本当に、神、このわれらと共に         マタイによる福音書第1章18〜24節

      
  クリスマスに向けて一歩一歩備えて行くアドベントの時です。私たちがそのようにしてひたすら待っているクリスマスとは何なのでしょうか。マタイによる福音 書は一言で答えます。「インマヌエル」、「神われらと共にいます」、神さまが私たちと共にいてくださるということなのだ、と。
 「神、われらと、共にいます」、この文章は三つの言葉からできています。「神」「われら」、そして「共にいる」です。ここで質問です。この三つの言葉の うち、どれが私たちにとって「難しい」と思いますか。「難しい」というのは、私たちにとって「縁遠い」とか「関係やつながりが薄い」というか、「実現が難 しい」とかいうような意味です。
 「神」でしょうか。「神さま」なんているかどうかわからないから、やっぱり「神様」が「難しい」でしょうか。でも、聖書はそうは考えていないようです。 聖書では「神様はいる」のです。「いる」と言ったら「いる」のです。そして神が「共にいる」ことも、神様にとっては最も本来的なこと、神様御自身にとって とてもふさわしいことなのです。
 そうではなく、私たちにとってなじみがあり、すぐにも手が届きそうに見える言葉、「われら」「私たち」、これこそがまさに私たちにとって難しいのだ、す ぐ手が届きそうに見えて実は実現が困難なのだということを、今日の箇所は示しているのです。私たち人間は、「われら」「私たち」として共に生きることが難 しい、実に難しい、それが今日語られ、示されている事柄です。

 それは、婚約者同士であるヨセフとマリヤが今陥っている状況です。ヨセフにとって、かつて「われら」は、何の問題もない言葉でした。いや、それどころ か、喜びと希望と、照れをもってさえ語ることのできる言葉でした。「われら、ぼくとマリヤ、私たち!」なにせ婚約中の身でありますから、あるいは「でれで れ」とした調子で「のろけ」ながら語ることさえできたかもしれません
 しかし、それを根元から揺るがすような出来事が起こりました。マリヤは彼にこう告げたのです。「わたしは、神の聖霊によって、子どもをお腹に宿しまし た。」皆さんがヨセフだとして、こう言われて、「はい、そうですか。それはめでたい、うれしい」と言えるでしょうか。ある方はこう言っているそうです。 「聖霊によって身ごもったということは、今日的な言い方で言えば、夢で身ごもったというようなもので、誰一人として信じることは出来ないだろう。もしマリ アがそういうことを言っていたとしたら、すべての人が彼女を馬鹿にし、軽蔑したに違いない。」「すべての人」どころではない、このヨセフこそがそれを信じ られず、受け入れられなかったでしょう。
 この時から、ヨセフにとって「われら」ということは、大きく揺らぎ、危機にさらされ続けてきたのです。後に彼は神の天使から「マリヤを迎えなさい」と命 じられていますが、このことがまさに今彼にはできないのです。「迎える」という言葉、その元の意味は「傍らに取る」だそうです。そこから、次のような意味 が出て来ました。「拒まないで迎える、受け入れる、認める」、「共に連れて行く」、「受け入れる、信じ受ける、同意し、是認し、従う」。「われら」として 共に生きるとは、まさにこういうことでしょう。しかし、まさにそれが今ヨセフにはできないのです。

