イエスの弟子はイエスのように、羊、蛇、鳩
マタイによる福音書第10章16〜25節
「自由と解放をもたらす福音伝道のバトンが、イエスの弟子たちへと渡される時が来ました。」(『聖書教育』2025年2月号より)この時、主イエスはこう
言って、彼らを派遣されたのです。「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのよう
に素直であれ。」
ここには、興味深いことに、イエスによって派遣されるイエスの弟子を表わすために、三つの動物が比喩として使われていると思います。「羊」、「蛇」、
「鳩」です。これらの比喩を、全体として一貫性と原則とをもって読み、解釈する道はないだろうかと、考えてみました。私は「ある」と思います。主イエスが
こうおっしゃっているからです。「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれ
ば、それで十分である。」つまり、イエスの弟子は、師であり主人であるイエスのようであれば、それでいい、それで十分なのだというのです。「イエスの弟子
は、イエスのように」生きればよいのです。
「イエスの弟子は、イエスのように」、これが大原則なのです。イエスによって遣わされるイエスの弟子は、イエスのように生きる、「その心は」と問うなら
ば、その答えが「羊」であり、「蛇のように、鳩のように」なのではないでしょうか。つまり、まず何よりイエス・キリストこそが「羊」であり、「蛇や鳩のよ
う」であられるのです。この解釈には、少し根拠もあります。イエスがまさに「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1・29)と言われたからです。だ
から、イエスの弟子もまた、「羊」であり、「蛇や鳩のように」生きよと言われるのです。
そのイエスが、ご自分の弟子たちを送り出されるにあたって、まずその向かう先とそこに住む人々について、このような認識を示し、語られます。「わたしが
あなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。」弟子たちが送られて行く先の「この世」とその社会、またそこに住む人々は、「狼」
のようなものだ、「この世は狼の世だ」というのです。ここでは多少常識を用いてもよいでしょう。実在の狼さんには申し訳ない気もしますが、「狼」とは、
「獰猛、狂暴、残酷」なものの象徴だと思います。これは、一般論として「世とその人々はみんな狼のように獰猛、狂暴、残酷だ」ということを語っているので
しょうか。私はむしろ、イエスがもっとはっきり具体的に見据えていた対象があったと思います。それはローマ帝国であり、ローマの国家権力です。それは、以
前にも触れたように、まさに「獰猛、狂暴、残酷」なものでした。「世界の略奪者(たるローマ人)たちは、すべてを荒らし回って陸地を見捨てたあとに、今は
海を探し求めている。彼らは、敵が裕福ならば貪欲となり、貧乏ならば野心を抱く。―――略奪し殺戮し強奪することを、偽りの名で支配と呼び、無人の野を作
ると平和と呼ぶ。」(タキトゥス『アグリコラ』より、クロッサン、ボーグ『最初のクリスマス』所収)なにしろ、イエス御自身が後にこのローマ帝国によって
十字架にはり付けられ惨殺されたからです。そしてイエスは、このローマ帝国をも超えて、国家とその権力というものをも、この「狼」というイメージで捉えて
おられるように思います。こう言っておられるからです。「人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなた
がたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。」また、そのような「狼」のような国家とその権力に動かされ、引きずられて行く中
で、そこに住む人々もまた「狼」のようにされていく。日本で関東大震災が1923年に起こった時、民間人・一般人によって朝鮮人大虐殺が起こりました。そ
の時のことがこのように語られています。「人間なんて群衆心理で興奮すると、何をやり出すかわかったもんじゃない。普段はおとなしい普通の人間が、あの時
は平気で、芋でも刺すようにぶすぶす殺すんですからね。あれは地獄でしたよ。でも人間は誰だって、いつ、あんなふうになるかわからないと思うと恐ろしい
ね。アウシュビッツのことをとやかくいうけど、残虐さじゃ日本人のあの時の朝鮮人殺しだって、同じようなものじゃないですかね。」(瀬戸内寂聴『余白の
