天使と共に喜び歌え
ルカによる福音書第2章1〜20節
皆さん、クリスマス、心よりおめでとうございます!
最初のクリスマスの知らせは、明るい光と共にもたらされました。それは、まばゆいばかりの、目も眩んでしまうような明るさでした。羊飼いたちが野宿をし
ていた真っ暗闇の中に、突然もたらされたからです。暗闇に慣れた目には、明るい光はまぶしすぎます。私たちにとって、その光は明るすぎると思われるのでは
ないでしょうか。私たちにとって、その伝えられた喜びは大きすぎると思われるのではないでしょうか。
天使は、羊飼いたちに告げました。「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお
生れになった。」この天使の呼びかけを聞いて、私たちがしたいと思うことは何かについて、ある方は大胆なことを言っています。「私は天使を連れて、天使の
手を引いて、この世界を回りたい。」「私どもは天使に一度頼みたいと思っています。そう言わないで、一度来て、われわれと共に全世界をへめぐってみません
か。私どもが知っている世界、今日の世界を見ていただきたい、と。私どもは天使と共に破壊された街へ入ります。半ば崩れている家に入ります。そこにふたり
の年老いた人びとがいます。夫と妻です。ふたりとも全くの悲しみに沈んでいます。光の輝きなど全くありません。クリスマスツリーなどありません。贈り物を
並べるテーブルもありません。子どもたちの笑い声が聞こえてくるわけでもないのです。それらは、かつてはここにありました。しかし、もうありません。戦争
が子どもたちを奪いました。―――私どもは天使に言います。ご覧なさい。これがわれわれの今日の現実です。この人びとにあなたは大きな喜びを告げますか。
―――天使と共に更に歩みを続けます。遠くへ出ていきます。戦争がそこで行われているところまで行きます。今日もまた、この降誕祭の日に、ひとりの人間が
もうひとりの人間の前に相手を窺いながら伏せています。ひとりの人間が他の人間に対して武器を向けています。―――兵士たちの上に星をちりばめた空が広
がっています。だが今日は天が開きません。今日は『地には平和』という声が聞こえてきません。―――その響きも今は消えました。今日支配するのは別の神々
です。そして流血の報酬を求めます。―――更に私どもは進みます。全く孤独になっている囚われの人びとのところまで行きます。愛の声が全く迫ってこないと
ころまでいきます。―――そして天使に問います。これについてあなたは何を言いますか、と。ここでひとりの人間に襲いかかっているあらゆる不正、すべての
苦悩に対して天使として何を語られるか、と。」「(H. J. イーヴァント)
最初のクリマスは、皇帝アウグストの人口調査の命令が下されているさ中に起こりました。この皇帝の存在と命令が、この世の闇を大きくしています。「聖書
は、一切の人口調査に対して疑念を持っています。人口調査は、常に、高く権力者が君臨していることのしるしでありました。権力者は自分の力を評価してみた
いのです。新しい税を課したいのです。徴兵をしたいのです。私どももまたこの人口調査の世界を知っています! 全世界において、勅令が出、独断的命令がく
だされ、権力者、力づくで支配する者たちが、徴税をし、兵力を増強しています。いかなる場合にせよ、そのように独断的命令、指令、勅令が発せられると、民
族が、人間である民が、貧しい人たちが作る民が、新しい重荷を負わされます。しかも、それによって民衆が助けを得るのだという偽りの事実をちらつかせられ
ながら、そうされてしまうのです。」(E.トゥルナイゼン)この命令に駆り立てられながら、今マリヤとヨセフの夫婦は、このベツレヘムの町にやって来ま
す。長い道のり、激しい昇り下りの旅路を一週間かけて歩み続け、もう間もなく赤ちゃんが生まれてしまうという切羽詰まった状況を引っさげて、ここまで来な
ければならなかったのです。
この時、ローマ帝国が全世界にもたらしていたのは、「戦争と勝利に基づく平和」でした。当時このような言葉がありました。「世界の略奪者(たるローマ
人)たちは、すべてを荒らし回って陸地を見捨てたあとに、今は海を探し求めている。彼らは、敵が裕福ならば貪欲となり、貧乏ならば野心を抱く。―――略奪
し殺戮し強奪することを、偽りの名で支配と呼び、無人の野を作ると平和と呼ぶ。」(タキトゥス『アグリコラ』より、クロッサン、ボーグ『最初のクリスマ
