世々われらのすみかなる神と共に
詩篇第90篇1〜17節
今日は、すでに神様のみもとに召された方々を記念して、主なる神を礼拝する召天者記念礼拝です。この方々のご生涯を通して教えられ、導かれて、私たち皆に与えられているそれぞれの人生とその歩みについて、神の語りかけを共に聞いてまいりましょう。
今日共に読みましたこの詩篇第90篇は、特にその際立った内容として、私たち人間の命の短さ、はかなさ、また虚しさをも歌い、教えています。「あなたは
人をちりに帰らせて言われます。『人の子よ、帰れ』と。あなたの目の前には千年も、過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。あなたは人を大
水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるので
す。われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなか
におかれました。われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは七十年に過ぎませ
ん。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」「朝
は咲いていた花も夕には枯れる。人の一生もそのようにはかないと詩人は歌います。人は誕生し、少年期、青年期、壮年期を超えて、老年期を迎え、やがて死に
ます。人は生きているうちに何事かを為したいと思い、学び・働き・結婚し、家族を形成します。―――健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出
来ます。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌います。―――私たちは生まれ、活動し、死んでいきます。人生とは誕生と死の間にあ
るひと時です。」(川口通治、篠崎バプテスト教会ホームページより)
私たちは、今日共に記念し覚えている召天者の方々のご生涯を通しても、このことを経験し学んでまいりました。とりわけ私たちは、身近な人々の死を通し
て、このことを切実に経験し、痛感いたします。私事になりますが、最近私は母親を神様のもとに送りました。父親はもう六年前に既に送っていますので、これ
で両親とも見送ったことになります。ある意味では一番近い人たちの死を傍らで見てきたわけです。そうする中で、「人間というのは、こうしていつかは死んで
行くものなのだなあ」と、つくづく実感するのです。そして私自身も、来年で六十歳、還暦と言われる年齢になりました。そうしますと、ある意味では「終わり
が見えてくる」感じがするのです。そういう境遇になってみて改めて強く思いますことは、「人間というのは、ある意味で本当に虚しい、はかない存在だな、ひ
と時いるけれども、じきにいなくなってしまう、ある意味『ひと時、そこに居合わせている』だけの存在だな」と思うわけです。「その一生はただ、ほねおりと
悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」
この悟り、認識から、この詩は「大切な知恵を求める祈り」へとつながって行きます。
一つ目の大切な知恵は、このような短くもはかない私たちの人生の主は、神ご自身であるということです。「あなたは人の子をちりに帰らせて言われます、『人
の子よ、帰れ』と。」聖書の信仰においては、私たちの生と死は、決してただの自然現象でも、また逃れられない呪われた「宿命」のようなものでもない、とい
うことです。それは、誕生の初めから、その死による終わりまで、すべて私たちを創造され、存在させ、生かしておられる、主なる神の支配と導きのうちにある
のだということです。私たちの死は、「人の子よ、帰れ」と呼ばれる神の御手のうちにあるのです。
だからこそ私たちには、この「大切な知恵」を与えられる必要があります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」それ
は、単に「あと何年くらい、自分の人生が残っているか」を数えて、心し、覚悟せよというようなことではなく、むしろ私たちのすべての生涯の日々が、ことご
とく主なる神の愛の御手と御心のうちにあることを心に深く刻んで、そのような大切な時として、われらに与えられ、残され、許されている日々を数えよ、とい
うことなのだと思います。
だからこそこの詩は、単なる嘆きだけでは終わりません。むしろ、そんな私たちが神を求め、神によって助けられる道を示し、歌うのです。「主よ、あなたは
世々われらのすみかがいらせられる。山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられ
る。」私たちの生涯を与え、支え、導かれる神は、「とこしえからとこしえまでいます神」なのです。
この詩篇には、「神の人モーセの祈り」という表題がつけられています。イスラエルの民を、神の命によりエジプトから解放し、導き出したあのモーセです。
モーセに対し、かつて神はご自身のお名前を示しご自身を紹介して言われました。「わたしは、あってある者」。こうして開かれ、示された神の御名には、神ご
自身の極めて独自なな存在のあり方が表わされています。「わたしは、有って有る者」。「有って有る」、難しくも思える神様の御名ですが、今日は単純に考え
たいと思います。言葉を重ねるのは「強調」です。「食べに食べ、飲みに飲んだ」とは、「大量に度を超えるほどに、徹底的に食べ飲んだ」という意味でしょ
う。ならば、「有って有る」とは、「徹底的に有る、私は徹底的に、どこまでも有る、いる、そういう者、そういう神なんだ」ということだと思います。
そうです。この神様の御名、そして「有って有る」「徹底的に有る」神様の存在は、私たち人間の存在のあり方と比べてみると、明白にわかります。「ヤコブ
の手紙」にこのような言葉があります。「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばし
の間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」(ヤコブ4・14)これに対して、神は言われるのです。「わたしは有って有る者」、神様こそは自信を
もって、確信をもって、常に、いつまでも「わたしは有る」と断言することのおできになる方です。私たちは違います。「私はこの朝ある、生きている。しか
し、明日、いや今晩、私はあるだろうか」、そのことを確信をもっては決して言うことのできない、許されない者なのです。「あるだろう、あると思う、あるん
じゃないか、あるといいな」。しかし、神、この方こそは確かにおられます。「わたしはある」。神、この方こそ確かにおられ、何ものよりも確実に、強く生き
