あなたを求めるイエス                 マタイによる福音書第4章12〜22節

      
  「神の国は近づいた。神様のお取り仕切りが始まる。」、そう宣べ伝えて、本格的に活動を始められたイエス様でした。ところが、そのイエス様がその活動の最 初になさったこと、これが実に意外なものだったのです。それは、「人を呼ぶ」ということでした。「イエスがガリラヤ湖の海べをを歩いておらると、ふたりの 兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、 『わたしについてきなさい。――』。」
 そのどこが「意外」なのかと申しますと、イエス様の宣教の内容の一つは「人間ではない」ということでした。「人間の勝手な考えと計画ではない、人間のわ がままな取り仕切りではない。」そこで「神様なのだ、神様のお取り仕切りなのだ、神の国なのだ」と語られるのです。「意外」というのはここです。そんなに 「人ではない、神なのだ」と語りながら、なぜ今さらそこに人間を呼び招くのだろうか。そもそも神様は何でもご自分の力でできる方ではないか、ならば、神様 は何の人間の関わりや協力なしにでもご自分の御国をお建てになることができるのではないか。
 私たちはクリスマスの恵みと喜びの中で、この新年を迎えています。聖書はイエス様の誕生を「神の言葉が肉体となった」ことだと捉えています。それは、 「神様が考え願っておられることをかたちにすると、イエス様という一人の方になる」ということです。それは言い換えれば、「神の言葉は人間となった」とい うことなのです。「人間となった」、何のためでしょうか。それは人に呼びかけ、人を求めるためです。私たち「人間」というものは、どんなにしても一人では 生きていけません。その本性からして、人を求め、人を呼ぶものです。神様がそうした人間にわざわざなった、それはまさにその「人を求め、人を呼ぶ」という こととをなさるためだったのではないでしょうか。
 そして、イエス様は「神様の御心そのもの」という方ですから、このイエス様のあり方と振る舞いの中に神様という方そのものが現れておられます。神様とい う方は、あえて私たち人間なしにいようとはなさらない方なのだ、また神はあえて人間なしに事をなさろうとはされない方なのです。神とは、それほどまでに私 たちを愛し、共に生きようとされる方なのです。ならば、イエス様が宣べ伝えた「神の国」「神様のお取り仕切り」もまた、まさにそのような「国」であり「お 取り仕切り」なのだと言えるでしょう。「神の国」もまた人間なしにはあり得ない、人間を根本的に大切にし、人間を愛において必要とし、人間を真に生かす、 それが神様のお取り仕切りなのだと思います。「神の国は近づいた!」

 「真っ先にイエスは、人を招き、人を呼ばれた」、このことそれ自体が、既に「福音」「良い知らせ」なのです。もしイエス様が、またイエス様の天の父なる 神様が、「別にあなたなんかいらないよ、私は何でも自分一人でできるし、それにあなたの代わりはいくらでもいるから、別にあなたでなければならないことは ないよ」と言うような方だったら、どうでしょうか。事実、この世はそのような声に満ちています。「別にあなたでなくてもいい、あなたの代わりはいくらでも いる、あなたなんかいらないよ。」ある方は言っています、「この交換可能ということほど、人間の尊厳を傷つけるものはない。それは自分自身の自尊心を失わ せる。そして、それは『愛』の基盤を奪うものである」。(上田紀行『生きる意味』より)そして、この「かえがえのなさ」の喪失こそが、現代に生きる私たち の虚しさの源であると。しかし、主イエスは、一人に出会われます。「人間には、そもそも誰にもそれぞれの色があり、においがあり、癖がある。そして人間の 魅力は、その人の人格的な匂いや色と切り離せない」(前掲書)という言葉かありますが、主はそのような「色と匂い」を持った一人の人と出会い、その一人に 向かって声をおかけになるのです。「わたしはあなたを求める、わたしはあなたを必要とする、わたしはあなたを愛する」。
 「人を愛し、人を大切にし、人を生かす」、このことは、神様しか、本当は神様だけしかできはしません。なぜなら、私たち人間の国とその取り仕切りは、人 を大切にはしないからです、人を無条件には愛さないからです、人を真に生かそうとはしないからです。昔アモスという預言者がこう語りました。「この言葉を 聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる女たちよ。『酒を持ってきなさい。一緒に飲もう』と夫に向かって言う者 らよ。」何千年もの昔もそうでした。そして今もそうなのです。路上で、災いの地で、戦場で、人間がごみのように捨てられて、死に行くままに放っておかれて います。神様は、このような世界を見過ごしにされないで、ついに一つの決心をなさいました。御自身が完全に最初から最後まで責任をもって、神様御自身の国 を建て、ご自身のお取り仕切りをなさる。

