(何れも8球団制)であったが打率はトップであった。投手の防御率は下から数えた方が
早かった。
中学校にあがった年には、プロ野球がセントラルとパシフィックの2リーグに分裂した。阪神からは若林、
土井垣、別当、本堂等の中心選手がごっそり新造球団の毎日オリオンズに引き抜かれていった。
プロ野球の話はここいらで止めにする。
虎キチ・ファンの方は目次のファイル(ビジュアルなページにするため整備中)もご覧戴きたい。
さて、中学時代。新聞は朝鮮動乱の記事で覆いつくされていたのを記憶している。
新聞でも何でも乱読するのが面白くてしようがなかった。
また、今と違って読めばスーッと頭に入った。それがまた楽しかった。
ここで一気に高校時代へ。学校の隣を流れる小川の堤防には実に見事な桜並木があった。
これが入学時の印象であるが、もっとインパクトの強い事件?が3年生の時に発生した。
何と同級生が中心の野球チームが、阪神タイガースの本拠地“甲子園球場”に初出場(旧制中学時代には
1回出場)し、そのまま優勝してしまったのである。投手で4番打者のM.T君は恵まれた体の割には技巧派
だった。卒業とともにタイガースの宿敵チームに入団した。その後のことは何故か記憶に留めていない。
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