イエスに問われて従う恵み                
                                               
マタイによる福音書第16章13〜25節

     
  「福音」「良き知らせ」を語ってこられたイエス様のはずでした。「神の国が来る」ということを、極めて積極的・肯定的に語り示して来られたイエス様でし た。「神の国が来る。神の愛と赦しと命の支配がもうそこまで来ている。」ところが、そのイエス様が、ここに来て急転回を見せられるように感じるのです。 ちょうど、主イエスの宣教活動の中程というところです。ここでイエスは弟子たちに問いかけられました。「あなたがたはわたしを誰と言うか。」人々があるい は弟子たちがイエス様に問うのではないのです。逆にイエス様の方が彼らに向かってお聞きになる。「あなたがたはわたしをだれと言うか。あなたがたは私を、 どのような存在として私を信じ、何のために私に従って来ようとするのか。」ここを、私はキリスト教信仰の始まりだと思うのです。キリストを信じるとは何で しょうか。それは、私たちが「イエス様に向かって問う者」から、「イエス様によって問われる者」になるということだと思います。それに対して、ペテロが得 意になって、本当はわけもわからないままに答えます。「あなたこそキリストです。」その意味は、「あなたこそ、神の国をもたらし、実現する方です」という ことだと思います。
 ところが、それに続けてイエスはこう話し始められたのです。「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者た ちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、弟子たちに示し始められた。」ご自分がこれから苦しみ、暴力と辱めを受け、つ いには捨てられて殺されるということを、当然であるかのように話されたのです。すると、ペテロはこれを理解せず、反発してイエス様に反論しました。「ペテ ロがイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った」。ペテロにしてみれば、 「話が違うでしょう」ということだったのではないでしょうか。「イエス様、あなたはずっと神の国を語り、神の愛の支配を語って来られました。そんないいこ と、正しいこと、幸いなことを語るあなたが、どうして苦しみや暴力・辱め、さらには死などを受けられることがありましょうか。」けれどもイエスは、さらに 激しくペテロを叱られました。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」なんと、ペテロ を「サタン」「悪魔」呼ばわりさえされたのでした。

 それに留まりません。さらにイエスはこう続けられたのです。「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を 捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。』。」ここで主イエスは、単にペテロ、あるいは弟子たちにだけ語っておられるのではありません。 「だれでも」と、限りなく対象を広げて、極めて一般的・普遍的に語り、呼びかけておられるのです。「誰でも私に従ってきたいなら、私の言葉を信じ、神の国 の約束を信じ、それに基づいて生きて行きたいと願うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負って、その上で私に従って来なさい。」私は、ここで「話が違って いる」とは思いません。イエス様の思いとメッセージは、今も変わらず「神の国」です。「神の愛と真実、その赦しと命」です。しかしイエスは、その「神の国 の道は十字架」と語られるのです。「あなたがたが私の言葉を信じ、私を信じ、私が語る『神の国』の約束を信じて、それに基づいて生きたいと思い願うなら、 そのためには自分の十字架を背負って従うという、この道を歩かなければならない。神の国の道は、『十字架』という道なのだ。」
 これを聞いた弟子たちや人々にとって、それは「とんでもない言葉」であり「めっそうもない道」に思えたはずです。なぜならば、「十字架」とは、当時の社 会において、最もひどく重い罪を犯した者どもに課せられる、最も厳しく酷い、そして呪われたとさえ言えるような、死刑の方法を表す言葉だったからです。だ から、「十字架を負って死ぬ」というのは、いわば「最低の死に方」、「最悪の人生」であり、まさに「あり得ない」というような話だったからです。でもイエ ス様は、このお言葉をまさに実証されました。ご自身の命を懸け、人生を懸けて、この言葉通りに生き、そして死なれたのです。イエスは、生涯にわたり「神の 国」を宣べ伝え、「神の国」の業としていやしと教えをされましたが、その生涯はまさに、人々に捨てられ、十字架につけられて殺され、そして死ぬという結果 に終わりました。