 しかしそうは言っても、神様にはジレンマが残ります。しかし、神様は人を愛し、人間抜きには事をなさりたくはない方です。それで神様はこう決めました。 「わたしの愛する独り子を、人間として人間の世に送ろう。そしてあいつを通じて人間を呼び求め、このわたしの国、わたしの働き、わたしの道へと招こう。」 そうして、イエス様はこの世に来られました。そして、今ガリラヤ湖畔に立ち、そこを歩いてペトロたちのところに行かれるのです。「神の言葉は人間となっ た」、だからどこへでも行けます。私たちのところ、私たちが生き、働き、生活しているそのところにも来て、そこに立ち、私たちに呼びかけ語ることがおでき になるのです。
 そこで、主イエスは呼びかけます。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」それは、神様の呼びかけと招きです。「わ たしのこの国、この働きと道にあなたも加わらないか。あなたがたもこんな国、こんな世界はいやだと思っているのではないか。わたしはあなたに加わってほし いのだ。」本当にそれは、人を生かす働きであり道です。昔預言者は、人を大切にできない人間とその世に対してこのようにしか語ることができませんでした。 「主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。おまえたちは肉鉤で引き上げられ 最後の者も釣鉤で引き上げられる。」それは、魚た ちが漁師たちに引き上げられるイメージです。しかし、それは一網打尽に取り尽くして滅ぼしてしまうという、厳しい罰のイメージです。それを今、イエス様は 恵みによってひっくり返して言われます。「あなたがたを人間をとる漁師にしよう。」この「とる」は、「生きて捕える」という意味です。人を大切にしない、 愛さなさい、生かさない、そんな世の中はいわばヘドロで汚れ、恐ろしい怪獣の住む海でしょう。しかし、神様はこのイエス様によって、そこから私たち「魚た ち」をきれいな、苦しめ殺すもののいない、「神の海」へと生きたまま移し入れ、そこで本当に生かしてくださるのだというのです。この働きのために「あなた がたも漁師として立ち上がり、仕えなさい、あなたがたはもう漁師なのだから、すぐ来られるだろう」、そうイエス様は幾分かのユーモアも込めながら呼び招い ておられるのです。

 このイエス様の招きは、ペトロたちの心を、心底からその中心を捕えました。彼らは自分でも気づかないうちに、でも心の底ではそう願っていたのです。神に 創られた人間は、どんな人でも本当はそう願わずにはいられない、そうなのだと思います。しかしそれを捕えるのは容易ではない、でもそれをしっかりと見て、 網を投げかけ、捕まえるイエス様のこの「うまさ」、イエス様こそ、まことに「人間を取る漁師」であられます。「そうしたい」、彼らは一瞬のうちにそう思い ました。「でも、どうすればいいのだろう。」イエス様の答えは単純明快です。「わたしについて来なさい。」「神の言葉」は肉体となり、人間となりました。 だから、それは私たちが考えるような「抽象的な言葉、教え」に留まってはいません。それは、「聞いて、立ちあがり、従って行く」ことのできるものとなった のです。そしてイエス・キリストの復活後を生きている、この私たちもまたこのイエス様に「ついて行く」ことができるのです。イエス様は、この神の国の国の 宣教・働きの末に、十字架に殺されていきました。でも、それで終わりではありませんでした。墓の中・死の中に沈んだイエス様は、神の力によって復活させら れ、今も目には見えませんが確かに生きておられるのです。だから、私たちはこのイエス様に今日今から従って行くことができるのです。

 私共の日本バプテスト連盟に、内田章ニという牧師先生がおられます。古賀教会の協力牧師や九州バプテスト神学校の講師をされていた方です。この内田先生が、ご自身イエス様によって招かれ、召されたことを、このようにお話しになっています。
 「私は障害のために、幼いころから仲間はずれでした。生後5ヶ月で『脳性小児麻痺』と診断されて、医師は『せいぜい長生きして7歳までです』と言ったそ うです。学校に行く時期になっても、『学校に来なくてよい』という就学猶予となってしまいました。両親の努力もむなしく、学校に行けませんでした。――― 中学の年になっても再び就学猶予となってしまいました。
 その頃から私は、自分の存在とは、と問いかけるようになりました。社会から『いらない』と言われている自分が生きていて一体何になるのだろう、生きてい る意味があるのか、と毎日考えるようになりました。そして、イエス様の言葉に出会ったのです。こうして私は、生きていても良いことがわかったのです。神様 は、私を大切な存在として創ってくれました。大切な働きのために生かしておられます。このいのちの言葉に出会ったのです。
  人生が180度変えられた私は、決して仲間はずれではありません。それから教会に行き、神学校に行き、神様の言葉を伝える仕事をするようになりました。隣 人として生きる、愛のうちに生きるとは、絶対に仲間はずれにしないことです。これは、努力してもできるものではありません。人の努力ではなく、神に心を向 けて歩む時に実現します。キリスト教とは、一人一人がその人らしく生きるために、神に心を向けて歩むことです。」(梅光学院大学ホームページより)

 「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」これは、実は私たちの、その一人一人の物語なのです。ここに、教会とその一人一人の姿があり、そ の私たちに与えられた使命と約束があるのです。「あなたを求めるイエス」、私たち一人一人を、この私を求め、呼び、召し、立ててくださるイエス、この主に 導かれて、この年も私たちに与えられる課題と使命に、私たちに与えられている力いっぱい共に励んでまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたは御自身の御国を来たらせようと決断し、約束してくださいました。しかしまたあなたは、その御国のために、私たち人間を求め、人間を招き、人間を 用いてくださいます。今、御子イエスは、私たちのところにも来て立ち、「神の国は近づいた、あなたがたもこの福音を信じて、わたしに従いなさい」と、私を 呼び、私を求めてくださっています。
 どうか、私たちも主の御言葉の促しに従い、この私をも求めたもう主の御愛に押し出されて、主の呼びかけに答え、その道に従うことができますように、どうかお導きください。ここに集われた一人一人に、あなたが呼びかけ、出会ってくださいますように。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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