イエスと共に聞き、祈る                 マタイによる福音書第6章5〜13節

     
 私たち信仰者はどのように生きるのか、私たち教会はどのように歩むのか、それを私たちはどのように知り、どのように選び、決断し、踏み出すことができる でしょうか。それを一言で言うなら、「主に聞く」のだと言うことができるでしょう。「主に聞く」、神にその御心を尋ね求め、主の思い・意志を聞く、それに よって私たちは「正しい」と思える道を見出し、決断し、選び、踏み出すことができるでしょう。
 しかし、「主に聞く」と言いますが、いったいどこで聞くのでしょうか。具体的に何によって聞くのでしょうか。どのようにして、主の御声、御心に聞くので しょうか。結論を初めに言ってしまえば、それは「祈りによって聞くのだ」「祈ることによって聞くのだ」ということになります。しかも、教会という視点を もって考えるならば、「共に祈ること」、さらに具体的に言うならば、こうして礼拝において、またできることなら祈り会等の共同の祈りにおいて「共に祈るこ と」、このことによって共に主の声を聞き、主の御心に共に耳を傾けるのだ、ということになるでしょう。

 今日の箇所は、主イエスが祈りについて、祈ることについて語られた所です。ここで特に強調されているのは、「隠れて祈れ」ということです。「あなたは祈 る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるで あろう。」ここで大切なことは、「祈りはいったい誰に向かってなされるのか」ということではないでしょうか。「人々に聞かせるためではなく」、「神様と正 面から向かい合うのだ」ということです。それはいったい何のためかと言えば、「聞くため」です。「主にしっかり聞く」ためにこそ、「神に正面から向かい合 う」のです。「自分の部屋に入り」とか「戸を閉じて」とか、諸々の場所や方法は、「主に聞く」ためにこそあるのです。
 さらにイエスは「くどく、長い祈り」を批判されます。「祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと 思っている。だから、彼らのまねをするな。」ここで批判されている「祈り」の姿勢とは、「長く、くどくどと、言葉かずを多くすることによって、つまり自分 たちの言葉や行動の力によって、神々を説得し、時には脅すことすらして、神を自分の思い通りに動かし、自分たちの願いをかなえる」、そういうあり方なのだ と思います。「そうではない。」
 それどころか、イエス・キリストはこう言われます。「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」でも、こ んな疑問を持つ方があるかもしれません。「じゃあ、なぜ祈るの? 神様が私たちに必要なものは、祈る前から知っておられるというなら、もう別に祈る必要は ないのでは。」そうです、その通りです。だから、本来的には、もう何かの「願い」を神様に述べる必要はありません。しかし、「祈る」必要と務めはありま す。なぜ祈るのでしょう。それは「聞く」ためです。何のために祈るのでしょう。それは、「主に聞く」ためです。私たちは共に「主に聞く」ために、教会にお いて共に祈るのです。「何とかして神々の御機嫌を取り結ぼうと捧げ物をし、神々それぞれの得意技に応じて自分たちに都合の良いおめぐみを願います。無病息 災、家内安全、病気平癒、受験合格、良縁成就―――子孫繁栄。でも、これは神々を自分の都合で動かそうとしていることだといってよいでしょう。―――こう いう発想に正反対なのがユダヤ教です。天地万物の造り主である神さまこそ人間のあるじ。人は神さまのために作られた道具であり、ひたすら、神さまのお声を 聴くことこそ最も正しい態度だと言えるのです。キリスト教もまた同じです。『神さま、お声を聞かせてください。わたしをお役に立ててください。わたしはそ のためにこそ神さまに造っていただいたのです。お役に立てることこそ、わたしの無上の光栄です。どうぞ、お示しください。何をしたらよろしいのでしょう か。』もっぱら『祈る』と訳されてきたプロセウコマイは、『祈る=願う』ではなく、『神さまの声に心の耳を澄ます』と訳すべきだというのがわたしの結論で す。」(山浦治嗣『イエスの言葉』より)
 何を祈るのか。「あなた自身はもうすでに十分である。いや神は今も十分にあなたに対して与え、守り、祝福しておられる。だから、あなたは神への讃美と、 御旨の成就と、他の人々の食と、赦しと、誘惑と、悪からの解放のために祈れ。それが救われたわたしの弟子の祈りであると、主イエスはおおせ給うて、わたし どもに祈ることを教えておられるのです。自分のために多く祈るけれども、神を賛美し、御旨の成就と他人の幸福のために祈ることの少ないわたしどもは、この 戒めを心にしかととめて祈らねばなりません。自分のために祈っても祝福はありません。けれども神の御旨の成就と隣人の幸福の中に自分の願いをこめて、『わ れらの』と祈るとき、神の祝福が与えられるのです。」(菊地吉彌『山上の説教』より)

