あなたのために星は上る
マタイによる福音書第2章1〜12節
クリスマスを待ち望むアドベントも3週目を迎えました。来週はいよいよクリスマス礼拝です。ただ、一口に「クリスマス」と言いましても、二つの種類のクリ
スマスがあるように思うのです。一つは、来たと思うとすぐに「過ぎ去って行ってしまうクリスマス」です。日本では、特にその傾向が強いように思います。
12月になるかならないかで、もう街はクリスマスムードに包まれます。きらびやかなイルミネーション、楽しげなクリスマスソング。でもクリスマス「クリス
マス気分」は24日の夜でおしまい、それが済むと「さあ、歳の暮れだ。正月だ」ということで、何事もなかったかのように過ぎ去って行ってしまいます。クリ
スマスケーキも、もう25日には安売りをするそうです。もう一つは、「私たちに大きなものをもたらし、いつまでも残り続けるクリスマス」です。聖書が語り
私共に伝えようとするクリスマスはこれです。聖書が語るクリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生は、この世界の中に、また私たちすべての人間の人生の
中に、一本の線を引くのです。見えない、けれどもしっかりとして消えることのない線を引くのです。この線を境として、私たちの人生、その歩みは「古いも
の」と「新しいもの」とにはっきりと分けられるのです。そしてこの出来事を見て、信じ、受け入れる人たちの中にはっきりと新しい道が開かれ、導かれて行
く。そのことを今日の聖書のお話が語っていると思います。
クリスマスの出来事によって、新しいことが私たちの中に始まります。本当に新しいことは、神が始めてくださるのです。ここに、神によって全く新しいこと
を始めた人々がおります。それは東の国の博士たちでした。イエス様がベツレヘムにお生まれになって間もない頃、東の国から「博士」たちがユダヤの都エルサ
レムを訪ねてきました。言い伝えによれば、彼らは三人連れであったということです。伝説では名前までついておりまして、カスパル、メルキオール、バルタ
ザールと言われます。この三人は東の国で不思議な星を見つけたのでした。彼らは、星の運行を見て物事の動きを占い、予測することを自らの業としていました
から、この星の意味するところについていろいろ調べたのでした。その結果、これは新しいユダヤ人の王、ユダヤから現れてこの世界に平和と正義をもたらす特
別な方がお生まれになったしるしである、ということがわかりました。そこで、三人はこの星を頼りにはるばる旅を続けてきたのです。
「博士」たちは、救い主を探し、救い主に出会うために、数々の大きな犠牲を払いました。当時にあっては、このような旅は大変な冒険でした。飛行機や自動
車があるわけではありません。何日もかかります。また、長い旅の間に何が起こり何が襲ってくるか、わかりません。病気、盗賊、災害。死を意味するかもしれ
ません。彼らは、故国で持っていた地位・職務や名誉、財産といったものを、いわば投げ捨てるようにして出て来たのです。なぜ、彼らはそんな犠牲を払ったの
でしょうか。それほどまでに彼らは「道」を求めていたということではないでしょうか。この今の暮らしは、確かにすべてが満たされているように見える。しか
し、何かが足りない。あの不思議な「星」のもとにお生まれになった王と彼が創り出す新しい時代こそ、この私たちにほんとうの「道」を開き、示してくれるも
のではないだろうか。彼らは心ひそかにそう願い、そう求めていたのです。私たち一人一人も、実はそのように求め、願っている者ではないでしょうか。
彼らがこの新しい道に踏み出したのは、彼らの上にその不思議な星が上ったからでした。この「星」を彼らの上に上らせたのは、ほかでもない神御自身でし
た。「星」はだれの上にも上ります。「星」の光は、どこにいるだれをも照らします。だから、この「星」は、どんな遠いところにいる、どんな人にもクリスマ
スの知らせが向けられていることの「しるし」です。それは本当に「どんな人にでも」です。どんなに「縁遠い」と自他から言われ、思われる人でもです。博士
たちは「異邦人」と呼ばれている人たちであって、聖書の民イスラエルに属する人々ではありませんでした。また、「何も知らなくても」です。彼らは神の言葉
である「聖書」を知りませんでした。だから後に、「聖書によれば、救い主はベツレヘムに生まれる」と教えられねばならなかったのです。それに加えて彼らが
