行き過ぎた恵みで始まる                 マタイによる福音書第3章1〜3、13〜17節

      
 主の年2025年、明けましておめでとうございます。
 新年ももう5日となり、明日から仕事始めという方も多くいらっしゃることと思います。それで、今日は「仕事始め」のお話です。と言いましても、「イエス 様の仕事始め」です。イエス様の「仕事始め」、その公の働きの最初が、今日の出来事でした。それは、ヨルダン川に出て行って、洗礼者ヨハネという人からバ プテスマを受けるということだったのです。「バプテスマ」、これは私たちにとっては、イエス・キリストを信じた人がクリスチャンになるための、「第一歩」 としての大切な行事・儀式です。イエス・キリストと出会い、イエスを信じた人は、バプテスマを受けるのです。特に私たちバプテスト教会には、必ず「バプテ スマ漕(バプテストリー)」という大きな水槽があります。そこに水を張り、その中にこれからクリスチャンになろうという人が入っていって、牧師など担当の 人によって、その水の中に全身を沈めてもらい、そして起こしてもらうということを行います。これを「バプテスマ」と呼ぶのです。「水に浸す、沈める」こと を、新約聖書のギリシャ語で「バプティゾー」というからです。私たちがこのバプテスマを受けるというのは、私たちの主イエス様が、最初にこうしてバプテス マを受けられた、その後に従おうとするからなのです。

 聖書によりますと、イエスが受けられたバプテスマというのは、ヨハネという人が宣べ伝え、行っていたバプテスマでした。当時まででも、これと同じような 儀式は割と行われていたということです。つまり、罪を悔い改めて神におわびの気持ちを表わして、罪の汚れを水で洗い清めることを象徴する儀式です。ところ が、このヨハネという人は、それに独特な性格を与えて、「特別なただ一回きりのバプテスマ」としてこれを伝え始めたのです。
 まず、それは彼が人々に伝えたメッセージと密接に関連していました。ヨハネは「神の国は近づいた」と語り始めました。「神の国」というのは、「どこかの 場所」という意味ではありません。それは、「神の支配と導き」を意味します。「神様の大きな働きがもう間もなく起こる、やって来る」というのです。私たち 一人一人の人生も、また私たちみんなが形作っているこの世界も、共に神様の御心から離れ背いてしまっているというのが、聖書の見方です。ところが、神様は そのような私たちとこの世界を放って置かれないのです。神様はこの世界にご自身がおいでなって、私たちをもう一度ご自身のもとに連れ戻し回復しようとなさ る、それが「神の国」の働きであり運動なのです。ヨハネはこのことが一人の人、一人の方を通して起こるのだと言いました。「わたしのあとから来る人は、わ たしよりも力のある方」。この「神の国が来る」ということを信じ、それに備えて準備すること、そのしるしが「バプテスマ」だったのです。
 次に、「バプテスマ」というのは、「悔い改め」のしるしでした。「悔い改め」と言うと、「懺悔」とか、日本語にはとかく「暗い」イメージがありますが、 本当の意味は「方向転換」です。「向きを変える」、やがて間もなく来る「神の国」に向かって自分の「向き」を変える。これまではよそを向いていたけれど、 これからは神様に向かって、その支配と働きに向かって自分の向きを変え、生き方の方向を変えて、新しく人生を歩き出す、これが「悔い改め」です。山浦治嗣 さんが訳されたケセン語訳聖書では、こうなっています。「さあ、心ォスッパリ切り換(ゲ)ァろ! 神さまのお取(ド)り仕切(シギ)りァ今まさに此処(コ ゴ)にある!」「神の国」の到来と実現に向けて、心をスッパリ切り換えて、新しく歩み出す。「わたしはそうします」ということを形で表わすのが、バプテス マなのです。

