イエスが来られ、共にある教会として                
                                               
マタイによる福音書21:1〜9、12〜16

     
  イエス・キリストは、ご自分にとって最後となる過越の祭りが始まる直前に、エルサレムに入城されました。この時は過越祭で、多くの人々が都エルサレムの神 殿に詣でたのでした。その最後のエルサレム行きで、イエスは象徴的な行動を取られました。それは、「ろばの子に乗ってエルサレムに入る」というものでし た。このマタイの福音書の特徴は、旧約聖書の言葉をよく引用することです。昔旧約の時代に、神様がイスラエルの人々に、やがて救い主・メシアが来ることを 約束し、予告なさいました。その神様がかつて約束された救い主が今まさに、このイエスというお方として来られたということを強調しているのです。今日の所 でも、まさにその特徴が出ています。マタイ福音書は、イエス様の「エルサレム入城」を、昔ゼカリヤという預言者が、神様から御言葉を受けて語った言葉が実 現したということだと示しながら、描いているのです。主イエスは、これからエルサレムに入って行かれるに先立って、二人の弟子たちを派遣して、近くの村か らろばの子を探して来させました。このろばに乗って、エルサレムに入城して行かれるのです。それについて、マタイはこう記します。「こうしたのは、預言者 によって言われたことが、成就するためである。すなわち、『シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる。柔和なおかたで、ろばに乗って、くびき を負うろばの子に乗って』。」
 この言葉が語っているのは、イエス様はまさに神様が約束された「救い主」「王」であるということです。そして、その「王」「救い主」としてのイエス様の 特徴は、「柔和」、「柔和なおかた」であるということです。この「柔和」さの象徴として、「ろば」「ろばの子」に乗って来られたのです。「ろば」と対照的 に考えられているのは、「馬」しかも「軍馬」です。もとのゼカリヤ書にはこういう言葉があります。「わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍 馬を断つ。」これは、約束された「王」「救い主」が来た時に、神様がなさろうとすることを述べたものです。神様は「軍馬を断つ」、つまり戦争の大きな武器 である「軍馬」や「戦車」をなくしてくださる、それは「戦争そのもの」をなくしてくださるということです。そのような「平和をもたらす王、救い主」とし て、イエス様は来られたのだと語っているのです。

 ところで、イエス様が「柔和なおかた」であるとは、どんなお方ということなのでしょうか。よく私たちは、「柔和」というと、「やさしい」とか「おだや か」であるということをイメージします。しかし、この聖書に出て来る「柔和」というのは、それとはだいぶ違うことを意味しているようなのです。
 この「柔和」は、マタイ福音書では、これまでにここも含めて三回も出て来ました。最初は5章の「山上の説教」でです。「柔和な人たちは幸いである」と主 イエスが語られたのです。この言葉をこう説明してくれている人がいます。「ここでもまた、貧しい、低い、卑しいと訳すこともできよう。―――今地上で抑圧 され、攻め立てられ、侮蔑されている人々が祝福されている。」(シュニーヴィント、NTD新約聖書注解より)イエス様は、そういう人たちを祝福し、神様の 愛、神様の光の下に置いてくださるのです。
 二番目は、有名な言葉「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」に続けて語られる言葉です。「わたしは柔和で心のへりくだった者 であるから」。先ほどの話から、まさに「重荷を負って苦労している者」が、「柔和な者」なのです。主イエスは、そのような人々を祝福し、そのような人々を ご自身のもとに招かれます。
 そして今イエスご自身が、そのように「柔和」だと言われるのです。「柔和なおかたで、ろばに乗って」。「イエスは貧しい者たち、無価値な者たち、低い者 たちを祝福される。―――自らには何も期待できず、すべてを神に期待しなければならず、実際にもすべてを神に期待した人々がいた。それは詩篇が語っている みじめな者たち、低い者たちである。イエスご自身ご自身をまさにこの名をもって呼ばれた。イエス自身は全く神に依り頼む者であり、神と人との貧しく無価値 な者である。」(シュニーヴィント、前掲書より)イエスご自身がそのような方なので、イエス様はそのような者たちを祝福し、招いてくださるのです。今主は ろばの子に乗り、「すべて重荷を負って苦労している者」たちへの招きと祝福をもって、このエルサレムに来、平和をもたらそうとなさるのです。