 これは、いったいどういうことなのでしょうか。私たちも、この主イエスのお言葉をどのように聞き、受け止めることができるのでしょうか。弟子たちと同じ く、私たちも、この言葉を、疑問と反発と不信をもって聞き、いや聞かないということしかないのではありませんか。私自身も大きな疑問を持っていて、これを いったいどう考えたらいいのだろうと思っていましたが、非常に深く教えられたことがありました。それを大変かいつまんで、私なりに言えばこういうことで す。「愛である神がこの世に来て、私たち人間を救い、生かそうとするなら、その道はまさに苦しみと十字架、そして死であるよりほかはない。なぜなら、人間 は神の前に離れ、背き、罪を犯している者だからだ。人間とその社会その世界は転倒し、さかさまになっているのだ。そのさかさまになっている世界に、愛を もって来て臨むならば、それはかえって苦しめられ、辱められ、殺されるよりほかはない。」(磯部隆氏)
 「神が身を低くされる物語は、実にクリスマスから始まります。そして十字架の金曜日に終わります。―――神が人間に向かって降りてこられました。十字架 のあるところにまで降りてこられ、さらに驚いたことには、地獄にまで、その深みにまで降りてこられました。罪を知らないお方が私たちの罪を身に負い、それ によって私たちを罪から解放してくださいました。―――それは、主が私たち人間とかかわろうとされるからには、どうしても飲まなければならない、血の杯で した。どんな神でも、ひとたび人間の世界に入りこまれるならば、つまり、人間を追い求めて渇いておられるならば、苦痛を怖れないほうがよいでしょう。それ こそは、人間たちが救い主に会えば必ず行う仕業だからです。人間を愛そうとされる神であれば、そのために命を捨てるお心構えが、必要なのです。」(ウィリ モン『十字架上の七つの言葉と出会う』より)

 このイエスを信じ、このイエスの言葉を聞き受け入れ、このイエスに従って生きて行こうと、少しでも思うならば、私たちの生き方と道も、このイエスの影響 を受けないわけにはいかなくなるのです。だからイエスは呼びかけ、言われるのです。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架 を負うて、わたしに従ってきなさい。」
 以前に、イエス・キリストが感じ、味わわれた「深い憐れみ」についてお話ししたことがありました。神の国の言葉と力を携えてこられたイエスは、この世、 この社会に生きる人々の苦しむ姿、そこにまざまざと現れているこの世の罪と悪に接した時に、「はらわたが裂け、ちぎれるほどの憐れみ、激しい心」を体験さ れました。そこからイエスはご自身の行動と道を進み始めて行かれたのです。この「イエスの深い、激しい憐れみ」が、私たちにもまた伝わって来る、それが私 たちにも激しく問いかけ、迫り駆り立て、私たちをも突き動かして行くのです。「ここまで主イエスの十字架について考えてきたわたしたちは、もはや浅い水た まりで遊んでいる子どもではいられません。―――イエスさまがわたしたちを沖合の深い水の中に連れてきておられることに気づくでしょう。ここまで来ると、 宗教の意味合いは、何か『スピリチュアル』なものの領域を超えています。私たちを向上させてくれるもの、何かありがたい思想のようなものではすみません。 テーブルの周りに着席して、議論を交わし、数時間たって帰宅したら忘れてしまうようなものでありません。ここまで来たら、宗教はわたしたちの全存在を捉え ます。わたしたちを使いつくします。打ち倒します。死に際の苦しみの言葉をわたしたちに要求します。そう、主イエスは『わたしは渇く』と言われるのですか ら。」(ウィリモン、前掲書より)

