神の約束を信じるからこそ
エレミヤ書第32章6〜15、41〜44節
預言者エレミヤは今、獄の中にいます。「その時、バビロンの王の軍勢がエルサレムを攻め囲んでいて、預言者エレミヤはユダの王の宮殿にある監獄の庭のう
ちに監禁されていた。ユダの王ゼデキヤが彼を閉じ込めたのであるが、王は言った、『なぜあなたは預言して言うのか、「主はこう仰せられる、見よ、わたしは
この町をバビロンの王の手に渡し、彼はこれを取る。またユダの王ゼデキヤはカルデヤ人の手をのがれることなく、かならずバビロンの王の手に渡され、顔と顔
とを合わせて彼と語り、目と目は相まみえる。―――あなたがたは、カルデヤ人と戦っても勝つことはできない。」と』。」エレミヤは語ったのです。「ユダの
国は亡びる。バビロン王がこれを攻め取る。ユダはバビロンに勝てない。それは、主なる神の御心と御手だからだ。だから、あなたがたは戦おうとはせず、バビ
ロン王に降伏しなさい。」こんな言葉を聞いて喜ぶ王や国民がいるわけはありません。ゼデキヤ王はエレミヤを迫害し、彼を捕らえ、牢獄に閉じ込めたのでし
た。こうして、神の摂理と御計画の中で、この地は奪われ、他国のものとなることが確定してしまったのです。ユダの国も、そしてエレミヤ自身も、何の希望も
ない状況、状態となりました。
しかし、そんな時、そんな状況で、驚くべき命令、メッセージが、主なる神から預言者エレミヤに与えられたのです。「エレミヤは言った、『主の言葉がわた
しに臨んで言われる、見よ、あなたのおじシャルムの子ハナメルがあなたの所に来て言う、アナトテにあるわたしの畑を買いなさい。それは、これを買い取り、
あがなう権利があなたにあるから』と。」それは、愚かな行いです。何の益にもならず、損になるだけの業です。なぜなら、その土地には、何の将来性も、具体
的な利得もないからです。それは、これから完全に蹂躙され、他国のものになるほかはない、「無益」としか言いようのない土地だからです。しかし主なる神
は、「それを買え」とエレミヤに向かって命じられるのです。いったい、なぜなのでしょうか。
預言者は、言葉だけで語るのでなく、しばしば自分の行い、振舞いによって神のメッセージを伝えることがありました。例えば、預言者エゼキエルは、何十日
も横になって動けないでいることでユダとエルサレムの囚われを告げましたし、預言者ホセアは不幸な境遇の女性と結婚することでユダとイスラエルの人々に対
する神の愛を伝えました。今エレミヤもまた、「この時に、この土地を買う」という行い、業、振舞いをもって、神の言葉、神のメッセージを伝えようとするの
です。それは、どういうことでしょうか。
「主はこう仰せられる、わたしがこのもろもろの大きな災いをこの民に下したように、わたしが彼らに約束するもろもろの幸を彼らの上に下す。人々はこの地
に畑を買うようになる。あなたがたが『それは荒れて人も獣もいなくなり、カルデヤびとの手に渡されてしまう』と言っている地である。人々はベニヤミンの地
と、エルサレムの周囲と、ユダの町々と、山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々で、銀をもって畑を買い、証書をつくって、これに記名し、封印し、また
証人を立てる。それは、わたしが彼らを再び栄えさせるからであると主は言われる。」神は、間もなくこの地はバビロンに取られるが、しかし後の日にこの地は
必ず回復され、そこで土地を売り買いするなどの取引が、そしてそれらを含む民の生活と人生が再び行われ、神による祝福と幸いがもたらされるようになる、と
語られるのです。このやがて訪れ、実現するであろう神の業を示し、証しし、告げ知らせるために、今エレミヤはこの土地を買うように命じられるのです。それ
は、悲しみと絶望のただ中に向けて語られる、神の救済と回復の約束です。
だから、預言者エレミヤは、この神の命令を信じ、その通りに行い、実際にその土地を買いました。契約を結び、印章を押し、証書を取り交わし、代金を支
