私たちに問いかける神
エレミヤ書第6章9〜17節
先週は、一人の「若者」に過ぎなかったエレミヤが、突然主なる神様から、預言者としての召命、使命と働きを受けたということをお話ししました。そこから、
彼の預言者としての活動が始まっていくわけですが、最初期のエレミヤの預言は、神様が予告された通り、「抜き、壊し、滅ぼし、倒す」(1・10)ものでし
た。南ユダ王国の人々の生き方、社会のあり様を厳しく告発し、批判したのです。
エレミヤは語り出します。「万軍の主はこう言われる、『ぶどうの残りを摘みとるように、イスラエルの残りの民をのこらず摘み取れ。ぶどうを摘みとる人の
ように、あなたの手をふたたびその枝に伸ばせ。―――見よ、彼らの耳は閉ざされて、聞くことができない。見よ、彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばな
い。それゆえ、わたしの身には主の怒りが満ち、それを忍ぶのに、うみつかれている。」エレミヤの心は、神様の御心と一体化してしまったかのようです。イス
ラエルの人々は神の言葉を聞こうとせず、喜ぼうともしません。それに対する神の怒りはエレミヤの心に入り込んで、あふれんばかりになったのです。彼はその
怒りを自分の中に留めて置くことができないまでになり、ついに語り出したのでした。「『それをちまたにいる子供らと、集まっている若い人々とに漏らせ。夫
も妻も、老いた人も、年の非常に進んだ人も捕えられ、彼らの家と畑と妻とは共に他人に渡る。わたし(神)が手を伸ばして、この地に住む者を撃つからであ
る』と主は言われる。」
それは、「身分の低い者から高い者に至るまで」(6・13)と、全階層にわたります。しかし、「預言者から祭司に至るまで」という人たちが、とりわけ厳し
く批判され、訴えられます。今で言うなら政治家、高級官僚、大企業を営む人たちと言ったところでしょうか。指導的立場にある者たちの罪は一層重いのです。
彼らの罪と悪は、大きく分けて二つあります。
第一の彼らの罪は、「利をむさぼる」ことでした。「むさぼる」と言うと、何か見るからに「醜悪」に見えるものだけをイメージするかもしれませんが、「ス
マートなむさぼり」もまたあるのです。要点は、「自己利益のあくなき追求」というところにあります。自己利益のあくなき追求は、神への背信(偶像崇拝)、
また隣人への不正義、憐れみの欠如につながります。自分の利益をあくまで求める人は、自己の願望・欲望に合わせた「偶像」(偽りの神々)を作り上げ、他者
の苦しみや窮乏に無関心となり、彼らを踏みにじってもためらわなくなるからです。
さらに致命的な第二の罪は、「平和がないのに、『平和、平和』」(6・14、新共同訳)と語ることです。口語訳は、「平安がないのに、『平安、平安』」
と訳していますが、私はここは「平和」の方が良いと思うので、こちらの訳を使います。それは、言葉の意図的な誤用、濫用です。実態や本当の意図・狙いを隠
すために、わざと反対の美しく、耳障りの良い言葉を使うのです。2007年3月10日の西日本新聞に、一つの全面広告が載りました。それは、私たちバプテ
スト連盟の教会が深く関わっている、福岡にある「久山療育園」、重度心身障害者施設が主となって載せたものです。ここには、こう書かれています。「『わた
しは生きています』、『"生きるに値しない生命"と言わせない世の中に」、そしてこう語られているのです。「障害者自立支援法は、自立と共生を妨げる」。
「久山療育園」を支える「バプテストコロニー友の会」発行の『いのちに優劣をつけないために―――障害者自立支援法を問う』というこのパンフレットには、
この法律によって、障害がある人が生きる現場ではどんなことが起こっているかが語られています。「『地域でみんなが共に生きるために』という言葉は大変美
しいんですけれども、内容は過酷であります。―――そのためにこのしょうがい者を抱えた家庭が将来の生活の不安のために、親子心中をするというケースが各
地で起こりつつあります。」そいう意味で、障害者の自立を阻害し妨げているのに、名前は「障害者自立支援法」、まさに「平和がないのに、『平和、平和』」
なのです。自分たちの現状、厳しい現実に真摯に向き合わず、言葉に対する真実さを欠き、偽りと偽善を言葉によって塗り替え、ごまかそうとしているのです。
しかし同時に、主なる神は、ご自身の予告通り「あるいは建て、あるいは植え」る方、罪人を命と救いへと導き、至らせようとする方でもあられます。神は、
告発と裁きだけでなく、イスラエルに対する愛と真実のゆえに常に恵みによって呼びかけ、悔い改めと新生の道を求めてくださるのです。「あなたはわかれ道に
立って、よく見、いにしえからの道につき、良い道がどれを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。」(6・16)。「分かれ
道」は、「さまざまな道」(新共同訳)、「四つ辻」(岩波訳)、「十字路」(協会共同訳)などとも訳されています。イスラエルが、どの道を選び、どのよう
に生き歩むかが、今ここで問われているのです。「さまざまな道」とは、「昔からの道」、イスラエルの民が昔から歩んできた道でもあります。神に対して正し
く応答した道もあれば、神に離反した道もありました。それらを振り返り、正しい道を選び取れとの招きなのです。
聖書の神は「問いかける神」です。聖書において主なる神は、「私たち人間の願望を聞くだけの神」ではありません。それがまさに「偶像」なのです。「偶
像」とは、本質的に、私たち人間の願望や欲望を、「神々」という形で具現化したものです。「商売繁盛」「入試合格」「子孫繁栄」「五体満足」。そうした
「願望」「欲望」を、それらの「神々」は体現し、それを叶えることを使命とし約束しています。しかし聖書の主なる神は、むしろ「私たちに問いかける神」で
す。神様は、確かに私たちの願い、求めにいつも耳を傾け、それを常に真摯に聞いていてくださる方です。しかし、それ以上に神は、私たちにいつも、愛をもっ
