ドーンと落ちてくる赦しの中で                
                                               
マタイによる福音書第18章21〜35節

     
 キリスト者であることの意味を、聖書からご一緒にたどり、聞きたいと思います。キリスト者であるとはどんなことでしょうか、キリスト者とはどんな人なのでしょうか。。生活での日常の出来事が、私たちのキリスト者としてのあり方を鋭く問うということがあります。
 ペテロがイエス様のところに走り込むようにしてやって来ました。そして問いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなり ませんか。七たびまでですか。」これは単なる理屈上の話ではなかったと思います。彼にとって切実な問題であったのです。ペテロには、どうしても折り合うこ とのできない者が、実際に弟子仲間の内にいたのではないでしょうか。その人がいつも自分に迷惑をかける、自分に対して不愉快な言動をする、何度となく自分 の名誉を傷つける。「もうがまんできない」ということで、彼はイエス様のもとに行って、こう尋ねた。「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさ ねばなりませんか。」
 ペテロとしては、随分と張り込んで、気前よく言ったつもりです。「七たびまでですか。」日本には、「仏の顔も三度」ということわざがあります。またユダ ヤにも、「神は一、二、三度までは許される、しかし、四度目は許されない」というのがあるそうです。だから、ペテロとしては、もうこれ以上はないというほ ど寛大に、そしてイエス様への遠慮もあったでしょう、「七度までですか」と問うたつもりでした。しかし、これに対して、イエス様はこう答えられました。 「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」ここで、珍しくジョークを一つ。「この後しばらくして、またあの憎らしい弟子が ペテロに対して罪を犯した。そこでその弟子はペテロに言った。『ねえ、許しておくれよー。イエス様もおっしゃったじゃないか。七の七十倍許せって。』する と、ペテロはこう答えた。『残念でした。今日が491回めでした。』」皆さん、もうお気づきでしょう。イエス様が教えられたのが、決してこのようなあり方 ではないということが。イエス様の言葉を聞いて信じるということは、「数える回数が、7から490に延びる」ということではないのです。もしそうだとする と、クリスチャンというのは、「一回、二回、三回、・・・・488、489、よーし、あと一回」と、執念深く、陰険になることになってしまいかねません。
 「7」というのは、聖書では「完全数」と呼ばれています。神につながる数であり、「永遠」とか「無限」ということを象徴的に意味することがあります。 「七」が一つだけでも、「永遠に」「無限に」「何度でも」ということなのです。それなのに、イエス様に、その七にもう一つ七をかけて、その上に「だめ押し の数」「十」をかけろと言われました。だから、ここでイエス様が言っておられるのは、「少しばかり気が長くなって、忍耐深くなって、少し大きな回数まで待 てるようになる」などということではなくて、むしろ「数えることをやめる」「人の罪の回数を数えることをやめる」「人の罪を数えない者とされる、そのよう な者となる」ということであると思います。イエス様の御言葉を聞き信じるとき、私たちは「量的に変わる」と言うよりは、「質的に違った人に、違った生き方 へと変えられる」のです。