 「イエスに従い、自分の十字架を負う」とは、いったいどんなことなのか。それこそ、キリスト教会の歴史などからいくらでも例を拾うことができるでしょ う。特に、その中でも、度々ご紹介してきたマルティン・ルーサー・キング牧師などは、まさに生涯「十字架」の意味を考え、行動し、生き抜いて行った、稀有 な方であったと言うことができます。けれども今日は、そういう「偉い方」のお話を少し休みまして、もう少し身近な、しかしかえって身につまされる例をご紹 介したいと思います。
 私がひそかに尊敬し倣っている加藤潔という牧師先生がおられますが、この方が自分の経験を証ししておられます。「以前、韓国人牧師と私たち日本人牧師数 人が発起人となって札幌に在日アジア人センターという団体を作りました。いろいろな活動をしましたが、在日韓国人の人権を獲得する運動がその中心課題でし た。 ある時、北海道の岩見沢市に住む在日韓国人、強制連行で日本に来て、炭鉱で働き、戦後もひとりで暮らしているおじいさんが、精神病院に強制入院させ られるという事件が起こりました。私たちはすぐに岩見沢市に行き、病院の院長と面会し、強制入院の理由を問いただしました。強制入院の理由は、このおじい さんは話すことが分からない、することが変わっているということでした。直接会って話してみると―――することが変わっているというのはまったくの孤独の 生活をつづけ、しかも日本人に差別され、裏切られ、だまされた体験の結果だったのです。―――さっそく市役所と交渉しました。規則がどうだ、前例がどうだ と言いのがれを続けるので、とうとう、告発すると言いますと、ようやく持ち物を弁償することになりました。結果としては、このおじいさんはその後住宅を与 えられ、生活保護も獲得して、楽しそうに暮らしていました。最後は岩見沢教会でお葬式をいたしました。 この事件の途中のことなのですが、毎日、毎日、札 幌から岩見沢に牧師たちが通いました。ずいぶん時間もとられました。ある土曜日のこと、ひとりの若い牧師が、明日の礼拝説教ができていないので、今日はこ の事件に関わるのはできないと言いました。すると、一緒にいた金顕球牧師がひとこと、こう言いました。『あのおじいさんを放っておいて、君は明日どんな説 教をするのか。』これを聞いて、私もその若い牧師と同じようなことを考えていたので、まるで冷水を浴びせられたようなショックを感じました。このおじいさ んを放っておいて自分は礼拝でどんな説教をするのか。」(加藤潔『イエスを探す旅』より)
 自分も牧師ですから、この若い牧師の気持ちはとても良くわかります。でも、そこで問いかけるお方がいるのです。「このおじいさんを放っておいて、君はど んな説教をするのか。」それは、イエス・キリストの問いだと思うのです。イエス様からそう問われながら、生きて働く。「それが『私の十字架』ということで はないのか」、そう思います。宗教改革者ルターはこう言っているそうです。「イエス様の招きを聞いて、『自分の十字架はどこにありますか』と改めて探す必 要はない。なぜなら、皆イエス様の後について生きる思いに生き始めたとき、もう十字架はそこにある。あなたのところにある。あなたはすでにあなたの十字架 を知っている。あとは、あなたがそれを引き受け、負うことだけだ。」それは、イエスを信じイエスに招かれて、出会う隣人の課題に仕えて生きて行く中で「自 分を捨て」させられることであり、そのためにあえて自分の時間・力・気力を使い「自分の命を失う」という経験であり、人々の前でイエスへの信仰について厳 しく問われるという体験です。自分の思うようにはならず、自分の弱さと罪を思い知らされ、それでもなお与えられる課題・務めに仕えさせられるという道で す。でも、そのような道、そのような歩みの中で、主はこう約束してくださいます。「わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであ ろう。」なぜなら、「わたしがそのあなたの道を、あなたの前に立って歩んでいるからだ、わたしがこの道を通って『三日の後によみがえり』、すでにあなたが たのために勝利を取っているからだ」。この道の上であなたも神の光を輝かす一人の証人となれるのです。この恵みの問いかけと招きに答えさせていただきたい と切に祈ります。私たちは道のどのあたりをどのように歩んでいるのか、それはそれぞれ違いますが、しかしこの招きは今私たち一人一人に向けられているので す。それは、全くの恵みなのです。

(祈り)
私たちすべての者を極みまで愛されたイエス・キリストの神よ。
 イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちに近づき、私たちに声を懸け、問いを発し、ご自身に従う道へと招かれます。それは解放であり、救いです。喜び であり、希望です。私たちは「はらわたを裂く、イエスの憐れみ」によって赦され、生かされ、救われた者です。だから私たちの道も、イエスへの愛のゆえにこ そ、イエスと似たもの、「自分の十字架を負って従う」ものとならざるを得ません。主よ、どうか今、あなたの愛のゆえに問いかけ、呼びかけ、招いてくださ い。どうか、私たちがこの道に、信仰と希望と愛とをもって答え、従い、歩み行くことができるよう励まし、力づけてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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