神の決意の中で生かされる
エレミヤ書第30章1〜3、18〜22節
この「エレミヤ書」30章から33章は、預言者エレミヤが弟子のバルクに口述筆記で巻物に記させた言葉であると言われています。そしてこれは「慰めの書」と呼ばれているのです。
もっぱら神の裁きと滅びを語る、預言者エレミヤでした。しかし、ここから一転、救いと回復を語り出すのです。「主からエレミヤに臨んだ言葉。「イスラエ
ルの神、主はこう仰せられる。わたしがあなたに語った言葉を、ことごとく書物にしるしなさい。主は言われる。見よ、わたしがわが民イスラエルとユダの繁栄
を回復する日が来る。主がこれを言われる。わたしは彼らを、その先祖に与えた地に帰らせ、彼らにこれを保たせる。」
人々はこれを聞いた時、驚き、戸惑ったに違いありません。「いったい、どういうこと? 今までエレミヤは、『神の裁きがあるぞ、お前らは滅びるぞ』とば
かり語って来たのに、今度はいきなり救いと回復かよ。これだから、エレミヤの言葉はわからない、信用できない。」しかも、そもそもまだ裁きも災いも滅びも
起こっていないうちから、これらの救いの言葉を語ったのですから、わけがわからないのは当然です。
それは、「主なる神様の御心の重心は、救いにある」ということを、あらかじめ知らせるためだったのです。神様の御心は、「裁き」と「救い」という「二つ
の中心を持つ、楕円」のようなものではありません。神の御心には、圧倒的にただ一つの中心があるだけなのです。それは「救い」です。神は圧倒的に、イスラ
エルとすべての民の「救い」を望んでおられるのです。これこそが、神の御心の中心であり目標です。ほかのすべてのことは、この「中心」をめぐって、この
「目的」を目指してこそ起こるのです。「裁きと滅び」は起こるでしょう。「わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決して罰しないではおかない。」
(エレミヤ30・11)それは、イスラエルまた私たち人間の、「愛さない」という罪、神と人を愛さないという罪と不正と悪のために、起こらざるを得ないで
しょう。しかし、神のみ心の中心は「救い」にある。だからこそ、必ず「救いと回復」が起こるのです。
「滅びるのは神さまの裁きではありますが、それが目的ではないことを告げるためです。神さまはイスラエルを背信から救い出して、再び神さまとの契約を結
ぶことを望んでいます。22節で『こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる』と言われます。これは神さまが創造の初めから
持っていた決意です。このことばは―――毎回出てくる大切なみ言葉です。神さまのこの決意が回復をもたらすのです。回復はこの決意の証明です。私たちも神
さまの決意の中に置かれています。」(白石久幸、『聖書教育』2024年11月号より)
「神の決意」、創造の初めからの決意とは何でしょうか。どんなことでしょうか。新約聖書の「エペソ人への手紙」は、イエス・キリストへの信仰によって、
それを捉え直してこう語ります。「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごと
く、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」(エペソ1・10)「私たちも神さまの決意の中に置かれています。」「わたしたちは、御旨の
欲するままにすべてのことをなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。」(エペソ1・11)
この神の「決意」、神の思いこそが、イスラエルとその民を救い、回復させるのです。「主は仰せられる、わがしもべヤコブよ、恐れることはない。イスラエ
ルよ、驚くことはない。見よ、わたしがあなたを救って、遠くからかえし、あなたの子孫を救って、その捕え移された地からかえすからだ。ヤコブは帰ってき
て、穏やかに安らかにおり、彼を恐れさせる者はない。主は言われる、わたしはあなたと共におり、あなたを救う。」(エレミヤ30・10〜11)「主はこう
仰せられる。見よ、わたしはヤコブの天幕を再び栄えさせ、そのすまいにあわれみを施す。町は、その丘に建てなおされ、宮殿はもと立っていた所に立つ。感謝
の歌と喜ぶ者の声とが、その中から出る。―――また彼らを尊ばれしめるゆえ、卑しめられることはない。」(同30・18〜19)
それは、決して人間の後悔や悔い改め、また決意というようなものが、その救いと回復をもたらすのではありません。それらは、確かに神から求められている
ことであり、ぜひとも必要となることでしょう。しかし、それら人間の考えや行動が、救いをもたらすのではありません。そうではなく、あの神の「決意」、神
が初めから、創造の初め、いやこの世界が創られる前からさえ、神が持っておられたあの「決意」こそが、やがていつの日か必ずイスラエルを救い、また今ここ
で私たちを救い、生かすのです。
このイスラエルを救い回復させる、神の「決意」、神の思いは、一つの極めて具体的な形を取り、方法を取ります。それは、このイスラエルに、一人の「つか
