最後まで行く方と共に行く                 マタイによる福音書第5章43〜48節

      
  私たちの主ナザレのイエスが宣べ伝える「神の国」は、当然のことながら「人間の国」ではありません。だからそれは、人間である私たち、しかも罪ある人間で ある私たちが知っていること、私たちが当たり前だと思っていること、私たちが当然のように日々行い、生きていることと、丸っきり、本当に丸っきり違ってい ます。イエスは、そのことを様々な言葉と行動で人々に伝えました。その言葉や行動のどれもが、私たちにとっては驚きであり、衝撃であるのですが、とりわけ 今日取り上げたイエスの言葉は、その中でも極めつけ、「極北の言葉」であると言ってもよいでしょう。
 なぜなら、イエスはこう命じられるからです。「汝の敵を愛せよ」。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」これは、 聞く私たちを、だしぬけにバーンと跳ね返してしまうような言葉です。単に「少し寛大になる」とか「ちょっとは優しくなる」とかいうことでは全くありませ ん。「敵を愛せよ」なのです。
 「私の敵を愛する」、それはそもそも人間の感情、「自然」に反することではないでしょうか。「『あなたの敵を愛しなさい』といわれて、『はい』と答える 日本人がどこにいるでしょう。―――敵とは何か。辞書には『できるならその存在をなくしたいと思う相手』のことだとあります。『できることなら殺してやり たい』と思うほど憎い相手のことです。それを『愛せ、好きになれ』という。これは無茶な要求です。真面目な青年はがっかりします。『ぼくにはできな い・・・』。イエスのいうことにはついていかれそうもないと、去ってゆきます。」(山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』より)
 また、社会の常識、秩序にも反するのではないでしょうか。「特に教会の歴史を、そしてまたユダヤ教やイスラム教の歴史を見渡せばよい。すると、いかに愛 敵が私たちから遠いかということに気づくだろう。国家や社会を見渡せばよい。すると愛敵が浮世離れしていることがわかるだろう。通常、敵は常に憎まれ、憎 しみは正当化される。」(H.ヴェーダー『山上の説教 その歴史的意味と今日的解釈』より)ヨーロッパのキリスト教国は、長い間イスラム教徒や、特にユダ ヤ教徒を憎み、迫害し、殺してきました。教会もまたそれを積極的に先導し、また自らも行ってきたのです。
 「しかし」、それらすべてに反して「わたしはあなたがたに言う、汝の敵を愛せよ」と、今主は語り始められるのです。

 「汝の敵を愛せよ」、どうすればこの言葉がわかるのでしょうか。ある方が「だめな道」を示しておられます。それは「理想と現実」という捉え方です。「敵 は憎らしい。愛する気持にはとてもなれない。それがわたしたちの自然の在りかただ。だが、イエスはそれでも愛せよと言われる。むずかしいと知りながら、そ れでも発奮してやってみる。高い理想に向かって努力する。でも、やっぱりそんなことは不可能だ。現実はきびしい―――といった具合です。このようにして、 せっかく聖書の世界に接しながら、結局はそれに背を向けて去っていった人が、どんなに多いことでしょう。」(村上伸『神の国の約束に生きて』より)それ は、「下からの道」「人間からの道」と言ってもよいでしょう。「下から」、人間の側から、人間の感情や社会の現実から出発すれば、その道は途中で行き詰 まってしまうのです。
 それならば、その反対がいいのです。「上からの道」です。「上から」、神様の側からこの御言葉を聞き、理解しようとするのです。イエス様ご自身がここで 取っておられるのも、この道なのです。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださ る」、「あなたがたの天の父が完全であられるように」、イエス様は「上から」、「天の父」なる神様から始めておられるのです。「天の父」は「完全」なお 方、つまり「悪い者」「正しくない者」にも「太陽を昇らせ、雨を降らし」、ご自身の「敵を愛し」てくださる方なのだ。
 少なくともここにお一人「敵を愛する方」が、実在するのです。人間の側から言えば、「そんなことは無理だろう、そんな者は一人もいないだろう」という言 葉が、「上」から「天の父」から言ったら「そうでもない、いやお一人はいる」ということになるのです。ならば、この「お一人」のお方から、私たちにもこの 「敵を愛する」ということに通じる道が開かれるかもしれない、いや本当はまさにこのお方によってこの道は開かれたのです。「こうして天にいますあなたがた の父の子となるのである。」