 このヨハネの「神の国」のメッセージに賛同して、それに自分も加わりたいという意志を表しつつ、今イエスはヨルダン川にやって来られます。そして、まさ にヨハネからバプテスマを受けようとされるのです。ところが、ヨハネはこれに反対し、これを断ろうとしました。「ところがヨハネは、それを思いとどまらせ ようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマをを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか』。」なぜならヨハネは、イ エスこそ、まさにその「神の国」をこの世にもたらし実現するその人であると知っていたからです。「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、 わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。」イエスこそ、ヨハネよりも優れた方、神の国をもたらす方、罪なき方であると、ヨハネはよくわかっていた からです。申しましたように、バプテスマとは「罪の悔い改め、神様へのおわび」の式です。そんなものを、なぜ「罪がない、正しい方」であるイエス様が受け なければならなかったのか。その答えは、主イエスのヨハネへの応答の中にあります。「しかしイエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このよ うに、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。」イエスが今バプテスマをお受けになる、それは「正しいこと、ふさわしいこ と」を行なうためであった、というのです。「正しいこと、ふさわしいこと」、それはイエスをこの世に送られた神にとって「正しいこと」、そして神から送り 出されてここにまで来られたイエスにとって「ふさわしい」ことであったに違いありません。

 その「正しいこと、ふさわしいこと」とは、一体何でしょうか。
 ある人が大変興味深いことを語っておられます。一般的・常識的・伝統的には「正しいこと」とは、こうだというのです、「人間の行為に精確に即して報賞 (ほうび)と罰とを割り当てる」こと。つまり、ある人が良いことをしたとすれば良いものをほうびとして与え、悪いことをした者には悪いことを罰として与え ること、それが「正しい」ことなのだ。これは現代の私たちの社会では「自己責任」の論理として通用しています。いいことも悪いことも、すべては私たち自身 のした行為の是非によって決められ、配分され、実現される。それが「正しいこと」だと、私たちの多くは思っている。「悪いことをして、怠慢をして、失敗を したのだから、悪いものを受けても、ひどい目にあっても、それで苦しんでいても、それは当然、自業自得、自己責任、それを助ける必要はないし、むしろ助け ないのが『正しいこと』」、そう私たちは思っているかもしれません。さらには、そんな人を助けることは「行き過ぎたこと」であって、かえって「悪」である と。今は、「行き過ぎたこと」が是正される時代です。「保護や福祉の行き過ぎは、人を甘やかし社会を駄目にする」、「権利の主張の行き過ぎは社会の秩序を 緩めて危機に陥らせるから、義務も権利や自由と同等以上に言わなければならない。」

 ところが、神様にとって「正しいこと」「神の義」とはこうだというのです。「それは他者に対して、その人が必要としている点において応じる振る舞いのこ とである。」(以上、『NTD新約聖書注解2「マタイによる福音書」』より)「その人が必要としている」ことを行い、与える、これが「神にとって正しいこ と」だと言うのです。相手の人がいい人であるか悪い人であるかを問わない、その人が悪いことをしたかいいことをしたかを問わない。その人に助けが必要な ら、助けを与える。たとえその人が悪いことをしたために苦しんでいたとしても、その人に助けが必要なら助けを与える、赦しと再出発が必要なそれを与える、 それが「神の義」、神様の正しさだというのです。聖書の「主なる神」は、ずっと「罪と不信の民イスラエル」に向かって、そのように接して来られました。そ して今神は、すべての人に対して、このお方イエス・キリストにおいて、まさにこのように「正しく」行動され、行為なさるのです。イエスは、まさにこのよう に語られました。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ5・45)。
 聖書によれば、私たちは神から離れ、神に背き、自分勝手に自分の道を歩んで来た者たちです。そんな「罪人」たちが、自分の罪のために苦しみ、傷つけ争い 合い、その結果として罰を受け、滅んでも、それは「自業自得」「当然の報い」なのか。いいえ、神様はそう考えられなかったのです。罪人に助けが必要なら助 けを与える、赦しが必要なら赦しを与える、そのためにこそ今救い主イエスをお送りになるのです。
 イエスのバプテスマ、それは徹底的に罪人と共になる、どこまでも連帯的になる、最後までどん底までも一体となる、そのような行為であると言われます。な にしろ、「悔い改めるべき罪人」の一人となって、そこまで降りて行って、そこまで一緒になるのですから。本来的なことを言うならば、イエス様は罪人と共に いなくてもよかったでしょう、また他者の罪を自分が引き受け負う責任も必要もなかったでしょう。しかし、その共にいなくてもよいはずなのに共にいる、その 負わなくてよいものをあえて負い担う、それがイエス・キリストの生涯であり、それをまさに表し始めるのが、このイエスのバプテスマだったのです。この主イ エスの恵み、イエスによって表され与えられた神の恵みは、私たちの基準からしたら「行き過ぎ」ています。しかし、この「行き過ぎた恵み」から、この「行き 過ぎた恵み」によってイエスの生涯は始まり、働きはなされて行くのです。