ス』所収)このような支配の下で、「泣いている人たち」が大勢いました。この羊飼いたちの立場と境遇がそれを代表しています。それは、当時の社会にあっ
て、最も下の階層に属する人たちでした。このクリスマスの夜にもまた、野宿しながら羊の群れの番をするという過酷な労働を引き受けさせられている人々で
あったのです。
今私たちが生きるこの世界にも、そのような人々の涙が満ちているのではないでしょうか。「最後になおひとつの扉を開きます。私どもそれぞれの自分のここ
ろの扉です。その中がどんな状態になっているかを、神の天使に見てもらうために開くのであります。そこには思い煩いが巣くっています。あすのことを思い煩
う思いです。暗い、暗い将来を思う思い煩いです。そして、そこに罪責が巣くっています。―――またそこには嘆きが巣くっています。」(イーヴァント)私た
ちは、この世界の有り様を天使に見せながら、抗議と共に問いたいと思うのです。「あなたは、こんな世界の有り様を見たでしょう。あなたはそれでも、あの
『大きな喜び』を私たちに告げようというのですか!?」
しかし、天使は黙っていません。なぜなら、それは神から送られたきた天使だからです。私たちとこの世界を創り、なお愛し、導きたもう神の天使だからで
す。天使は今こそ、ベツレヘムの郊外で、野宿しながら羊の群れの番をしている羊飼いたちの真ん中に現れます。そして、その真っ暗闇の中にまばゆいばかりの
神の光を輝かせながら、今こう告げるのです。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。見よ、きょうダビデの町に、あ
なたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」「そうだ、この世、この世界とあなたがたの生き方、そして社会は暗く、あま
りにも暗い。しかし、そのあなたがたのために、今日救い主がお生まれになったのだ。そのあなたがたの暗闇のまったただ中へと、今晩救い主イエスは来られた
のだ。」
このことを指し示す「しるし」として、天使は思いもかけないものを知らせます。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるの
を見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。」それは、イエスの両親となったマリヤとヨセフに与えられているしるしです。この理不尽で
不条理なかれらの苦しみの真ん中に救い主イエスは来てくださり、かれらの間にしっかりといてくださることのしるしです。そして、かれらの苦しみを共に担
い、共に苦しみ、。その道のりをどこまでも、十字架と死に至るまでも共に歩んで行ってくださることの確かなしるしなのです。そして、幼子が眠る飼い葉おけ
は、またこの羊飼いたちのためのしるしなのです。王や皇帝の宮殿にしつらえられた黄金や宝石で飾られたベッドならば、羊飼いたちはとうていそこへは行けな
いでしょう。しかし今、救い主は飼い葉おけの中に眠るのです。かれらもまた、いやかれらこそその傍らへと招かれているのです。
そして飼い葉おけとそこに眠る幼子は、私たちのためのしるし、いや私たちのための救いそのものです。救い主イエスがおられるところ、そこには必ず神ご自
身が共にいてくださいます。今晩生まれたこのイエスという幼子の別名は、「インマヌエル」「神われらと共にいます」なのです。私たちもまた、マリヤとヨセ
フのように、この世の不条理によって引き回され、この世の力とそれを操る者たちによって苦しめられ、思ってもいない苦しみと嘆きの道に引き入れられること
があるでしょう。しかし、そこに神の御子イエスは共におられ、そこに神ご自身もまた共にいてくださるのです。「君は愛されるために生まれた」という歌をご
存じでしょう。あの歌は、決して常識や当たり前のことを歌っているのではありません。あの歌は、とても不思議なこと、驚くようなこと、「ええっ」と言いた
くなるようなことを歌っているのです。そのように「君は愛されるために生まれた」ということを歌い、本当に語っていてくれるのは、いったい誰でしょうか。
一般常識を歌っているのではなく、特別なメッセージを歌っているのですから、そこには必ずそれを歌い、語っていてくれる特別な人、特別なだれかがいるはず
なのです。それは、神です。そしてその神から私たちに送られてきたイエス・キリストなのです。主イエスは、このメッセージを届け、語り、伝えるために生ま