 どうしたら、そんなことができるのでしょうか。どのようにして、そんな人になるのでしょうか。主イエスは答えられます。「それは、あなたの上にドーンと 落ちてくる、神の計り知れない赦し、驚くべき恵みによるのだ。」それは、まさに「ドーンと」という感じです。私たちの前に、「一万タラント」という数字が ドーンと現れるのです。
 イエス様はこの譬えを語られました。それは一人の王の姿です。家来たちと一緒に、彼らに預けたお金がもたらした結果をめぐって決算をしている王です。この王の前に、「一万タラント」という莫大な負債をこしらえてしまった一人の男が引き出されて来るのです。
 皆さん、この「一万タラント」という数字がいかに凄まじいものかおわかりになるでしょうか。一つの「ものさし」となる数字をご紹介しましょう。それは 「一デナリ」です。「一デナリ」は、当時の標準的な労働者の一日分の賃金であったとされています。あの「一万タラント」は、「六千万デナリ」に当たりま す。それで、これがどれだけ期間分の賃金かということを知るために、この「六千万」という数字を、「一年365日」で割りますと、驚くなかれ、これは 「16万4千3百83年と半年分」の賃金ということになるのです! 男は、王様に「どうぞお待ちください。全部お返ししますから」と言って懇願しました。 しかし、あの巨大な負債額を思うとき、それは虚しく響く弁解の言葉にしかなりません。到底返すことなどできない、「一生かかったってできない」、いやも う、一人の人間という枠組みを超えるような、それほどの数字なのです。
 なぜ、イエス様は、こんな途方もない数字を出されたのでしょうか。主イエスは、ご自身のすべての譬えを、「神の国の譬え」として話されました。これは 「神の国の物語」なのです。それは、神様の前に、この世界を創り、私たち一人ひとりをお創りになった神様の前に、私たち人間とはそういう者なのだ、という ことではないでしょうか。神の前に、私たちは皆、到底返せない負い目、罪を負っている者だということではないでしょうか。
 「そんな納得いかない」という思いが、私たちの内に沸き起こって来るかもしれません。ある方々は「人間の罪というものを、ただ個人的にだけ捉えてはいけ ない、罪は社会的な事柄であり、世界的なことなのだ」と言っておられます。そう言われますと、うなずけるところがあります。このような数字があります。二 十世紀の戦死者、つまり戦争で殺されて死んだ人の数は、一億五千万人を超えると言われています。戦争で殺された人の数は、増え続けてきました。ある統計に よると、16世紀には160万人、それが19世紀には1940万人、それが20世紀にはなんと一億五千万人、うなぎのぼりの数字です。これは単なる数字で はなく、一人一人神によって創られた尊い人格なのです。そして今も、一つの数字があります。国連の統計によると、現在40カ国以上の国と地域で年間25万 人以上の少年兵が働かされているということです。そんな子どもたちに武器を与え、人を殺すことを強いている、それが私たちが生きて、私たちも加わっている 世界なのです。私たち人間の歴史とは、これほどのおびただしい人たちを、無慈悲にも、理不尽にも、不正にも殺してきた歴史なのです。「一億五千」、この途 方ない数字を知るとき、イエス様が私たちの罪を、「一万タラント」で譬えられたことも、少しは身に迫ってくる気がいたします。

 さて、この男は、いったいどうするのでしょうか。と言うより、こんな状況を前にして、いったい何ができるというのでしょうか。ここに驚くべきことが起こ りました。その王、その主人は、その負債の返済を待ってやるどころか、なんと、その巨大な負債をいっぺんに帳消しにし、ゆるしてしまったのです!そしてそ の男を自由にしてやったのです。「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。」なんという気前の良さ、なんという恵み深さ! イエス様はこうおっしゃりたいのです。「私たちは、これほどの赦しを神から受けている者だ。」初めに戻るならば、クリスチャンとは、神の計り知れない赦し によって生かされ、生きている者だと言うことができるでしょう。
 ここから見るときに、どうして私たちが主イエスによって「人の罪を数えない者」とされるのかがわかります。いや、「数えない」のではなく、もはや「数え ることは意味を失い、虚しくなってしまった」のです。その第一の理由は、この譬えの「一万タラント」に表されている通り、私たちの罪は、だれのものであ れ、数えてもしょうがないほどに深く大きいものだからです。他の人の罪を数え始めるなら、それは「16万年」かかってしまうのです。「16万年」も数え、 数えられて待っていることなど、だれにもできはしません。
 第二に、この話の通り、「神は、そのような測ることもできないほどの私たちの罪を、もうすでにことごとく赦してしまわれた」からです。イエス様は、この ような譬え話をただ「お話」として語られたのではありませんでした。それは、主イエスの物語なのです。むしろ、イエス様ご自身がその生涯、あの十字架と復 活の道を通して、この比類のない神の赦しと恵みを示し、与えてくださったのです。主イエスが、私たちのすべての罪を引き受け、負い、そして苦しみ、死なれ たのです。イエス・キリストにおいて、私たちはこの驚くべき神の恵みに、ドーンとぶつかり、出会うのです。すべての、あらゆる罪は、神の前には、赦され て、もうどこにもないのです。だから、数えることは、もうできないのです。
 そして、そこから出てくる第三の理由は、「この私たちは、まさにその神の恵みによって赦され、現に今こうして生かされている」ということです。私たち は、「罪を数える」ことによってではなく、むしろ「罪を数えない、数えないでいただく」ことによって赦され、生かされたのです。それなのに、その私たち が、またぞろ「数える」ことを始め、それによって生きようとするなら、これほどおかしなことはありません。