 ヨハネによってヨルダンの水に全身沈められ、そこから上がった時、このようなことが起こりました。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられ た。すると、見よ、天が開け、神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、 わたしの心にかなう者である』。」それは、天の父なる神からの「しかり」「オーケー」でした。「それでいいのだ、これが神にとって正しいことであり、この イエスこそわたしが喜び送った者、わたしが願うことをふさわしく行ってくれる者」。ここからイエスのお働きと歩みが、今始まって行くのです。
 そして、イエス・キリストを信じ、イエスに従う者となる私たちの歩みも、ここから新しく始められて行くのです。イエスの「行き過ぎた恵み」によって引き 受けられ、担われ、赦され、生かされた私たちは、この「行き過ぎた恵み」に答え、この「行き過ぎた恵み」を表し指し示すような生き方へと呼びかけられ、招 かれ、導かれるのです。「洗礼(筆者注:「バプテスマ」と読む、以下同じ)は天国行きのキップではないし、一生安心して暮らせることを保証する保険でもな い。イエス・キリストの死という恐ろしい出来事に自分も参与することだという。しかも、イエス・キリストの死は、処刑という晴れがましくも誇らしくもない 死である。―――イエス・キリストの死、十字架上の刑死を招来したものは―――『イエス・キリストの生』であった。それは―――恵まれない人々と苦労す る、という生き方であった。私たちの中には、『お前が必要だ、私と一緒に苦労してくれ』と言われても、いろいろな事情から、『ちょっと待ってくれ』と言わ ざるを得ない人もたくさんいるであろう。―――にもかかわらず、『一緒に苦労してくれ』という呼びかけに応じてくれる人、またそうできる事情の人がいれ ば、それはもちろん大きな喜びである。私たちは、神が用意してくださった私たちの状況に許されて、神と共に苦労してみようという決断ができた――そういう 意味において幸せ、また恵まれているのであろう。だからこそ、私たちは、同じ招きを人々にしたいと思うのである。―――それは決して、安心立命、無病息 災、家内安全――またその延長線上にある精神的・抽象的『恵み』の約束であってはならない。―――その『苦労』は、教会の存続と生きのびるための苦労では ない。人々の苦しみと悲惨を、どれだけともにしようとしているかが、教会の分かち合うべき『苦労』である。―――だからこそ、その中から、共に苦労をして くれる者を得た喜びは大きい。」(植田仁太郎、『アレテイア 釈義と黙想 マタイによる福音書』より)
 しかもこのことを、イエス様は「外から」「上から」眺めて、命令し指図するのではなく、その道の中へと入り込み、自らがその道に先立ち、その道を自分が 共にたどることによって、私たち人間を導こうとなさったのです。バプテスマにおいて、本当に主イエスは私たちとすべてを共にしてくださいます。何度も申し ますように、イエス様ご自身が、ヨルダン川の中へと、バプテストリーの中へと、バプテスマの中へと入って来られたのです。私たちが決心して水の中へと入る 時、悔い改めをもって低い所に身を置こうとする時、その時そこにイエス様も共におられるのです。どこか私たちの遠くにおられるのでなく、実に近くに、その ただ中にいてくださるのです。「今ここからわたしはあなたと共にいるよ」と語っていてくださるのです。それは、「これはわたしの愛する子、わたしの心にか なう者である」、私たちもまた主イエスと共にこの神の御声を聴きながら、この主と共に始まり、主と共に行く道なのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてものを極みまで愛された神よ。
 主はその最初の働きとして、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。それは「身を沈める、全身を低い所に置く」こと、そして「神の正しいこと、ふさ わしいこと」を行なうためでした。それは、私たちと共にあり、私たちとその罪を引き受け担うことでした。この「行き過ぎた恵み」によって救われた私たちも また、この恵みに答え、これを行い表わす一人一人、また教会とされますように、この新しい年もお導きください。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


戻る