 では、どうやって、何によって、共に祈り、共に主に聞くことが、私たちにはできるのでしょうか。そこで、主イエスはこう教え始められます。「だから、あ なたがたはこう祈りなさい。」こうして教えられたのが、「主の祈り」です。ですから、極めて具体的に、端的に言えば、「主の祈り」、私たちはこの祈りを共 に祈ることによって、「主に聞く」。
 そもそも「主の祈り」とは、どういう、だれの祈りでしょうか。「主の祈り」、つまり「イエスの祈り」と言ったら、だれが祈っていることになるのでしょう か。例えば、「パウロの祈り」「モーセの祈り」と言ったら、どうでしょうか、誰が祈っているということでしょうか。そうです、「パウロの祈り」と言ったら パウロが語り祈っている祈りですし、「モーセの祈り」ならモーセが祈っている祈りです。ならば、「主の祈り」「イエスの祈り」とは、だれよりも先に当のイ エスが祈っている、イエスの祈りなのです。「主の祈り」において、何よりも先に私たちは、まさにイエスが祈っておられるその御声を聞き、イエスが祈ってお られる御姿を見るのです。「主の祈り」とは「イエスの祈り」、イエスが祈られる祈りであり、「主の祈り」において私たちは、イエスが祈っておられるのを 「聞く」のです。それは、私たちが本当は「祈ること」を知らないからです。私たちは、余りにも神から遠く離れ、しかも神の御心に背いている者たちであるか らです。だからこそ私たちは、イエスに聞き、イエスから教えられつつ、イエスの後について祈りはじめるのです。「天にまします我らの父よ」。

 また、「主の祈り」とは、イエスと共に聞くこと、イエスと共に神に聞くことです。イエスが教えてくださること、それはただ祈りの言葉だけでなく、祈る姿 勢、祈りつつ生きる生き方です。そもそも祈りとは何でしょうか。「人が祈る時、それはかれが自分自身とかれの生きている世界をどのように見ているかという ことを示しています。―――弟子のひとりがイエスに、『主よ、わたしたちにも祈ることを教えて下さい』とお願いしたと書いてありますが、これはありきたり のこととは思われません。祈りを教えて下さいということは、単に祈りの言葉遣いなどの問題ではなく、人生や世界をどのように見、どのようにそれに対して いったらよいか教えて下さいということであり、これは実は、すべてのひとにかかわる、いわば人間存在の深みから発した願望なのです。」(村上伸『神の国の 福音に生きて』より)
 まさにイエスこそが、自分の願いを求めるよりも真っ先に、いつも父なる神に聞いておられました。「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ 聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めて いるからである。」(ヨハネ5・30)自分の願いは後にし、イエスはいつも父に聞いておられました。それがイエスの祈り、「主の祈り」でした。しかしまさ にこのことが、私たちにはできないのです。この祈り、この姿、この生き方が、私たちにはできないのです。それが、聖書が語る「罪」ということです。「罪 人」である私たちを、イエスは御自身のもとに引き寄せ、御自身と共に、神との正しい関係の中へと入れてくださる、これこそが「イエス・キリストの救い」な のです。イエスと共に、神に聞き、神に応える。そのようにしてイエスと共に、神の道を歩み、生きる。この救いの道を、私たちは「主の祈り」を祈ることに よって実践し、その道を共に歩み行くのです。