仕事として日々行っていた「占星術」星占い自体が旧約聖書の律法では禁じられており、その意味でも彼らはそれまでの聖書の伝統からは排除されていたので
す。さらに、「どんなに見当違いで、道に迷い、道を誤ったとしても」です。博士たちも、旅の途中に道に迷い、とんでもない所へ行ってしまったのです。しか
し、神が彼らの上に上らせられた星は、何より神御自身はそんな博士たちを導かれたのです。「星」とは、神様の語り掛けであり、問いかけであり、導きです。
彼らは「星」を相手の仕事でした。その毎日の営みのただ中に、この「星」は輝いたのです。皆さんの営みと歩みのただ中で、神様はあなたのための「星」を上
らせ、輝かせてくださいます。
佐世保バプテスト教会で牧師をしておられる鮫島則雄という方がおられます。この方はなんと「元パチプロ」というユニークな経歴をお持ちです。彼の話を少
しお聞きしてみます。「ある企業内各種学校を卒業した私は、奨学金返済のために、その企業に入社したのですが、どうしても仕事に身が入りませんでした。そ
んな時、会社帰りに先輩に連れられて入ったパチンコ店の雰囲気は、私には持ってこいの世界でした。ある日、『これは楽勝台だ!よ〜し、この台で夕方までに
結果を出せたら、プロになってやる』と意気込んで頑張ったところ、予想以上に勝ってしまったのです。―――パチプロとしての生活が始まったのです。37歳
まで、つまり青春時代の全てをパチンコの世界で暮らす羽目になったのです。」そんな鮫島さんにも挫折が訪れます。「そんな男にも、主イエスさまの不思議な
救いの御手が伸びてきたのです。突然大スランプがやってきた―――ある時、数年に一度巡り会えるかどうかの大サービス台を手に入れ、これなら夕方までにド
ル箱十段ぐらい積んでしばらくは海釣り三昧だ、と勇んで勝負に出たのです。最初の定量個数は予想通り30分で出すことが出来ました。しかしそれから夕方ま
でどうしても増えないのです。余りの悔しさに、その台を叩き割ろうと心で思った瞬間、『明日になったら分かる…』という声が、あらぬ方向から耳に飛び込ん
できたのです。その声にはっとして冷静さが戻り、おとなしく帰宅しました。」(ブログ「ハーベスト・タイム『収穫の時』」より)博士たちに星をもって語ら
れた神は、鮫島さんにはパチンコをもって語りかけられたのです。
ところが、この博士たちの道は、いつしか行き詰まり、迷いの中にはまり込んでしまいます。彼らは、正しいベツレヘムではなく、当時のユダヤの都エルサレ
ムに来てしまったのです。それは、情報が乏しく不正確であったというのも確かですが、それと共に、それは、今までの彼らの生き方や方向性によって導かれた
ものであったと思います。彼らはきっとこう思ったのです。「王様なら、国の中心だろう、富み栄えている都だろう、きらびやかな宮殿だろう。」彼らのこれま
での居場所は、基本的に王の宮殿・神殿でした。彼らは東の国において、王たち支配階級に仕え、彼らの学問や占い・まじないの技術によってその政策や制度・
体制を正当化し、守ることによって生活の糧を受け、また多くの特権と名誉と利益を得ていました。だから、彼らの考え方・生き方は、「権力志向」「上昇志
向」「『中心』志向」でした。要するに、「『中心』を目指し、『強く』・『高く』なることを目指し、また既にそのような位置にある者たちになびき、従って
いく」、そういうものであるほかはなかったのです。
そのエルサレムで彼らが出会ったのは、彼らの道を迷わせ、その思いを鈍らせ邪魔をするような人たちでした。まず何と言っても、ヘロデ王です。ヘロデ王
は、自分の地位と権力を守るためには手段を選ばないような冷酷無残な権力者です。ヘロデは、彼らを利用して幼子イエスを殺そうとします。博士たちは、その
ための手先にされそうになるのです。また、エルサレムの住民たち、ヘロデによる今一時の繁栄と安心・安全を守りたくて、「新しい王」などはごめんだと思
い、ヘロデと共に「不安を感じ」てしまう住民たちでした。さらに祭司・律法学者たち、ヘロデから問われて、「救い主はベツレヘムに生まれることになってい
ます」と聖書を引きつつ答えたものの、自分からは決してそこに行って救い主に会おうともしない学者たちでした。博士たちは、がっかりしたと同時に、深く考
え、反省させられたことと思います。ここで出会ったヘロデ王や、エルサレムの人々は、つい昨日までの「自分」と同じではないか、そして「自分」もまた今ま