 大ぜいの人々が、イエス様とその一行を歓迎し、喜んで迎えました。「群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫び続けた、『ダビデの子に、ホサナ。 主の御名によってきたる者に、祝福あれ。』」しかしこの群衆は、イエス様のあの「柔和な者」「貧しく無価値な者」としての本当の姿、真の特徴に気づいてい ないのです。今は歓迎しています。しかし数日後には、「十字架につけよ」と叫び始めるのです。
 この大きなギャップは、主イエスが、エルサレムの中心、神を礼拝する神殿に入られてますます拡大し、歪みと亀裂を生み出すのです。「それから、イエスは 宮に入られた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛けをくつがえされた。そして彼らに言われた、 『「わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』。」
 イエス様の「直接行動」「実力行使」です。当時ユダヤを支配していたのはローマ帝国で、広く使われていたお金もローマのお金でした。でも、このローマ貨 幣には、皇帝の姿が神々の一人として刻まれていたので、主なる神だけを信じるエルサレムの神殿では礼拝用に使うことができないとされ、両替が必要だったの です。また献げ物も「清く、傷のないもの」でなければならないということで、そういうものと認められたものをその場で買って献げる方が便利だったのです。 それで、そういう商売をする人たちがたくさん入りこんでおり、そこから出る利益の一部を、神殿の偉い人たちが受け取っていたのです。でも、イエス様はそう したあり方を批判され、それをこうして行動で表されました。
 そうして「追い出された人々」があった一方で、主イエスの「みもとにきた」人々もいたのです。「そのとき宮の庭で、目の見えない人や足の不自由な人がみ もとにきたので、彼らをおいやしになった。 」またそれを見て、子どもたちはこんなふうにしました。「宮の庭で『ダビデの子に、ホサナ』と叫んでいる子どもたち」。「しょうがい」を負う人たち、まさ 子どもたち、それはあの「柔和な人々」を代表する人たちです。そのような人々をいやし、助けるために、まことの王、平和の主イエスが来られた。まことの救 い主・メシアが来られた!子どもたちは、それを直感的につかみ、感じ取り、そして神様をほめたたえ、讃美したのでしょう。「柔和な者たちのために来られた 救い主」を喜んだのです。

 そもそも、このイエスの抗議行動の理由・根拠は、どこにあったのでしょうか。それは、ここでイエスが語られた言葉の中にあります。「『わたしの家は、祈 の家ととなえられるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」このイエスの言葉は、旧約聖書の二箇所の言葉に基づ いていると言われます。それは、前半がイザヤ書56章、後半がエレミヤ書7章です。イザヤ書では、「わが家はすべて民の祈の家ととなえられる」と言われて います。それは、どういう意味で「すべての民」なのでしょうか。その前の所にこうあります。「主に連なっている異邦人は言ってはならない、『主は必ずわた しをその民から分かたれる』と。宦官もまた言ってはならない、『見よ、わたしは枯れ木だ』と。」「異邦人」とは、「外国人」のことです。「宦官」とは、権 力によって無理やり「障害者」にさせられた人のことです。
 また、エレミヤ書ではこう言われています。「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ――』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。――わたし の名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。」なぜでしょうか。こうあります。 「もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの 所に流すことなく」などと言われています。
 この二つの箇所に出て来る一連の人々は、「社会的弱者」であり少数者であり、苦しめられ差別され排除されている人たちではないでしょうか。そういう人た ちにも開かれることなくしては、「すべての国民の祈の家」であるとは言えない、そして現状はそうなってはいないということを、主イエスは行動と言葉をもっ てお示しになったのではないでしょうか。事実、当時の神殿には、具体的に礼拝する人々を区分けするための仕切りがあちらこちらにありました。「ここから先 は外国人は入れない。ここからは男だけ、ここから先は祭司だけ。」そして、そもそもサムエル記下5章によれば「目や足の不自由な者は、宮に入ってはならな い」と言われていたのでした。
 イエス・キリストは、排除されていたそのような人々をあえて一番に迎え入れることによって、本当にすべての人をも招きつつ、神の業を行われるのです。ま た学者や祭司ではなく、軽んじられていた「子どもたち」の口に讃美の歌を与えられた神を喜び、その歌声を受け入れることによって、神の御心と御業がどこ へ、どんな人たちへ向かっているのかを明らかにされたのです。「この『宮清め』の記事は、どの福音書にもありますが、マタイでは特に『目の見えない人や足 の不自由なひとたち』『子どもたち』が登場します。イエスさまの『宮清め』は、このような人たちを『神の家』に招き入れます。『祈りの家』とは、このよう な人に開かれており、『祈り』とはこのことの実現をも祈るものではないでしょうか。」(加藤)