春』より)
そのような「狼の世」に送り出されて行くにあたって、「あなたがたは羊なのだ」とイエスは言われるのです。さらにイエスの思いを込めて言うならば、「あ
なたがたは、世に行くにあたって、羊であれ」。間違っても、「狼の世だから、自分も狼のようになってやれ」などと思ってもみるな。あくまでも、どこまでも
「羊」であれ。なぜなら、私こそが「神の子羊」であるからだ。イエスはまさにそのように語り、歩み、生きられました。力に対しては力ではなく、柔和と謙遜
をもって、暴力に対しては暴力ではなく、神の力である愛をもって、脅しに対しては脅しをではなく、赦しと慰めをもって、差別と排除にはこちらも偏見と憎悪
をもってでなく、理解と共感と共に生きることをもって生きられたのです。そして最後は、「ほふられたとみえる小羊」(黙示録5・6)として、敵を赦し彼ら
のために祈りつつ、世の罪と悪を引き受け担い、あえて「羊」として弱さの中にとどまりながら、十字架を背負い、死なれたのです。この私の後を追い、従っ
て、あなたがたも「羊」として、この世へ送り出されて行け。ならば、この道の先頭には、そして私たちの傍らには、もう既に、「神の子羊」なるイエスが先立
ち、伴っておられるのです。
それを前提としつつ、主イエスは、さらに具体的な指示と勧め、そして約束をくださいます。それが「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」なのだと思います。
まず「蛇のように賢く」。これが今日一番難しい。なぜなら、聖書において「蛇」とは、「誘惑者」「悪」の象徴だからです。「蛇は聖書の中で『危険な生き
物』の代表として登場したり(マルコによる福音書16章18節)、悪魔やサタンの象徴として登場したりします(ヨハネの黙示録12章9節)。蛇が出てくる
聖書箇所の中で最も有名なのは、創世記の『蛇の誘惑』の場面でありましょう(創世記3章)。神さまが『食べていけない』と命じた《善悪の知識の木》の実
を、エバに食べるように誘惑したのが蛇です。」(日本キリスト教団花巻教会ホームページより)だからと言って、「この世は悪の世、蛇の世だから、なあなた
がたも少しはそれにならって、多少の悪は許容して、時には人を騙し、傷つけてでも、目的を達成しなさい」と、イエスが言われたとは思えません。でも、イエ
スは「蛇」というものの存在を認識し、この世には悪や誘惑、そして具体的な罪とその働きがあることは直視しておられたのだと思います。その上で、こう考え
たらどうでしょうか。「蛇のように賢く」、「蛇と同じくらいに賢く」、できることなら「蛇の知恵とたくらみを見抜き、破ることができるほどに賢く」。「蛇
の知恵とたくらみと誘惑を知り、しかもその蛇を破る」、それこそがまさにイエスご自身であり、その意味でイエスこそ「蛇のように」、いや、「蛇にまさって
賢い」方だったのです。
あの創世記第3章『蛇の誘惑』の場面で問われていたことは何だったのでしょうか。「エデンの園で言うならば、食べることが許されている命の木の実、もう
一つは禁じられている善悪の知識の木の実。『あなたはどちらを選ぶか。いのちを選びなさい。―――』―――私たちの前にもいつも二つの道があります。片方
はいのちの道。神さまを愛し、神さまに従い、神さまのみこころを願って生きる生き方。もう片方は、神さまを愛さず、神さまに従わない生き方。自分の力で知
識を手に入れ、神さまを押しのける生き方。―――自分が神になろうとする生き方。いのちに背を向けるならばそんな滅びを刈り取る生き方を選ぶことになって
しまう。」(大頭眞一『アブラハムと神さまと星空と』より)人間は誰一人として、この「蛇」の問いに正しく答え、正しく選ぶことができない。人はいつもこ
の「蛇」に負け続ける。しかし人間のうちの一人、ただ一人の人イエス・キリストが、あの「蛇」の問いを真っ向から受け、それに正しく答え、本当に幸いな方
を選び、その選択に伴う緊張、葛藤をも経験し、さらには他の人間たちの負の選択による争いと不和、呪いと破滅までをも克服し、乗り越える。正しくいのちを
選び、神を選び、神を信頼し、神に聴き従い、神と共に生きることを幸いとして選び取り、担い行き、貫き通す。「絶望が私を破壊しそうになるとき、私はいの
ちを選ぶ。神はいったい何を考えておられるのかと、と思う時、私は信じることを選ぶ。厳しい現実に苦しみ、逃げ出したくなるとき、私は忍耐を選ぶ。失望と
