インマヌエルの問いかけに答えて
イザヤ書第7章1〜4、10〜17節
先週は、ヨセフが、妻マリヤとその子どもを受け入れて、「われら」として共に生きることを、神の導きと助けによって決断したのだということをお話しいた
しました。その時に、この生れて来る子どもの名を「イエス」と名付けよという神の命令があったこと、そしてそのイエスにはもう一つの別名が与えられている
のだということを申し上げました。「すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめが
みごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(マタイ1・
22〜23)その「預言者」は、この「インマヌエル」という名前、またそれに込められたどのようなメッセージを、どのように語ったのでしょうか。このイエ
ス様の別名「インマヌエル」、それが最初に出て来た箇所が、今日取り上げましたイザヤ書のここなのです。
「クリスマス」と言うと、私たちはよくこんなイメージを浮かべます。「うきうきする気分、暖かい家、楽しいおしゃべり、わくわくするプレゼント、ほっと
できる満ち足りたひと時」。ところが、このクリスマスを指し記す「インマヌエル」という言葉は、それとは全く違った状況の中で語られました。その中へと、
「問いかけ」をもって、もっと強い言葉で言えば「挑戦する」ようにして、この神の言葉は来るのです。それは戦争の噂と不安の渦巻く時、生々しいこの世の現
実のただ中へであったのです。今から二千七百年も前のユダの国、今でいうとイスラエルが舞台です。イスラエルの国はもう全盛期とはほど遠い衰えの道を進ん
でいました。そもそも、国が二つに分裂し北のイスラエルと南のユダになってしまっていました。
そこに恐ろしい試練がやって来ました。世界征服をねらう北の大国アッシリアが歴史に登場して来たのです。さあ、どうするか。人間的・常識的に考えれば、
道は「二つに一つ」です。強い相手に、弱い国が連合して戦うか、それともあきらめて強い国の子分となり「それでも生き残ればいいさ」と生きるのか。ユダの
兄弟国北イスラエルは、束になって戦うことを選びました。北隣の国スリヤなどと同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしたのです。それで、このユダの国に
も「仲間に入らないか」と持ちかけてきたのでした。
ユダの王アハズは迷っていました。彼はどちらかと言うと、強いアッシリアになびいていこうかなと思っていたのです。それで、同盟の申し出を断りました。
さあ大変、怒った同盟軍は、ユダの都エルサレムを責め囲んだのです。そこでこう語られているのです。 2「時に『スリヤがエフライム(北イスラエル)と同
盟している』とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。」彼らは、もう自分たちを救うものは大きな
強い国アッシリアしかない、と思うようになっていました。もう何が何でもこの方向・この道を行くしかないと、なだれを打つように走り始めていたのです。皆
さん、これがクリスマスの言葉が語られるべき状況です。それは、まさにこの世の争いと葛藤と不安の真っ只中です。そこでは「力と常識と計算しか通用しな
い」と思われている、心は木々のように揺れ動き、生き方は不安と恐れに駆り立てられて、自己中心となり他の人を顧みることもなく、誰も彼も我を忘れてあれ
これと走り回って、でもどこへ行くのか全く分からない、そんな状況、そんな世の中なのです。
そのような世の中と、そのような人々に向かって、今神の言葉は来るのです。預言者イザヤが神によって、王アハズのもとに遣わされるのです。その時王は、
都の貯水池と水路を見ていました。これから来るであろう戦いに備えて、最も大切と思われる水の補給路を確認しようとしていたのです。この世的に考えるなら
ば、彼は有能な知恵ある王でしょう。しかし、そこにこそ落とし穴があったのです。このことを示すためにこそ、預言者イザヤはそこで王と出会わなければなり
ませんでした。
イザヤは王に語ります。4〜7「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマルヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りの
くすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。スリヤはエフライムおよびレマルヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、『われわれはユ
ダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、タビエルの子をそこの王にしよう』と。主なる神はこう言われる、このことは決して行われ
ない、また起こることはない』。」今、あなたを攻め、脅かしているアラムと北イスラエルの二人の王は、あなたを愛し守っている神の前に取るに足らない「燃
え残りの切り株」のようなものだ。だから、彼らを恐れないで、この神をこそ信頼しなさい。これは暗に、だからいかに人間的に強かろうと、神でないアッシリ
アの力にも頼ってはならない、神にあって中立を貫けという勧めをも含んでいるのです。しかしアハズ王は、このイザヤの言葉を軽んじて信じませんでした。あ
まりに政治的現実を知らない非常識な理想論のように感じたからです。
それならばと、恵み深い神はさらにイザヤによってこう提案されます。「主は再びアハズに告げて言われた、『あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府
のように深い所に、あるいは天のように高い所に』。」「そんなに信じられないのなら、信じるためのしるし・証拠を求めてごらんなさい。わたしはそれを与え
よう。どんな所に、どのように求めても、わたしはそれを与えよう。なぜなら、わたしはあなたの神だからだ。」しかし、アハズ王はこのような答えを返しまし
た。「わたしはそれを求めて、主を試みることはいたしません。」いかにも信心深そうな答えですが、王の本音は別にあります。「わたしは、神を信じるための
しるしなどはいりません。アッシリアの人間的な助けで間に合っています。むしろ、そちらの方が確かで、頼りになると思います。」
これほどの頑固、これほどの不信に対して、神はどうされるのでしょうか。神は今こそしるしを与えてくださるのです。信仰へと決断できないアハズ王、信心
深そうな顔をしながら実は人間的な力と助けに頼ろうとするアハズ、しかしそんなアハズと彼に代表されるユダの民に向かって神はなおも一方的に恵みと救いの
しるしを与えようとしてくださるのです。それこそがこの「インマヌエル」の言葉だったのでした。それは、アハズだけではない、私たちすべての人間に対する
「真っ向勝負」の語りかけ、根本的な「問いかけ」の言葉、そして「挑戦」の言葉なのです。「そこでイザヤは言った、『ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人
を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもっ
て男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。』」
神はこう言われます。「あの女の人を見よ。」この「おとめ」とは誰でしょうか。この言葉はよく「処女」という意味に取られますが、元の言葉は必ずしもそ
うではなく、むしろ一般に「結婚している若い女性」を指すようなのです。それは、きっと王も預言者イザヤもよく知っていた女性だったと思います。王の妻
か、預言者の妻か、あるいは二人が話していた所をふと通りかかった女の人かもしれません。いずれにしても、「あの女の人」と言えばすぐわかったのです。そ
の人はお腹に子どもを宿していて、もうすぐその子が生まれそうでした。その子が、「インマヌエル」「神、われらと共にいます」ということのしるしとなる。
なぜならば、こう言われます。「その子が悪を捨て、善を選ぶ事を知ることになって、凝乳と、蜂蜜を食べる。それをこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前
に、あなたが恐れている二人の王の地は捨てられるからである。」その子が成長して物心ついて善悪の区別ができるようになるまで、だから決してそんなに長い
年月ではありません、数年のうちのことです。その短い間に、王アハズよ、あなたがたが恐れている二人の王は、神によって倒されてしまうのだ。こうして、こ
れから生まれて来る赤ちゃんは、「インマヌエル」、「神様が私たちと共にいてくださる」ということのまぎれもないしるしとなるのだ。しかしもし信じないな
らば、このしるしをアハズが拒否するならば、それは救いではなく、むしろ災いそして裁きとなるのだ。あなたが頼みとしたアッシリアが、あなたの敵となって
攻め込んでくるのだ。
この子の名前は「インマヌエル」、それは神様の私たちへの問いかけであり、また挑戦です。「神我らと共にいます」、あなたはこれを信じるのか、それとも
信じないのか。「インマヌエル」、それはイエス・キリストを指し示す言葉です。「神我らと共にいます」、本当に神は私たちのところに来られました、私たち