 さらに、「主の祈り」とは、イエスを通して、イエス・キリストを通して、神に聞くことです。私は、「主の祈り」とは、聞くことなしには決して祈れない祈 りだと思います。「御名」とは、「御国」とは、「御心」とは、「われら」とは? それらは、決して「当たり前」でも「常識」でもないのです。それらのこと を、主に尋ね、「主に聞く」ことなしに、私たちは「主の祈り」を祈ることはできません。
 その答えは、どこにあるのでしょうか。それは決して、何かの書物に、「聖書神学辞典」のような本があって、そこに「御名とは何々、御国とはこれこれ、御 心はこういうことで、われらとは誰々」などと、箇条書きに書いてあるようなものではありません。その答えは、このお方、イエス・キリストにこそあるので す。イエスの全生涯、イエスがそのすべてをもって生きられた道、そのようにして十字架と復活に至ったイエスご自身にこそ、答えはあるのです。「そして言は 肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハ ネ1・14)「主の祈り」、この祈りを絶えず祈り、この祈りにおいていつも父なる神に聞き、父の御心に従い、隣人を愛して共に生きられ歩まれたイエスの歩 み、イエスの道の中にこそ、「御名」「御国」「御心」「われら」は現われ、示されているのです。私たちは、それを聞くのです。イエス・キリストを通して神 に聞くのです。「主の祈り」を祈りつつ、私たちもイエスと共に神に聞き、イエスと共に神に従って生きるのです。

 「主の祈り」とは、イエスの祈り。私たちはそこで、イエスが祈っておられるその御声を聞くのですが、その祈りの中に、私たちは実は私たち自身の名前をも 聞き取るのです。イエスの弟子シモン・ペテロは、このイエスの祈りの声を聞きました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにか けることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさ い。」(ルカ22・31〜32)それは、彼が捕えられたイエスを「そんな人は知らない」と三度も否定したその直後でした。彼が決して取返しのつかない罪を 犯し、イエスを裏切り捨てた、そのどん底において、彼はこのイエスの祈りの声、イエスが自分のために祈ってくれるその御声を聞いたのでした。
 私たちは、きっと自分のことを真っ先に祈ろうと思うでしょう。しかし、それにはるかに、そして決定的に先立って、イエスこそが、私のために、私たち一人 一人のために祈っておられるのです。それが「主の祈り」です。「『主の祈り』―――あれはイエスが私たちに教えた祈りではなく、イエスが私たちのために 祈った祈りだと。私たちが唱える『主の祈り』は、実は私たちが、主によってすでに祈られていたということを示している。―――『彼らに食べ物を与えてくだ さい』『罪を赦してやってください』『お互い赦し合えるようになりますように』『試練に遭わせないでください』。―――イエスに祈られている。だから私た ちも『主の祈り』を祈ることができる。祈ることができない日も、あなたは『主の祈り』に包まれています。主は、あなたの信仰がなくならないように祈られた のです。」(奥田知志『ユダよ、帰れ』より)
 それは、具体的にどのようにわたしのために、私たちのために祈ってくださっているのでしょうか。それは、「神の御名」において、「御国の計画と道」の上 で、「神の良き御心」の中で、「われら」と呼ばれる人々と共に歩み生きる道において、です。私たちは、自分のことも、いや、自分のことこそ、自分たちの小 さな尺度と思いとまなざしの中でしか、捉え、理解し、願い、祈ることができません。そこには何の展望も、解決もないのです。どんな力も、愛も湧いては来な いのです。しかしイエスは、その私たちを、広く、大きな「御名」「御国」「御心」の中に置いてくださる。大きく、広く、豊かな、「われら」と共に生きる世 界と道の中に置いてくださる。そのようにした上で、祈ってくださるのです。「御名をあがめさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心の天になるごとく、地 にもなさせたまえ」。私たちも、このイエスに聞きつつ、イエスと共に、イエスの後について、祈り始めましょう。「天にましますわれらの父よ」。

(祈り)
天にましますわれらの父よ、御子イエスを死の中から起こし、復活させられた神よ。
 イエスこそが祈っておられます。「天にましますわれらの父よ」と。それは、私たちが祈ることを知らない祈りであり、本来私たちは決して祈ることのできな い祈りでした。しかし、イエス・キリストは、その私たちをご自身のもとへと招き、引き寄せ、あなたとのこの正しい、幸いな関係の中へと引きいれてください ました。
 この恵み深い救いのゆえに、私たちも祈ります。イエスと共にあなたに聞き、イエスの後について祈り始めます。「天にましますわれらの父よ」。どうか、こ の私たちの祈りを導き、教え、聞き届けてください。イエスと共に、あなたと共に、また「われら」と共に生きる私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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