さ」を立てるという仕方で行われます。この、罪に陥り、迷い、神を裏切り、お互いそれぞれを貶め、傷つけ合っているイスラエルには、彼らを教え、導き、神
のあの「目的」へと至らせるための、指導者、リーダー、「つかさ」がぜひとも必要なのです。
この「つかさ」の一つの大きな特徴は、「われらの中の一人」であるということです。「その君は彼ら自身のうちのひとりであり、そのつかさは、そのうちか
ら出る。」(エレミヤ30・21)その「つかさ」は、あえて人々と対等な者となり、私たちに共同・共感し、連帯し、共に生きるであろうというのです。そし
て「その人」の最大の特徴、その最も著しい生き方は、これです。「わたしは彼をわたしに近づけ、彼はわたしに近づく。だれか自分の命をかけてわたしに近づ
く者があろうか。」(同30・21)その「つかさ」の特徴、その生き方は、「自分の命をかけて神に近づく」ことだというのです。「自分のいのち」、自分の
立場、存在、自分の体、時間、自分のすべてを懸けて、神に近づき、神と人々との間に立ち、仲立ちとなり、執り成しをし、その民の救いと回復のために、この
民が神と共に生きるために、この私たちがお互いの間で共に生きるために、必要なすべてのことを行い、成し遂げるのだというのです。この言葉が「反語」であ
ることに注意してください。「だれか自分の命をかけてわたしに近づく者があろうか。」「あろうか。普通は、そんな者はいない。」でも、いるのです。神が用
意し、立ててくださるこの「つかさ」こそは、「普通」では決していない、決してしない、その生き方と道を選び、行い、歩んでくださるのです。
私たちは、この「反語」に似た言い方を、別の所でよく知っています。「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ
者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された
のである。」(ローマ5・7〜8)それは、イエス・キリストです。私たちは、この「つかさ」、この「自分のいのちをかけるつかさ」の実現、到来を、あのイ
エス・キリストに見るのです。私たちにとって、イエス・キリストこそ、あの神の「決心」、神の「目標」を実現するために、「自分の命をかけて」来られ、生
き、死に、そして復活された方なのです。「あなたがたは、わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」「神は天にあるもの地にあるものを、ことご
とく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」
ドイツの独裁者ヒトラーとその政権に抵抗し、投獄された牧師・神学者であった、ディートリッヒ・ボンヘッファーは、その獄中から友人にこう書き送ったということです。
「キリストが一切を復興される。・・・・エペソ書1章10節に基づく万物復興の教説は、すばらしい、そして慰めに満ちた思想だ。神は失われたものをふた
たび探し出したもうということが、ここにおいて成就することになる。ところで、そのことをパウル・ゲルハルトは、幼子キリストの口から、『すべて私がまた
持ってきましょう』と語らせているのだが、そのように単純に無邪気に表現できた者は他にいない』。パウル・ゲルハルトは17世紀ドイツのルター派の宗教詩
人ですが、これは彼のクリスマス賛美歌の一節からのものです。飼葉桶に横たえられた幼子イエスが、このように歌うのです。『愛する兄弟たちよ/あなた方を
苦しめる思いを捨てなさい/あなた方に欠けているものを/すべて私がまた持ってきましょう』。」(宮田光雄『嵐を静めるキリスト』より)
エレミヤによって語られた「神の決意」の言葉を、もう一度聞きましょう。「あなたがたは、わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」「神さまのこの決意が回復をもたらすのです。」「私たちも神さまの決意の中に置かれています。」
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
預言者エレミヤによって語られ、示され、与えられた、あなたの永遠の「決意」「目的」を、私たちも聞かされ、知らされ、与えられましたことを、心より感
謝し、御名を賛美いたします。「あなたがたは、わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」「神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリ
ストに在って一つに帰せしめようとされたのである。」
私たちと世の中の、すべての裁きと苦しみを貫いて、それらのただ中においても、このあなたの「決意」が貫かれ、この「目的」が目指されていることを知ら
され、知り、信じ、生きることができますように。この「決意」と「目的」の中心に、私たちの共なる主イエス・キリストがおられ、私たちはこのあなたの「決
意」の中に置かれ、生かされ、生きていることを、心より感謝いたします。
どうか、この福音を宣べ伝え、分かち合い、自らの生き方と行いとをもって表し示す、私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。