と全く同じ人間イエスとなって。イエスは「しるし」以上の方です。「神が我々と共に」という現実そのものを私たちにもたらし、与えてくださったのです。
それはどれほどでしょうか。主イエスによって、神はどれほど私たち人間と共にあろうとしてくださるのでしょうか。それは「どこまでも」です。パウロはこ
う書いています。「キリストは不信心な者のために死んでくださった。」「不信心な者」、それはあの王アハズであり、そしてこのわたしであり、あなたなので
す。その信じない者の罪を負って、イエス・キリストは十字架に死に、私たちのすべての裁きと呪いを引き受けて「陰府にまで下った」のです。また、キリスト
は私たちを縛り付ける死と罪に勝利して復活し、「天にまで」昇られたのです。本当に「陰府から天までどこにでも、そしてどこまでも神、我らと共にいま
す」。ヨセフは、この神の語りかけを聞いて、「われらとして共に生きる」ことを選び、決断し、踏み出しました。
「インマヌエル」、この神様の問いかけと挑戦に応えるというのは、どういう生き方なのでしょうか。「私が歩んでいる止揚学園でも―――クリスマスには静
かな礼拝を守っています。―――昨年は『桃太郎』の劇をしました。その劇の中に『鬼を退治しよう』という台詞があります。知能に重い障害をもった仲間の克
子さんはいくら練習をしても、それが言えず、『鬼を大事にしよう』と言ってしまうのです。私たちは困り、皆で相談した結果、『クリスマスは戦争をしたり、
人の生命を侵す日やなく、優しい心の日なんや。台詞を“退治しよう”から“大事にしよう”にして、鬼と桃太郎が仲良くする場面に変えようや。それも止揚学
園らしくて良いやないか』―――おばあさんが桃太郎にきび団子を渡して、『このきび団子を食べて強くなり、鬼を退治しなさい』と話すところがあるのです
が、おばあさん役のきよ子さんが、『そんなん、嫌や。鬼さん可哀相』と言って、どうしてもその台詞を言ってくれません。そこで『このきび団子を鬼さんと仲
良く食べようね』と台詞を変えると、きよ子さんはニコニコ笑顔になり、明るい声で演じてくれました。知能に重い障害をもった仲間たちは、自分が現代の社会
で、人間として疎外されている悲しみ、寂しさを持っていて、(誰も切り捨てられない、仲の良い社会があったら良いなあ。鬼さんかて皆から捨てられたら悲し
いやろう)と考えたのだと思います。―――でも、よく考えれば、クリスマスはイエスさまの愛に包まれ、皆が優しい心で相手のことを思いやり、仲良くする日
です。」(福井達雨『見えない言葉が聞こえてくる』より)
以前にもご紹介した、パレスチナ人医師イゼルディン・アブエライシュさんは、イスラエル軍の不当な攻撃により、自分の三人の娘と姪を極めて悲惨な仕方で
殺され、奪われました。彼はこのことを振り返りつつ、そこに自分の使命を見出して行きました。「どうしてわたしは助かったのか。何らかの理由で、わたしは
生きるように選ばれたのだろうか。―――神を信じる者として、わたしは知られていないガザの現実や、強制移住のもたらす心痛についての真実、占領の屈辱、
包囲がもたらす息苦しさなどを世に知らしめるべく選ばれたのではないか?
今こそ、すべてのパレスチナ人とイスラエル人が平和に共存する道を見つけられるように。わたしは遺恨と報復の終わりのない循環ではなく、共存の可能性を信
じている。―――ひょっとすると、そういった試練は、わたしを中東における分断への架橋を助ける使者として強くするよう設けられていたのかもしれない。」
(イゼルディン・アブエライシュ『それでも、私は憎まない』より)
「インマヌエル」、「神我らと共にいます」、神様からの挑戦は、「神を信頼し、私たちも互いに愛を持って、互に助け、共に生きるのか」という問いかけであり、恵みによる招きなのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちすべての者を極みまで愛された神よ。
あなたは預言者イザヤを通して「インマヌエル」と語りかけ、私たちすべてに向かって、イエス・キリストによって「神我等とともにいます」と問いかけ、挑み、招かれました。「神われらと共にいます」、このことは真実であり、そして信頼するに足ります。
どうか私たちにも信仰と希望を与えて、このあなたの約束を信じて、私たちも互いに愛をもって互に助け、共に生きる冒険へと、小さい一歩、しかし確かなこ
の一歩を踏み出させてください。一人一人と私たちの教会が、あなたの御言葉と約束の証人として、このアドヴェントまたクリスマスの時期にも遣わされ、用い
られますよう切にお願いいたします。
世のまことの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。