悲しみに押し潰されそうになるとき、私は弱さを打ち明けることを選ぶ。自分の思い通りに進まぬとき、私は、手放すことを選ぶ。人に向かって指をさしたくな
るとき、私は赦すことを選ぶ。諦めたくなるとき、私は目的を持って行動することを選ぶ。」(大頭眞一、前掲書より)
そして、「鳩のように素直であれ」。これは、理解と解釈は、より易しいかもしれません。聖書において「鳩」は、「素直」「純真」「美しさ」「愛らしさ」
「慰め」などを合わす象徴とされるからです(ブログ「牧師の書斎」より)。そして何より、「鳩」は、端的に「神の霊」「聖霊」を指し、表しています。イエ
スがヨハネからバプテスマを受けられた時のことが、このように語られています。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天
が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。」(マタイ3・16)「はと」にたとえられる「聖霊」は、「父なる神」の心、
意志、愛を、御子イエスにもたらしました。その意味で、「聖霊」は、「鳩のように」、神に対して素直に従うのです。そしてイエスご自身もまた、「神の子」
として、「聖霊」に従い、「鳩のように」神に聞き、神に従い、神を愛し、神と共に生きるのです。だから、イエスによって送り出される弟子たちもまた、「鳩
のように」、神の心、意志、愛を信頼し、それに聞き、それに従って生きようとするのではないでしょうか。
そのことは、具体的にこういうことなのだと、イエスは言われるのです。「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言う
べきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」「鳩のように生きる」、それは
「心配しないことだ」、あなたがたの中で語ってくださる「神の霊」を、「鳩のように素直に」信じ、心配しないことだ。またそれは、「最後まで耐え忍ぶこと
だ」。「あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」そんな厳しく、つらい関係と状況に
あっても、あの時天の父が聖霊によって「これはわたしの愛する子」と私に語ってくださったように、あなたがたにも「愛する子よ」と語っていてくださるか
ら、「鳩のように」その方と言葉を信頼し、「最後まで耐え忍べ」。そしてそれは、いざとなったら「逃げる」ことだ。「一つの町で迫害されたら、他の町へ逃
げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。」「これは神の働き、神の道」だからと、無理をし
て、意地を張って「頑張る」な。「逃げなさい」、逃げてよい。聖霊は、その道をこそ神の道として示し、導いてくださる。「逃げる」道においても、神は愛と
救いの業を行い、成し遂げてくださる。だから、その導きに「鳩のように素直に」従い、思いきって、ためらわずに、「逃げなさい」。
「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。」イエス・キリストが、私たちの先に立ち、私たちと共に行ってくださいま
す。イエスが捕らえられ、引き出され、十字架につけられて死なれましたが、しかし三日目に復活させられたように、私たちもまたそれぞれの場と道で「十字
架」を負い苦しむことが起こりますが、しかしまた復活のイエスに私たちは伴われ、導かれ、その命を受け生かされることとなるのです。そのようにイエス・キ
リストは、そして天の父なる神は、世に住む人々の「解放と自由」、そして「神の国」の完成をもたらされるのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
主イエスは今、私たちをも弟子として送り出されます。私たちも、「イエスのように」、「羊」として、「蛇」「鳩」のように、派遣され、それぞれの場に置
かれ、働き用いられようとしています。どうか、共にいてくださる復活の主と、私たちの中に住む語ってくださる聖霊とを素直に信じ任せつつ、ここから出て行
かせてください。どうか、お一人一人と私たち教会を通しても、人々の解放と自由が起こされ、あなたの栄光が現わされますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。