払ったのです。「そこでわたしは、いとこのハナメルからアナトテにある畑を買い取り、銀十七シケルを量って彼に支払った。すなわち、わたしはその証書をつ
くって、これに記名し、それを封印し、証人を立て、はかりをもって銀を量って与えた。」彼は、この命令に込められた神の約束を信じるからこそ、このように
実際の行動と振舞い、また生き方とをもってこれに答え、これを実行したのでした。
こうしてエレミヤに与えられた神の命令と約束には、その背後と根底に、神御自身の選び取りと決断があったのだと言われます。『エレミヤの生涯』という小
説の中のエレミヤの言葉です。「わたしの眼にはユダの滅びる様子がはっきり見えた。町壁には処刑された者が吊されていた。野原には虐殺された死体が積み重
ねられたまま打ち捨てられていた。―――祈ることさえ難しい。神に対する疑惑が心に渦を巻く。やがて問いかける力も失った。―――わたしは無感動になっ
た。―――神の嘆かれる声が聴こえた。どこかで神は慟哭されておられた。その声がわたしの乾いた無感動を破った。―――よく聴くんだ、バルク、預言は生け
る神の言葉であって、おまえのいう鉄の必然ではない。もし、神がイスラエルの救済を断念するならば、それならば預言は鉄の必然ともなろう。しかし、神は断
念されてはおられない。諦めてはおられない。…神は御自身のなかで壮絶な戦いを行われている。ユダを捨てようとされる義なる神に対して、ユダを救おうとさ
れる愛なる神が激しく格闘されている。われわれが断念したり、諦めたりしてどうする。」(磯部隆『エレミヤの生涯』より)こうして御自身の中で格闘された
神は、ついに最終的・究極的な決断と選び取りをなさいました。それが、私たちの救い主イエス・キリストという方であったのです。神の決断と選びは、あの十
字架で殺されて死んだイエスをよしとし、復活させることだったのです。これによって、私たちの罪の赦しと回復、そして救いが、神の最終的選び取りと決断と
して、私たちの前にはっきりと示され、行われ、与えられたのでした。「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死
んで下さったのである。」「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのであ
る。」(ローマ5・6、8)
だから、預言者は、神の僕は、そして私たち信仰者一人一人もまた、悲しみと絶望の中でも、一つの行動、一つの生き方をするのです。それは、エレミヤが、
「『無益な、展望のない』土地を買った」ようにです。それは、この世の基準と価値観においては、やはり「無益なこと、損なこと、愚かなこと」と見えるよう
なことかもしれません。しかし、神とその救いまた約束を信じるゆえに、私たちはここに注がれている「神のまなざし」を知り、感じるがゆえに、そのように行
い、そのように歩み、そのように生きるのです。「『希望は失われていないんだよ、バルク、なお失われてはいない』国が滅び―――どこに希望があるのでしょ
うか。―――『神の眼差しだよ、バルク』『神の眼差し?』『そうなのだよ。神は残りの民に視線を注がれておられる』『残りの民は剣と疫病と捕囚を逃れて、
この地に生き残りました。神の恩恵によってでした。しかし、その恩恵も取り去られようとしています』―――『残りの民は、生き残ったというだけでは、なお
半分の恵みを受けただけなのだよ。この今の試練を耐えて、神に従い、神の民となる時、生きる生きと幸福を得る。神をそれを与えられたくて、御みずから悲し
みに耐えられながら、残りの民に眼差しを向けておられるのだよ。その眼差しこそわたしたちの確固とした希望の基ではないかね』」(磯部隆、前掲書より)
かつてガザに住んでいたパレスチナ人医師のイゼルディン・アブエライシュさんは、イスラエル軍の不当な攻撃により、自分の三人の娘と姪を極めて悲惨な仕
