傷と苦しみの中から神に叫ぶ
エレミヤ書第10章17〜24節、15章18節、20章7節
神の言葉を預かって語る預言者たちは、だれも皆非常に悩み、苦しんだはずです。その神からの責任はとても重く、その託されたメッセージは大変厳しいもの
だったからです。私たちのエレミヤは、とりわけそうでした。この「エレミヤ書」は、エレミヤの苦難と涙とを切々と、また赤裸々に語っています。
もっぱら神の裁きとそれによる災いを語るエレミヤでした。「わたしは笑いさざめく人のつどいに、すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりです
わっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもってわたしを満たされたからです。」(15・17)「わたしは一日中、物笑いとなり、人
はみなわたしをあざけります。それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、『暴虐、暴虐』と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけり
になるからです。もしわたしが、『主のことは、重ねて言わない、この上その名によって語ることはしない』と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える
火の、わが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。」(20・7〜9)そして彼は今、ユダ国とその民
に対する、神の最終的な裁きを告げるのです。「主がこう言われるからだ、『見よ、わたしはこのたび、この地に住む者を投げ捨てる。かつ彼らをせめなやまし
て、思い知らせる』。」(10・18)「見よ、北の国から大いなる騒ぎが来る。これはユダの町々を荒して山犬の巣とする。」(10・22)これは、エレミ
ヤに最初から与えられていたメッセージでもありました。最終的に「北の国」から、大規模で残忍な外敵が押し迫り、ついに南ユダ王国は滅んでしまうというの
です。
こんな言葉を聞いて、喜ぶ人はいません。エレミヤの預言を聞いた人々は、皆激しく怒り、反発しました。人々の怒りと罵りの言葉、エレミヤに対する憎しみ
と呪いの言葉、それを絶えず浴びせかけられ、聞かされることで、エレミヤの心と魂は深く傷つき、痛みました。それは深くいたましい、心の「傷」であったで
しょう。人びとから拒絶され、心ない言葉や反応を受けるとき、心は深く傷つき、痛むからです。彼はこう言わずにはおれません。「わたしはいたでをうけた。
ああ、わざわいなるかな。わたしの傷は重い。」(10・19)特に王や高官などの権力者は、そうでした。彼らは実際にエレミヤに暴力を振るい、苦しめまし
た。「役人たちは激怒してエレミヤを打ちたたき…監禁した」(37・15、新共同訳)。
エレミヤの傷と苦悩は、さらに深まり、強くまた重くなっていきます。そしてついには、こんな言葉をさえ、彼は語り出すのです。「どうしてわたしの痛みは
止まらず、傷は重くて、なおらないのですか。あなたはわたしにとって、水がなくて人を欺く谷川のようになられるのですか。」私たちは、彼の言葉の率直さに
驚きます。自分にとって、神様は「水がなくて人を欺く谷川のようだ」と言うのです。旅人が渇き疲れて水を探す、すると向こうに谷川らしきものが見える、
「ああ、良かった、水があった」と思って近づいて行くと、なんとそれは枯れた谷川の流れの跡でしかなかった、「ああ、だまされた」、神様は自分にとってそ
んな方だ、と言うのです。
また後には、こんな言葉さえ出て来るのです。「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わ
たしを説き伏せられたからです。」(20・7)「わたしの生れた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。わたしの父に『男の子が、生れま
した』と告げて、彼を大いに喜ばせた人は、のろわれよ。―――なにゆえにわたしは胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか。」直
接に、「私は神様に欺かれた、だまされた」とまで言うのです。しまいには、「自分が生まれた日は呪われよ、こんなに悲しみ、辱められるくらないなら、自分
なんかこの世に生まれてこない方が良かった」とまで言い出すのです。エレミヤの苦悩と悲しみは、尽きることがありません。
皆さんは、このエレミヤの言葉をどう聞き、どう受け止められるでしょうか。「エレミヤのような人、神に選ばれた預言者でさえ、そんなふうに言うのか。人間とは弱い者だなあ。」と思われるでしょうか。
しかし今日私は、その反対だと思えるのです。これは、実はだれにも言える言葉ではない、むしろエレミヤが真摯に神に従おうとしたからこそ言える言葉、神
の使命と責任を全力で担おうとしてきたからこそ出て来る言葉ではないでしょうか。彼は、神様を信頼し、信じ切って、だからこそ神の厳しく重い、裁きと災い
の言葉を、勇気を出してあえて語ってきたのです。しかし人々の反応は、彼の予想をはるかに上回って、あるいは下回って、ひどく、厳しく、つらいものでし
た。それを見、聞いた時に、エレミヤが深く失望し、傷つき、悲しみ、傷んだのは、無理もありません。それだけ強く、また深く神を信頼し、神に従おうとした
からこそ、その失望と悲しみ、痛みは、強くならざるを得なかったのではないでしょうか。だからこそ、彼は今ここまで言うのではないでしょうか。「神様には
失望した、神様にだまされた。自分なんて生まれて来ない方が良かった。」
そして、このことは、私たちの主イエス・キリストにおいてもまた、あるいはイエスにおいてこそ当てはまり、言えることではないでしょうか。イエスもまた
叫びました、いや、イエスこそこう叫ばれたのです。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです
か。」イエスは、あの十字架で、今絶望の叫びを神に向かって上げているのです。「わが神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのか」と。しかしこれは、イ