て、適切な問いを投げかけてくださいます。「あなたはどこにいるのか」(創世記3
1:9、口語訳)。「ここで、何をしているのか」(列王記上19:9、13)。「昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。」(エレミヤ
6:16)。神様はまた、私たち一人一人にも、幼い者にも、若い者にも、年老いた者たちにも、個人的に様々な問いかけ、質問をしておられるのではないで
しょうか。「あなたにとって、一番大切なものは何ですか。」「あなたは、わたしがいつもあなたと共にいることを信じますか。」「あなたは、何をして、どん
な生き方をする、どんな人になっていきたいですか。」。神様の切なる願いは、私たち人間が真の「幸い」と「安息」を得ることです。だから、私たち人間に
は、その神の問いかけに応答する責任があります。
主なる神は、この問いかけを、今預言者エレミヤによって高く鳴り響かせられるのです。「わたしはあなたがたの上に見張り人を立て、『ラッパの音に気をつ
けよ』と言った。」(6・17)この言葉は、一般的に「見張り」が敵の襲来をいち早く察知し警告の「角笛を吹く」ように、預言者もまた民のために警告を発
し、神の言葉を告げるとの意味です。その「角笛の響き」を待ち、聞き取り、生き方を変えなさいとの呼びかけです。しかし、南ユダ王国の人々の反応は、悪く
頑ななものでした。「しかし彼らは答えて、『われわれはその道に歩まない』と言った。」「しかし彼らは答えた、『われわれは気をつけることはしない』。」
(6・16〜17)。これを見、聞きますと、神が悪意をもって人を裁き、罰を下すのではないことがわかります。むしろ、私たち人間の方が、悪い決断と応答
によって、自らを罪に定め、罰へと追いやってしまうのです。
しかし神は、あくまでも人の悔い改めと救いを求めらる方なのです。だからこそエレミヤは引き続き語らねばならず、神と人々のためにあえて苦しまなければ
ならないのです。彼は、イスラエルの民の罪とその裁きのゆえに受けなければならない傷とを思って、まさに「我が事」として嘆き悲しみ、叫ぶのです。「わが
嘆きはいやしがたく、わが心はうちに悩む。―――『刈り入れの時は過ぎ、夏もはや終った。しかしわれわれはまだ救われない』。わが民の娘の傷によって、わ
が心は痛む。わたしは嘆き、うろたえる。―――どうしてわが民の娘は、いやされることがないのか。ああ、わたしは頭が水となり、わたしの目が泉となればよ
いのに。そうすれば、わたしは民の娘の殺された者のために昼も夜も嘆くことができる。」(8・18〜9・1)
このエレミヤの姿、このエレミヤの生き方と道、その悩みと悲しみと苦しみの生涯、それこそが、私たちにあのイエス・キリストを思い起こさせるのです。
『エレミヤの生涯』という小説があります。その終わりに、エレミヤの生涯の最期が描かれています。「エレミヤの瞳孔が開き、唇を動かすこともできなくなり
ました。私はエレミヤの手を擦っていました。かなりの長い間、意識を失った状態でしたが、再び意識を取り戻し、かすかな声で語ろうとします。―――『わた
しは・・・・彼らの主であったが・・・・彼らはわたしの契約を破った・・・・と言われる。・・・・しかし・・・・かの日の後に・・・・わたしがイスラエル
の家と結ぶ契約は・・・・これである。――――すなわち・・・・わたしは・・・・わたしの・・・・律法を・・・・彼らの中に・・・・置き・・・・その心
に・・・・書きしるす・・・・わたしは・・・・彼らの・・・・神・・・・となり・・・・彼らは・・・・わたしの・・・・民となる』―――主なる神はやがて
新しい契約を立てられます。その契約に加わることによって、罪がゆるされ、心の内側から神の民となることが出来るのでございます。―――いつしか、主なる
神はこの契約を果たすためにわれらのいる低き所まで降り来たり、ご自身が血を流すごとき痛みを甘受されて、新しい契約をお建てになるでございましょう。エ
レミヤはその神の痛みをもよく知った人だったのでございます。」(磯部隆『エレミヤの生涯』より)
「問いかける神」、それが私たちの主なる神、イエス・キリストの神なのです。私たちの幸いと平和のために、神は今日も私たちに尋ね、問いかけておられま
す。救い主、神と私たち人との仲保者、仲立ち、「まことの道」架け橋である方のゆえに、私たちもこの神に、私たち自身の最大の誠実と忠実とをもって応答
し、またその答えにふさわしく、共に生き、歩んでまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
預言者エレミヤによって御言葉を語り、ご自身を表わされたあなたは、「問いかける神」であられました。人々の、私たちの自己中心的な願望や求めを、その
まま聞き叶えるのではなく、むしろ私たちに問いかけを発することによって、私たちをご自身と共に生きる道へと引き戻し、私たちの真の幸いと平和を与えよう
としてくださる方でした。
今あなたはイエス・キリストによって、私たち一人一人にとって、まさにそのような方として現われ、ご自身を示し、与えてくださいました。主は今も十字架
を担って私たちの前を歩みつつ、私たちに問いかけて言われます。「あなたがたはわたしをだれと言うか。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨
て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」どうか、この問いかけと招きに、信仰と愛とをもって答えて行く、私たち一人一人また教会としてくだ
さい。そして、あなたと、あなたが出会わせてくださる隣人一人また一人と共に生きて行く道に歩ませてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。