方で殺され、奪われました。しかしその時から、彼はこのような思いを抱き、このような生き方を始められたのです。「災いからも何か良いことが生じるとい
う、わたしの生涯にわたる信念はより強固になった。おそらく今こそ、わたしはそれを心から信じなくてはならない。―――わたしの大事な三人の娘と姪が死ん
だのだ。しかし、中東の風土病ともいえる復讐は彼女たちを生き返らせてはくれない。このような出来事の直後には怒りを感じることは重要だ。それは起きたこ
とに断固として抗議するというメッセージを伝え、人を駆り立てて社会に一石を投じさせるからだ。けれども、その後は、あえて憎しみのスパイラルに陥らない
選択をしなくてはならない。報復と憎しみを追求すれば、分別を追い払い、悲しみを増幅させ、争いを長引かせるだけだ。これを機に過去六〇年間も私たちを引
き裂いてきた手ごわい分断に、私たちが手を取り合って橋を架けることができれば、それこそがこの魂を焼き焦がすような悪から生じた善だと言えるだろう。娘
たちと姪を死に至らせしめた今回の悲劇により、私の信念はますます深まり、分断に橋を架けようとする決意は固まった。暴力は不毛で、かつ時間と命と資源の
無駄使いであることを、私は骨の髄まで身に沁みて知っているし、暴力がさらなる暴力を生むことは証明されている。―――分断に橋を架け、両国民が共存し、
ともに目標を達成するための道は一つしかない。わたしたちをゴールに導いてくれる光を見つけなくてはならない。―――わたしたちに物事をはっきりと見さ
せ、叡智を発見させる光である。真実の光を発見するには、話し合い、相手に言葉に耳を傾け、尊敬し合わなくてはならない。憎むことにエネルギーを浪費する
代わりに、目を見開き、実際に何が起きているかを発見することにエネルギーを使うべきだ。わたしたちが真実を見ることができたら、共存は可能だ。」(イゼ
ルディン・アブエライシュ『それでも、私は憎まない』より)アブエライシュさんは、この信念に基づいて、実際に様々な取り組みと活動をしておられるという
ことです。彼はクリスチャンではなく、おそらくはイスラム教徒だと思いますが、しかしこの彼の信念と活動と生き方には、あのエレミヤを動かした神の熱い思
いと眼差しが映し出され、証しされているのではないでしょうか。また、彼の行動と実践には、イエス・キリストにおいて余すところなく表され、実現され、与
えられた神の決断と選び取りが、知らずして映し出され、証しされているのではないでしょうか。「悲しみと絶望の中で、なおも土地を買う」。
私たち一人一人と教会もまた、そのように行動し、生き、歩むことを、この神、エレミヤの神、そしてイエス・キリストの神によって命じられ、ゆるされてい
るのではないでしょうか。そのように促され、押し出されるのではないでしょうか。神の救いと約束を信じるからこそ、「悲しみと絶望の中で、なおも土地を買
う」。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
あなたが預言者エレミヤに語り、与えてくださった救いと回復の約束のゆえに、彼は「無益で、希望がない」とされた土地をあえて買い取り、そのために費用を払い、犠牲を払いました。それは、あなたの救いと約束を信じるからこそでした。
そのあなたは、ついにイエス・キリストにおいて、すべての私たちのために、「愛し、赦し、救う」ということを決断し、選び取り、そして実現されました。
このあなたの選びと救いを知らされ、知り、信じるゆえにこそ、私たちも「悲しみと絶望の中でも、あえてこの土地を買う」という、この行動と生き方に連なり
たいと心から願います。どうか、そのように、今私たちを導き、助け、お用いください。この暴力と戦争、また差別と排除に満ちた世界、それゆえに憎しみと復
讐の連鎖が絶えないこの世界においてこそ、あなたの約束を信じるからこその行動と生き方、また証しをさせてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。