れて来られたのです。イエス様は、私たち一人一人に向かって、「君は愛されるために生まれた」、あなたは神様によって愛されるために生まれた、そしてその
神様はいつもあなたと共にいてくださると伝えるために、私たちのところに来られたのです。
また救い主イエスがおられるところ、そこに人と人との出会いと助け合いが起こります。イエスを宿したマリヤとヨセフは、この長旅の間、どんなふうにして
この苦難を乗り切ってくることができたのでしょうか。「たとえ毎日歩かなければならなかったのだとしても、心優しき人々が街道沿いにいて、泊めてくれたの
だと想像します。暴虐に満ちた世の中であっても、見知らぬ旅人をもてなすという、助け合う人々の生活がありました。」(志村真編著『平和をめざす共生神
学』より)そして、このベツレヘムでも、かれらに自分の家を提供し、その真ん中の部屋を提供してくれる人たちがいました。あいにくこの時期で来客が多く、
「客間にはかれらのいる余地がなかった」のですが、しかし二人はさらに奥の「居間」に招き入れられました。そこに家族と共に家畜がおり、そのまっただ中で
イエスはお生まれになったのです。
そして、この救い主イエスが生まれ、生き、死に、そして復活して生きておられるところ、そこには神の救いが起こります。私たち、罪ある人間が、その罪の
あり方から解放されていくのです。神のもとに立ち帰って神を信じ、出会うすべての隣人たちを愛して大切にしていく、そのような生き方と道が開かれ、導かれ
ていくのです。この幼子イエスを「救い主」「キリスト」と信じる人たち、クリスチャンの群れは、この後当時のローマ帝国世界にまたたく間に広まっていきま
した。その原因、その秘密はどこにあったのでしょうか。「古代世界においてキリスト教が広く受け入れられた理由は、キリスト教には―――そしてキリスト教
徒の生き方には―――『魅力』があったからである。例えば、疫病に感染した者は見捨てて逃げるのが常識とされた社会にあって、キリスト教徒が自分たちの仲
間だけでなく非キリスト教徒をも献身的に看護する姿は周囲の異教徒に強い印象を与えた。また、結婚が軽視され、中絶(しばしば妊婦を死に至らしめた)と女
児の間引きが横行する社会において、キリスト教会における女性の地位は当時としては大変高いものであった。また、民族的・文化的多様性の混沌の中で憎悪の
渦巻く古代都市にあって、キリスト教は愛と慈善の教えにより、安定した愛着のネットワークを創りだすことに成功した。つまり、キリスト教は当時の社会や既
存の宗教が解決できなかった問題に答を与え、混沌の中にあった社会に再生への道筋を示したのである。」(山崎ランサム和彦)
今こそ、神の天使は私たちとその闇の中に向かっても、高く、強く語りかけ、呼びかけます。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あな
たがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」本当に、私たちのために救い主が
お生まれになりました。本当にこの私たちの世界に、大いなる喜び、闇を輝き照らす神の光が与えられたのです。
今、天使は私たちにも呼びかけ、私たちをも招きます。「さあ、私たちと一緒に、あなたがたも喜び、歌おう。我らと共に、あなたがたも喜び、歌え!」「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」
(祈り)
天におられる私たちすべてのものの父よ、御子イエス・キリストをこの世に送られた愛の神よ。
今日クリスマスのこの時、私たちは、私たちにも呼びかけられていると聞きました。マリヤとヨセフ、また羊飼いたちと共に、私たちもまた語りかけられてい
ます。「恐れるな。今日あなたがたのために救い主がお生まれになった!」私たちの闇の世界中にも、いやここにこそ、御光を照らし、尽きせぬ愛を送ってくだ
さるあなたの恵みを、心より感謝し、御名をあがめます。
どうか、今日お集まりになったお一人一人とその歩みに、あなたの限りない祝福と導きが与えられますよう切に祈り、お委ねいたします。おいでになれなかった方々、特に病の方に、豊かないやしと慰めがありますように。
ベツレヘムの飼い葉おけの幼子、そして全世界の主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。