ておられるのです。なぜなら、このお方こそ、ただ一人、すべてのもの、全宇宙、私たちを作った方であり、すべての根源なるお方だからです。人間の権力(パ
ロも!)、この世的・人間的な様々な力(経済力、政治力、情報力、軍事力)、自然の力、そして死の力など、どんなに強くあるように見えるものも、この方に
はかないません。この方は、何ものにも打ち勝つ、その存在の力によって言われるのです。「わたしは有って有る」。
この「有って有る神」が、私たち一人一人を愛し、共にいてくださる、これが聖書が語る福音です。この「有って有る」神は、私たちのこの一時的な人生と歩
みに、徹底的に「いる」、「どこまでも共にいる、必ずいようとして共にいる」お方なのです。神はモーセを呼ばれて、こう約束されました。「わたしは必ずあ
なたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」あの神様の御名「有って有る」は、また「私はあろうとする」とも取れるそうです。
意志を伴う未来です。この神は目的と意志を持って、いようとされるのです。「私は必ずあなたと共にいる。」(12節)神は、このモーセと共にいようとする
のです。罪と挫折により、失望し、沈み込んでいるこのモーセと共にいるためにこそ、存在しようとされるのです。なぜでしょうか。愛しているから、です。愛
しているからこそ、何ものも覆せない意志を持って、神は言われるのです。「私は、必ず、どこまでもあなたと共にいる。」この神が、「世々われらのすみかで
いらせられる」のです。私たちの全生涯、その死においても、また死を越えてさえも、われらはこの神の中に私たちの「すみか」、居場所、落ち着き所を見出す
ことがゆるされるのです。
そしてこの「世よわれらのすみかなる神」は、私たちの救い主イエス・キリストの神であられます。この神の御心と道は、私たちの救い主イエス・キリストに
おいて、余すところなく表され、与えられました。「インマヌエル、神我らと共にいます。」これはイエス様の別名です。主イエスがおられる、そこに神が我ら
と共におられる。こんなひどい苦しみと死、行き詰まりと絶望の中にも、これほどの人間の恐るべき罪と悪の嵐が吹き暴れるそんな中にも、神はどこまでも私た
ちと共にいてくださる。だから、復活の主はこう語られました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」「世の終りまで」、
これは「神の国の完成まで」という意味です。この罪と死、悲しみと痛みに満ちたこの世界は、やがて必ず終わる。神がそれを終わらせてくださる。そして、神
は「死もなく嘆きもない新しい天と新しい地」とを創ってくださる。復活の主は、この大いなる約束と希望、そして目標を私たちに示し、励まし、促し、導いて
くださるのです。「いつも」、これは「すべての、どんな日々にも」という意味です。のんべんだらりとなんとなく「いつも」いるのではありません。「すべて
の、どんな日々にも」です。短いようでもそれぞれに長い私たちの人生には、「喜びの日々」がもちろんあるでしょう。しかし、「悲しみの日」、「病の日」、
「苦しみの日」また「死の日」すら、私たちにやって来るに違いありません。でも、それら「どんな日々にも」、あの飼い葉桶そして逃亡の生活から始まり、十
字架に至るまで、徹底的に私たちの罪を担いつつ、どこまでも主イエスは私たちと共におり、共に歩んでくださり、ついに勝利してくださるのです。
だからこの詩篇の後半は、神への期待と願いを祈り、歌うのです。「あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませ
てください。あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災いにあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。あなたのみわざを、あなた
のしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に、栄えさ
せてください。われらの手のわざを栄えさせてください。」この神を知るからこそ、いえ、この愛と真実の神を知らされて、知り信じるからこそ、私たちは短く
限られた人生を、「喜びと楽しみ」をもって過ごすことがゆるされ、できるのです。また、この神を知らされ信じるからこそ、私たちは「われらの手のわざ」に
よって、神の栄光に仕え、私たちの隣人と世界のために生き、仕え、働くことがゆるされ、できるのです。今日記念し覚えている召天者の方々もまた、そのよう
に生かされ、生きられたのだと確信するのです。
この「世々われらのすみかなる神」は、ついに、イエス・キリストにおいて次のような最終的・決定的・究極的な「われらのすみか」となってくださるので
す。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死
もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」(黙示録21・3〜4)この「終わりの日」「完成の日」を望みつつ、だからこそ「おのが日を数え」見据えつつ、
しかし「喜びと楽しみ」をもって、「われらの手のわざ」をもって神と隣人とに仕え、共に生き、歩んでまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
今日召天者記念礼拝に当たり、私たちは、すでにあなたのもとに召された人生と信仰の先達たちとその生涯を覚え、振り返りました。そこから、また私たち自
身の人生の経験から、私たちの生がいかに短くはかないかということ、私たちは必ず死を迎える者であることを、改めて教えられ、受け留めました。しかし、こ
の生が、そして死もまた、あなたの愛と真実の御手にあることを知らされ、だからこそ「おのが日を数える」ことをも教えられました。
このような私たちにとって、あなたこそは「世々われらのすみかなる神」であられます。そして、その「あってある」存在の力をもって、私たちを生かし、支
え、それぞれの「終わりの日」まで導いてくださいます。またイエス・キリストの愛と真実をもって、私たちと、どこまでも徹底的に共にいてくださいます。
だからこそ、私たちはこの召天者たちと共に祈り、願います。どうか、限られたこの生を、あなたの前に「喜びと楽しみ」をもって過ごし、また「われらの手のわざ」をもってあなたと、あなたが出会わせてくださる隣人とに仕え、共に生きて行けますよう導き、お用いください。
われらの復活にして命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。