エスだからこそ言える、語れる言葉なのだと思います。キリスト教会では、イエスを「罪なき方」と信じ、告白します。その意味は、「神と全く正しい関係に
あった方」ということです。しかし、私たちは皆、違うのです。私たちは皆、なにがしか、神への不信、神に対する「ひねくれ」の中に生きているのです。それ
が、私たち人間の罪なのです。私たちは「神を信じる」と言いながら、実は本当には信頼していない、どこかで別のものやことを信じ、ひそかに神を裏切ってい
るのではないでしょうか。そんな私たちが、思いもかけない苦しみに出会ったとたん、「わが神、我が神、どうしてわたしを」などと、どの顔で語ることができ
ましょうか。
しかし、イエスは、イエスお一人だけは、違います。イエスは、イエスこそは、ここに至るまでに、いつも、絶えることなく神を信頼し、神に従い、神と共に
歩んで来られました。このイエスだからこそ、今間違いなく神に向かってこう言えるのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのです
か」。これは、このイエスだからこそ、本当に語ることができる言葉なのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。そして、そ
れは決して私たちが語ることのできない言葉なのです。それを、まさにイエスが代わりに、私たちに代わって、そのようにして私たちの不信と不真実の罪を問い
訴え、しかし担いつつ、私たちのために問い、叫んでくださったのです。だから、このイエスの叫びと問いは、私たちの救い、またいやしとなるのです。「『わ
が神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という『僕』の叫び。ああ、この叫びが『わたし』の、『われわれ』の叫びでなくて、どうして
『僕』が『いやし』になるであろうか。世の不条理に打ちのめされ、苦しみ泣く者が、いつかはどうしても『神』に向かって叫びたかった、叫ばねばならなかっ
たあの叫びを、他ならぬあの『僕』が十字架上で言ってくれた。我々に『かわって』、我々の『ために』言ってくれたのである。ここに『いやし』と慰めがあ
る。我々に先立って『人に捨てられ、病を知り、忌みきらわれ、侮られた』僕であるからこそ、我々の『いやし』がある。」(関田寛雄、『説教者のための聖書
講解 イザヤ書』より)だから今私たちも、私たちなりに神に従おうとする信仰の中で、それぞれに率直に、また大胆に神に訴えることが許されているのではな
いでしょうか。。私たちも、神様に向かって、自分の苦しさや痛みを、もっと正直に、また思いきって祈ってもいいのです。
このエレミヤの傷と苦しみの中からの叫びを、聞いてくださる神がおられる。私たちの自分勝手で無責任かもしれない失望と嘆きの声を、でも聞き取ってくだ
さるイエス・キリストの神がおられる。だからこそ、はなはだしい苦しみの中で、エレミヤの心は神に向かって動き始めます。「主よ、わたしを懲らしてくださ
い。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。」(10・24)。「懲らす」は、『箴言』などでも多く用いられており、そこでは「さとしを与え
る」と訳されています。神との関わりの中で「さとし」と洞察を与えられ、現実に働く神の知恵を知ることです。祈りの中で、彼は自分自身省みるところがあっ
たのかもしれません。困難な状況で無理もないとは言え、神の召命に対して揺れ、使命を十分に果たしていないとの思いもあったでしょう。また世と人々の不真
実と罪を自分のこととして受けとめ、彼らと神の前に連帯し、彼らへの裁きと苦しみを自分自身の痛みとして主の裁きを共に受けていくという生き方の中での言
葉でもあるでしょう。
苦しむエレミヤに向かって、後に神は約束してくださいます。「彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなた
を助け、あなたを救うからである、と主は言われる」(15・20)。このような神の愛に答えて、エレミヤもまた少しずついやしと再生への道を歩み出すこと
ができるのです。「まことに、これは悩みである。わたしはこれを忍ばなければならない」(10・19)。「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によ
るのではなく、歩み人が、その歩みを、自分で決めることのできないことを。」(10・23)「主よ、わたしをいやしてください。そうすれば、わたしはいえ
ます。わたしをお救いください。そうすれば、わたしは救われます。あなたはわたしのほめたたえる者だからです。」(17・14)「主に向かって歌い、主を
ほめたたえよ。主は貧しい者の命を、悪人の手から救われたからである。」(20・13)こうして、エレミヤのいやしと再生の道は、神によって始まって行く
のです。
「傷と苦しみの中から神に叫ぶ」、私たちにもこのこのことが、この道が、この生き方が、エレミヤの神、イエス・キリストの神によって開かれ、招かれ、導かれているのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
エレミヤの心の底からの痛みと苦しみと叫びを、あなたは計り知れない愛と真実をもって聞き、受け止め、受け入れてくださいました。また、イエス・キリス
トが私たちに代わり、私たちのために、真実の言葉、嘘偽りのない訴え、あなたに信頼し従い通したからこその叫びを、あの十字架でなしてくださいました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
このゆえにこそ、私たち一人一人もまた、私たちの傷と痛みの只中から語り、訴え、叫ぶことができます。どうかわれらの訴えを叫びを聞き取り、受け止め、
受け入れてください。そうしてそこから、私たちのいやしと再生の道をも、開き、招き、お導きください。私たちと教会もまた、神の僕、隣人の善と命と平和の
ための奉仕者・働き人としてお用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。