 「あなたがたの天の父が完全であられる」、その「完全」「完全さ」とは、「敵を愛する」ということです。「敵を愛する」という「完全さ」なのです。「完 全」、それは「一つの欠点もなく、完全無欠」という意味ではありません。もちろん神様ご自身は「完全無欠」でしょうが、それだったら「あなたがたも完全で あれ」と言われても私たち人間は困ります。この「完全」とは、それとは全く違った意味なのです。
 この言葉は、「終わり」「終局」「ゴール」「目標」という言葉と関連があります。そこから言えば、この言葉は「終わりまで行く、最後まで行く、終わりま でやり通してやり遂げる」という意味であると思います。「天の父」なる神様は、「終わりまで、最後までやり通して」、やめないのです。何を? 愛することを。人間を愛することを、神は最後までやり通して、やめられないのです。また、この言葉には「心が分かれない、迷わない、ためらわない」という 意味合いもあると言われます。「神は全的に、分かたれることなく、人間に向けて照準を合わせていること、彼は契約に対して誠実であり、愛するものを完全に 顧みる」。(E.シュバイツァー、NTD新約聖書註解『マタイによる福音書』より)
 神は愛することに迷わない、ためらわない、やめない、たとえ人間がご自身から離れ、背いて罪に落ち、ご自身の敵となってさえも。このことを、神様はご自 身の御子イエス・キリストをこの世に送ることによって、はっきりと取り消しようもなく示され、表されたのです。神はこの道を最後の最後まで行かれました。 イエスが罪人である人間によって辱められ、苦しめられ、捨てられ、殺されてもなお、神はこの道を進むことをためらわず、迷わず、やめられませんでした。敵 を愛する愛、「その愛は、ただもう全く、その敵のために十字架につき給い、また十字架の上で敵のために祈り給うたイエス・キリストの愛なのである」。(ボ ンヘッファー『キリストに従う』より)「主イエスは、この戒めを、ただ単に言葉として語られたのではなく、ご自身もその戒めのとおりに生き、その戒めのと おりに死なれました。つまり、この戒めには、イエス・キリストの命の重みがかかっているのです。」(松本敏之『マタイ福音書を読もう1 一歩を踏み出す』 より)
 しかしまた死は、この神にとって、そしてイエスにとって最後の地点ではありませんでした。神はこの道をさらに進み、その本当の最後まで行かれました。神 は十字架で死んだイエスを復活させ、ご自身を裏切り、見捨て、逃げ去った者たちに対して、赦しと新しい命を与えられたのです。「敵を愛する愛」、それはた だここにしかなく、しかしここには確かにあるのです。「まだ、罪人であった時」、「わたしたちが敵であった時でさえ」、「わたしたちのためにキリストが死 んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5・8、10)
 「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」だから、私たちがするべきことは、何よりも「天の父が 完全」、つまり私たちにどこまでも「照準を合わせ」てくださっているように、私たちもこの神様に「照準を合わせて」生きようとすることです。最後まで私た ちを愛し、最後まで私たちと共に歩み、最後まで私たちと共に生きてくださる方と、共に生きようとすることです。
 当然、私たちは「完全無欠」というわけにはいきません。むしろ、挫折に次ぐ挫折、失敗に次ぐ失敗、過ちに次ぐ過ちが私たちの現実です。「敵を愛する」、 そんなことは私たちにはできません。また私たちは、「敵」どころか、身近な家族や友人さえも本当の意味で愛せない、そんな者かもしれないのです。しかし、 この神様は「敵」であった私たちを愛してくださいました。この「天の父」は、この私たちを愛することをためらわず、迷わず、やめられません。そしてこのイ エス・キリストは、そんな私たちと共に行き、共に生きることをやめられない、この私たちと最後まで、最後の最後まで共に行かれるのです。
 「最後まで共に行かれる方」と共に生きようと歩み始める、そのときに初めて、私たちは「敵を愛する」というこのイエスの御言葉を聞き、受け入れ、それを 思いめぐらしつつ、人々と物事に対して開かれて、イエスが生きらたこの道において何か一つのことを行っていけるようになるのです。