でと同じ「古い」考え方・生き方の中に留まってしまっている、だからこそこうして道を誤ってしまったのだ。
そんな彼らを再び神御自身が導かれます。彼らの上にもう一度あの星が上りました。それだけではありません。彼らには、いまはっきりと聖書を通して語られ
る神御自身の御言葉と約束が与えられたのです。「新しい王、全世界の救い主は、ベツレヘムにおられる。」彼らは喜び勇んで出かけて行きました。すると、
「見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、
家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈物をささげた。」
「非常な喜び」、大いなる喜び、私は、それは「最も大切なもの、すべてをささげて生きるに足る道を見つけた」という喜びであったと思います。私たちの一
生は、ただ一つのものです。そして、一度限りのものです。そうであるなら、私たちはその一生を、悔いのない、いやそれ以上にわたしのすべてを注いで、ささ
げて、懸けて生き抜くにふさわしいそんな道を、人生を求めているのだと思います。博士たちは、自分たちの「宝」を、今まで自分たちを支えてきたと思ってい
たものを、ベツレヘムの幼子の前に投げ出しました。それは、彼らがそのような「新しい道」をこのお方のところで見出したことを表しているに違いありませ
ん。
鮫島牧師の話の続きを聞きましょう。「あくる朝、いつものように旧約聖書を一章読み、新約聖書を読み始めました。―――全身をハンマーで殴られたような
衝撃が走ったのです。『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです』(ヤコブ4・3
新改訳聖書) 他の読者にとっては何気ない聖書の一節でしょうが、私にとりましては、力あるいのちのことばとなって飛び込んできたのです。―――この出来
事で勝負事に対する執着心は見事に消え失せ、教会に行って神さまにお詫びすること以外に生きる道はないとまで追い詰められ、郷里の教会の門を叩いたので
す。―――その祈り会で、讃美歌を歌おうとした私の口から出てきたものは讃美ではなく、号泣する声でした。『神さまごめんなさい。イエスさまごめんなさ
い』と泣きながら心の中で謝っていました。すると突然、今まで感じたことのない温かなシャワーのようなものが降り注がれてきて、石のように硬くなった私の
心を優しくマッサージし、柔らかな肉の心へと造り替えていただいたのです。」(同上ブログより)
今博士たちの前に開かれ、示され、与えられるのは、「別の道」、新しい道です。「そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道を
通って自分の国へ帰って行った。」「ヘロデの古い道」、それは救い主を殺し、神の道を閉ざそうとするものです。しかし、博士たちが選んで行く「別の、新し
い道」は、その悪のはかりごとと業を破るのです。彼らはこれからずっとこの「道」を歩むでしょう。故郷に帰ってからも、彼らの生き方は決して今までのよう
ではなかったと思います。大きくではないけれども少しずつ何かが違って、この神に近づき従って行く、そのような「道」となったのではないでしょうか。クリ
スマスの星、イエス・キリストを示し、救い主のところまで彼らを導く星。あなたのためにもこの星は上ります。ほかでもないあなたのためにこそ上って、今こ
そあなたを照らしているのです。今日あなたのために、クリスマスの星が上ります。そして、私たちを救い主イエスのものへと、大いなる喜びの道へと導くので
す。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
間もなく来たるクリスマスの祝福を心より感謝いたします。博士たちは、自分たちの生活と働きの中で「星」を見出し、その星によって、いや主なるあなた御
自身によって導かれて、幼子イエスに出会い、まことの礼拝と、新しい道とに至らされました。これからの私たちの道も、他ならぬあなた御自身が私たちを導い
てください。そしてどうか、「別の道」、救い主イエスによって開かれる新しい道、神と共にまた隣人たちと共に歩み生きる道、大いなる喜びと希望の道へと至
らせ、その歩みをお導きください。
まことの道、真理、また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。