 さてこの話には、この前半と、そして大切な後半部があります。そのように圧倒的に神から赦されたあなたがたは、これからどう生きるのか。この「大いなる 赦し」を受けたあなたがたは、これから、あなたと他の人々との間で、人と人との間でどう生きるのか。それが、このたとえによってイエスから問われ、教えら れ、導かれていることです。「彼が宮殿の門の前に歩み出るやいなや、全世界が―――天使も人間も―――彼を取り囲みます。そして全世界がかたずをのんで彼 を見守っています。事態は今後どうなるのだろう。あれほどの特別な経験をしたこの人は、今後どんな生き方をするのだろう。」(ゴルヴィッツァー『新しい天 と新しい地』より)「一万タラント」を赦された男は、意気揚々と城を出て行きました。そして最初に出会ったのは、この彼から「百デナリ」を借りていた別の 人でした。28〜31節 皆さんにぜひ知っていただきたいことがあります。あの「前半部」がなければ、この男の言動は極めて一般的・常識的なものだという ことです。「百デナリ」とは、もうお分かりですね、そう、「百日分の賃金」です。「百日」と言えば、三か月以上です。「三か月分の給料」、それはかなりの 額のお金です。「それほどの借金は、なにがなんでも返してもらわなきゃ。借金を返すのは当たり前のことだよ。返せないなら、ひどい目にあっても仕方がない ね。」しかし、しかし、あの「前」の出来事こそが、彼自身が受けたあの驚くべき赦しこそが、この無慈悲と非寛容とを徹底的に「おかしなもの」「愚かなも の」「もはや決してあってはならないもの」とするのです。彼は再び王の前に引き出され、裁きの宣告を受けます。32〜35節 主イエスは、このたとえの前 半で徹底的に福音を語られます。「あなたはがたは赦されている。」そして言われるのです。「あなたがたは赦されている。それにふさわしく生き始め、新しく 生きて行きなさい。」そのような神様の驚くべき恵みを覚えつつ、「赦されている」、それにふさわしい、新しい生き方が、この私たちには求められているので はないでしょうか。
 私たちが生きている「この世」とは、このような言葉によって動かされているのだというのです。「つねに人間は他の人間に貸したものを催促します。私はお 前のために何かをしてやったではないか。お返しをしてもらおう。お前は私を侮辱して怒らせたではないか。お返しをしてもらおう。お前は私より弱いではない か。私の助けた分を返してもらおう。お前は他の集団に属しているではないか。その埋め合わせをしてもらおう。お前は私とは違っている。その埋め合わせをし てもらおう。」(同上)そのような世界で、私たちは、あの「大いなる赦し」を受けた者として生きるのです。「あなたは支払いの代わりに憐れみを受けたの だ。だから赦しなさい。あなたのかたわらにいる人があなたと異なっており、あなたより弱いことを赦しなさい。その人が怒っており、あなたにとって重荷と なっていることを赦しなさい。その人があなたに借りをつくっていることを赦しなさい。その人を生かし、その人が生きることができるように助けなさい。死の 世界、ある人が他人につかみかかって支払わせる世界の中に、新しい生活態度を持ち込みなさい。」(同上)
 「ドーンと落ちてくる赦し」、これを一つ一つ知らされることによって、私たちにとっては一歩一歩ずつですが、主が導いてくださる方向に向かって、歩みを続けて行きたいと願います。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 自らと隣人の罪に悩み苦しむ私たちに、あなたは御子によって、計り知れない赦しと恵みを示し、与えてくださいました。どうか、そのあなたの恵みによって 打たれ、繰り返し打たれることを通して、私共を生かし、創り変え、新しい生き方へと歩み出させてください。あなたの赦しと恵みの力によって、私たちの社会 をも変え、世界のあり方をも変えてください。私たちも、そのための僕・証人として、それぞれの場で用いてください。
救い主イエス・キリストの恵み深い御名によってお祈りいたします。アーメン。


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