 当時、「婚約」は、既に「結婚」したのと同じ意味合い、同じ重みをもって扱われました。その婚約中に、マリヤが婚約者ヨセフのではない子どもを宿すとい うことは、即「姦淫」の罪を意味していたと言います。そのような者に与えられる刑罰は、古くは「石打の刑」でした。けれどもヨセフは、まだマリヤを100 パーセント疑うというのでもなく、愛し続けていたのでしょう。そんな目にはあわせたくない。ヨセフにとって、この道を選ぶことはできませんでした。もう一 つの刑罰は、「公に離縁状を書いて、去らせる」というものでした。「この者はこれこれこういう不届きな行動をした」と公にに知らせつつ婚約を解消するので す。そうされたら、マリヤは社会的に葬られてしまうでしょう。これも、ヨセフには取れませんでした。
 どうすればいいのだろう、そう何日も思い悩み考えた末に、ヨセフが決めた道はこうでした。「彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決 心した」。「公に」ではありません、「ひそかに」です。「この婚約はなかったことにしよう。なかったということならば、マリヤは罰を受けず何とか生きてい けるだろう。そして、自分も傷つくことは少ない。」ヨセフにとっては、これはぎりぎりの選択であったと思います。これは、聖書が語るヨセフの「正しさ」で あり、またやさしさでもあったでしょう。
 しかし、それはもはや「われら」ではありません。マリヤはこれから「ひとり」重荷を抱えて生きていかねばなりません。婚約を解消され、人々から後ろ指を 指され、もはや何の支えも保障もない「寡婦」として、この赤ん坊と共にずっと生きてゆかねばならないのではありませんか。あるいは最悪の場合、マリヤはこ の子と共に生きない、その子を捨てるという道をすら選ぶことになってしまうかもしれないのです。ヨセフの「正しさ」はマリヤとその子を救わず、「われら」 はもはやそこにない。
 そしてヨセフもまた「ひとり」、悶々と悩み、思い巡らすよりほかにないのです。「ひそかに」しようとしていることを、誰にも相談するわけにはいきませ ん。人間の「正しさ」、やさしさは、「ひとり」を解消しないのです。それはどこまでも、「われら」を起こし、創り上げることはできないのです。それはどこ かで壁にぶち当たり、行き詰まり、どん詰まりに至るほかはないのです。

 ヨセフにとって、この「アドヴェント」は、限界と無力を感じる時であり、孤独に打ちひしがれる時であり、そのことのゆえに悶々と悩み苦しむ時でした。し かし、聖書は語るのです。まさにその時にこそ、そのヨセフにこそ、神は現われ、語りかけてくださった。「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使い が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子 を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい』。」
 「マリヤを妻として受け入れ、その胎の子を正式に受け入れてその名づけを行え」、ヨセフはこれを聞いて仰天したに違いありません。そういう選択肢だけ は、その決断だけは、彼の頭の中に全くなかったものだったからです。しかし、今神は彼に呼びかけ、語りかけて言うのです、「マリヤとその子を受け入れ、 『われら』として共に生きよ」と。神が彼に命じられたのは、「迎えなさい」ということでした。「傍らに取る」、「拒まないで迎える、受け入れる、認め る」、「共に連れて行く」、「受け入れる、信じ受ける、同意し、是認し、従う」、このことをマリヤに向かって、マリヤと共にしなさい。彼女と共に「われ ら」として生きていきなさい! 神は、私たちの「正しさのどん詰まり」で、私たちの「孤独のどん詰まり」で、何より私たちの「罪のどん詰まり」で、私たち に出会ってくださり、全く新しい道を開き、そこへと私たちを招いてくださるのです。私たちが全く考えもしなかった道、たとえ考えたとしても到底選び得な かった道において。
 でも、神はそれを「救いの道」として示し、ヨセフを招かれたのでした。なぜならば、マリヤがこの子を宿したのはただただ「神による」のであり、そして彼 女が生むであろうイエスは「その民をもろもろの罪から救う者となる」からです。「罪」とは、断絶であり、関係の破れ・崩壊です。しかし、今や神御自身がそ の子イエスによって、その罪を乗り越え、私たちと「共にあろう」としてくださるのです。罪と孤独のどん底にある私たち一人一人を訪ね、見つけ出して、その 罪を引受け克服しつつ、呼び集めて「われら」として新しく出発させてくださるのです。本当に、神は、そのような「われら」と共にあろうとしてくださるので す。だから、神にあっては、あの三つの言葉はどれ一つも決して虚しくはなく、難しくない!「神、われらと、共にいます」! 「わたしがあなたがたと共にあ る。だからあなたがたは、『われら』として、受け入れ合って、赦し合って、愛し合って、共に生きて行くことができる。」