 それはいったいどんな道なのか、思いつくままに、いくつかお話をします。
 一つには、このイエス様の言葉は「敵を愛せよ」であって、「敵を作るな」ではないということです。「敵を作らない」、なるべく事を荒立てず、自分たちが 敵対や批判を受けないために、できるだけ物事や人また社会、さらには国家や政治への批判を避け、なんでも「穏便に穏便に」とやって行く。でも、それは主イ エスが言われたことではありません。「汝の敵を愛せよ」というこの言葉を聞けば、必ず思い出すのがマルティン・ルーサー・キング牧師です。20世紀の後半 アメリカ合衆国で、アフリカ系住民(いわゆる「黒人」)に対する社会の差別・排除をなくすために、キングは立ち上がり、多くの人々と共にこれに取り組みま した。キングと彼の仲間たちが、もしこの社会・国家・政治の問題・悪に全く触れず、批判も反対も行動もしなければ、まさに「敵を作らず」ということになっ たでしょうが、彼らは決してそうはしませんでした。彼らははっきりと語り立ち上がって行動しました。その結果、多くの「敵」が出て来ましたが、その「敵」 たちをキリストのゆえに愛せよ、そうして「善によって、悪に勝て」とキング牧師は語ったのです。
 そしてまた、この「愛する」とは、感情の問題ではなく、意志の事柄であるということです。「イエスは―――『敵(かたき)だっても大事にしろ!』といっ ているのです。敵ですから憎いんです。憎くたっていいんです。そんなものは感情に過ぎません。感情というものは自然現象です。自分で意識して好きになった り、嫌いになったりできるというものではありません。―――大事なことは、憎い相手に対しても、あいつも人なのだと思って、大事にするという、そのことな のです。―――越後の上杉謙信は宿敵甲斐の武田信玄の領民が塩がなくて困り切っていると聞き、敵に塩を送りました。」(山浦玄嗣、前掲書より)
 最近何度かご紹介している、パレスチナ人医師イゼルディン・アブエライシュさんの言葉をまた聞きたいと思います。彼は、愛する娘三人と姪を、イスラエル 軍の不当な攻撃によって殺され、失いました。彼にとって、イスラエル軍、国、そしてそこに住む人々は、「敵」になっても「当然」であったでしょう。しか し、アブエライシュさんは、「この自分の悲しみ、苦しみを最後の悲劇とするために、双方の人々が共存するための架け橋になりたい」と様々な活動をしておら れるのです。彼は言います。「わたしにはただ、現在の混乱から抜け出す道はあり、そのためには過去に起きたことにとらわれるのをやめて前進する必要がある と説くことしかできなかった。あまりに単純に聞こえるだろうが、それがわたしたちのはまり込んでいる泥沼から抜け出る唯一の方法なのだ。―――必要なのは 怒りを中心に据えようとする決意ではなく、問題を解決しようとする意志だ。―――私たちは先に進まなくてはならない。互いへの信頼と敬意を築き上げねばな らない。だが、知らない相手を敬うことはできない。だから相手の話を聴き、目を見開いて、互いを知ろうではないか。わたしたちは尊敬と平等をはぐくむ必要 がある。わたしのことを『バラ色の眼鏡をかけている』だの『絶望的な現状を認めようとしない』だのと言う人もいる。―――わたしはどんなときでも希望を捨 てない。―――危険な状態にある赤ん坊を取り上げるときも、大出血を起こしている女性の出血を止めようとしているときも、治療不能だと診断された他の多く の病気を治そうとしているときも。だから、二つの国民の間のいさかいくらいで、どうして絶望的だと思えるだろう? わたしは人々のことを大切に思ってい る。それは他の人たちも同じだと思う。人間はそんなふうに、つまり社交的で、他の人とともに生きるように作られている。」(イゼルディン・アブエライシュ 『それでも、私は憎まない』より)
 「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さる」、この私たちの上にも雨が降り、太陽が 上ります。そして、復活の主イエス・キリストが、最後まであなたと共に行かれるのです。「あなたがたの天の父が完全であられるように」、敵である者と最後 まで共に行かれるように、「あなたがたも完全でありなさい」、このお方によって開かれて、どこまでも共に行きなさい。

(祈り)
天にまします我らの父よ、、御子イエス・キリストによって私たち極みまでを愛された神よ。あなたは「悪い者の上にも雨を降らせ、日を昇らせ」、「敵を愛 し」あなたに敵対する世と私たちとを愛して、「完全に」最後まで行くお方です。イエス・キリストによって示され、成し遂げられたこの愛を受け生かされた者 として、私たち一人一人また教会をあなたのこの道の証人また働き人として、ここから送り出し、導き、お用いください。
まことの道、真理また命なる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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