 「柔和な者たち」のために来られた救い主です。「重荷を負って苦労している者」たち、「貧しい者たち、無価値な者たち、低い者たち、自らには何も期待で きず、すべてを神に期待しなければ」ならない者たちのために来られた、まことの王、平和の主です。このお方は、今日私たちのためにもおいでになるのです。 私たち教会は、またその一人一人は、このお方の前にどのようにして立ち、どのような者としてあろうとするのでしょうか。またこのお方は、あの時、神の宮・ 神殿にまっすぐおいでになったように、今私たちの「神の家」、私たちの教会にも入って来てくださるのではないでしょうか。そこで、私たちは、このお方に、 自分たちがどのような者たちであるとしてお会いしようとするのでしょうか。
 中米エルサルバドルのカトリック教会の司教であった、オスカル・ロメロのことが紹介されています。「彼は1977年2月、首都サンサルバドル司教区の大 司教に任命されました。最初は、どちらかと言うと、というよりも、かなり保守的な司祭でした。―――しかし彼は、そこで日常的に行われている人権侵害、暗 殺、虐殺に向き合う中で、次第にそれらと戦う決意を固めて行くのです。そして最後は、1980年3月24日、ディヴィネ・プロビデンス(神の摂理)病院付 属礼拝堂で、ミサを挙げ、聖体奉献をしようとしている時に、銃で撃たれて暗殺されました。」イエスが神殿でなさった行動は、「暴力的」「ヴァイオレンス」 と見えるかもしれません。しかし、「ロメロ司教は語ります。『私たちはヴァイオレンスを勧めたことはありません。キリストを十字架に釘付けにしたままの愛 のヴァイオレンスを除いては。私たちの自己本位や、私たちの間に周知の残酷な不公正を圧倒するために 私たち一人びとりが自らに行使スべき愛のヴァイオレ ンス。私たちが勧める愛のヴァイオレンスは、剣や増悪のヴァイオレンスではありません。それは、愛の、隣人愛のヴァイオレンスであり、武器を打ち直して鎌 とするヴァイオレンスなのです。』」(松本敏之『マタイ福音書を読もう 3』より)
 また、日本で長らく働いて来られた、あるカトリックの神父さんは、長年の宣教の働きの中でこのように語っておられます。「第一なのは、ますます、よりよ い人間に、よりふさわしい人間になる、ね。それは大事なんですよ。それは、結局、キリスト化する。―――それなんです。―――人間は、教会の道なんだ。教 会が至る道は人間なんだ。―――それはなぜかというと―――すべての人びと、一人一人の人びと、この具体的な人びとは必ず、イエスの死と復活とつながって いる。」(原敬子『キリスト者の証言』より)
 「イエスが来られ、イエスがおられ、イエスが常におられる教会」として、四日市教会がこれからも歩まれることを、切にお祈りしております。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 イエス・キリストは、「柔和なお方」として、この世に来られ、罪人の世界に来られ、私たちの教会にも来てくださいます。そして、「柔和な者たち」「苦し められ、差別され、排除された者たち」を招き、そこから始めてすべての人を、「神の国」へと、神の愛と恵みのお取り仕切りの中へと招き入れてくださいま す。復活の主は今もこの御業を、だれにも先だって進めておられますから、心より感謝し御名を賛美いたします。
 どうか、敬愛する四日市教会とそのお一人一人が、これからもこのイエス・キリスト共にあり、共に働き、共に生きる教会として歩んで行かれますよう、心よりお祈りいたします。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

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