 以前私は、大変残念に思える新聞記事を見ました。「妊婦の血液で胎児の染色体異常を調べる新出生前診断を実施している病院のグループは―――診断の実施 件数はことし四月の開始から六ヶ月間で三千五百十四人に上ったと―――発表した。―――異常が確定したのは五十六人で、うち五十三人が中絶を選択した。」 「中絶を選択した理由は『染色体異常の子どもを産み育てる自信がない』と『将来設計に不安がある』がともに21%となるなど、将来への不安が多かった。」 (「中日新聞」2013年11月23日朝刊より)そのような選択をした人たちを倫理的に裁き責める資格は私にはありませんが、これは「しょうがい」を持つ 子どもの親としては大変残念なニュースです。
 それは「われら共に」を力強く形作れない社会と政治に大きな原因があるのではないでしょうか。「自己責任」が声高に語られ、果てしのない分断をもたらし ていく社会、疑いと不信を増大させるような法律を作ることにやっきになっている政治に、その大きな責任があるのではないでしょうか。ある小説にこんな言葉 があります。「今の日本は、ハンディを持つ者が産まれてきた時、あなたはこの国では幸福に育つことはできないのよ、と親に言わせてしまう国だということ だ。―――障害児が産まれてきた時、ああ、大丈夫、ここは、あなたがあなたなりに健やかに育っていける国だから安心していいのよ、親がそう言ってあげられ る国を目指すのが本当の福祉精神だろう。―――福祉、と呼ばれた日本の精神は、産まれてきても大丈夫よ、ではなく、ここで死んだほうが幸せなのよ、という 段階でその成長を止めた。」(柄刀一『ifの迷宮』より)
 それは、私たち教会の信仰によって言うならば、「神、われらと共にいます」ということを、多くの人が知らないということではないでしょうか。「本当に神 様がこの私たちと共に生きてくださる、神によって私たちもまた困難を乗り越えて、『われら』として共に生きて行くことができる」という福音を今こそ語り示 すことが求められているということではないでしょうか。

 この「われらと共にいます」神によって、今ヨセフは動かされ、夢から覚め、立ち上がり、行動します。「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとお りに、マリヤを妻に迎えた。」それはとても大きな、そして思いきった決断でした。しかも、多くの犠牲を意味するような決断でした。
 しかし、ヨセフは後々この決断を後悔したでしょうか。「あの時、あんな道を選ばなければよかった。マリヤとイエスなんか受け入れなければよかった。」私 はそうは思わないのです。確かに、この道のゆえに、彼はその後もずいぶん苦しんだと思います。でも、彼は同時に喜びと感謝、また希望にあふれていたと思い ます。なぜなら、その共に生きる家庭の中には神の光が上から差し込んでいたからです。どんな時にも、命の危険の中にある時にも、神の守りと導きがあったか らです。また、常に神の愛と恵みがあふれていたからです。そして、自分たちも神の道とご計画に加わらせていただいたという喜びと誇りそして感謝が常にヨセ フを支えていたからです。
 「神われらと共にいます」、本当に、神、このわれらと共にいます」、この福音をしっかりと、多くの方々と共に聴くことのできるクリスマスを目指し、希望に満ちて、これからのアドベントの日々を過ごしてまいりましよう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって本当に、どこまでも、このわれらと共にいます神よ。
 あなたのこの福音を新しく、確かに、そして多くの方々と共に聴き、喜び合うクリスマスとなりますように、またそれに至る日々を心待ちに、力を尽くして準 備して行くアドベントとなりますように、どうかお導きください。教会と私共一人一人の証しと奉仕を、豊かにお用いください。何より、あなた御自身が善き御 業を成し遂げ、全うしてください。
馬ぶねに生まれ、十字架において死に、今もわれらと共に生きたもう救い主イエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。



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