すべてを超えた神の呼びかけと使命                      エレミヤ書第1章1〜10節
   
      
  今日から預言者エレミヤの生涯を共にたどって行きます。今日はその最初、預言者エレミヤの召命記事です。「召命」というのは、「使命に召される」と書きま す。旧約聖書には多くの預言者が登場しますが、そのすべての人に「召命」の出来事があります。神様が、その預言者として選んだ人に呼びかけ、預言者として の使命を与えることです。そもそも「預言者」とは、「言葉を預かる者」と書きます。神様の言葉を預かって、神様の代わりに人々に語り告げるのがその使命な のです。

 そういうわけで今日から預言者エレミヤの生涯をたどるわけですが、エレミヤとはそもそもどんな人であったのでしょうか。預言者エレミヤは、「ベニヤミン の地のアナトテの祭司ヒルキヤの子であった」(1・1)と言われています。祭司の家に生まれたのです。幼いころから、主の言葉と主に従う生活とに慣れ親し んでいたのでしょう。しかも、後に彼は自分のことを「若者に過ぎない」と語っています。この「若者」は「3歳から17歳を指す言葉」だそうです。本当に 「若者」ですね。
 このエレミヤに、突然主なる神が語りかけられます。「主の言葉がわたしに臨んで言う、『わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、 あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした』。」ここには、驚くべき言葉があります。「わたしはあなたを母の胎につ くらないさきに」、また「あなたがまだ生れないさきに」、「あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」というのです。それは実に意外、驚天動地 とも言うべき言葉です。初めにエレミヤが「祭司の家の生まれ」だと申し上げましたが、そんなことは全く関係ないのだというのです。それは徹底しています。 なにしろ「母の胎につくらないさきに」なのですから。皆さんは、「母の胎にいる時」に、何か考えることができましたか、あるいは何かすることができました か。そんなことはあり得ないですよね。また今の時代でしたら、「この人の遺伝子はこうで、こういう能力に優れることがあり得る」とか言われ得るのかもしれ ませんが、そんなことさえ全く関係ない。なにせ「母の胎につくらないさき」なのですから。神様がエレミヤを呼ばれたのには、彼の何もかも関係ないのだとい うのです。彼の意志、信仰、能力、願いも、何もかも超越するような仕方で、神はエレミヤを選び立てられたのだというのです。言い換えれば、それは「ただ恵 みのみ」によっての任命であったのです。
 それは、エレミヤだけが特別だというではなく、本質的な意味において私たち一人一人も全く同じではないでしょうか。イエス・キリストの使徒パウロは、自 分のことをこのように語っています。「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが」(ガラテヤ1・15)。また、 「エペソ人への手紙」1章にはこのような言葉さえあります。「天地の造られる前から、キリストにあってわたしを選び」(エペソ1・4)。私たち一人一人も また、「ただ恵みによって」神から呼びかけられ、神から召されています。それは、私たちの「何か」によるものでは決してあります。私たちの生まれた家族環 境、地域、生い立ち、性格、能力、得意不得意、好き嫌い、そういうもの一切と、まるっきり何の関係もなく、神様は私たちを選び、呼びかけ、導かれるのだと いうのです。私たちの考えや計画を超えて、私たちの能力や弱さ・苦手意識をも超えて、神は私たちを愛し、召し、遣わしてくださるのではないでしょうか。
 この「ただ恵みのみ」によっての任命、これこそが、後のエレミヤの預言者活動のすべてを支え、導くものでした。とりわけ彼の挫折や危機のの時にあって、 彼を根底から支えるものでした。彼がたとえ、「うまく行かない、私の言い方ややり方が悪いのかな」と思ったとしても、神は言われます。「いや、それはあな たの能力や適性とは、全く関係ない、わたしがただ恵みによってあなたを選び、立てたからだ」。

 しかし、神から真に召命を受けた者の常として、エレミヤは恐れ、ためらいます。「ああ、主なる神よ わたしはただ若者に過ぎず、どのように語ってよいか 知りません。」(1・6)。でもそれは、あの神の超越的な呼び出しに照らすならば、全く成り立たない抗議・言い訳のはずです。何せ、「母の胎につくらない さきに」だったのですから。彼が今何歳だろうが、彼がうまく話せまいが、何も関係ないはずです。
 それでも主なる神様は、彼の気持ちに寄り添い、エレミヤに具体的な助けを約束してくださいました。「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だ れにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない。わたしがあなたと共にいて、あなた を救うからである」(1・8)。さらに、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた」(1・9)。神が彼の口に授けてくださる言葉を、そのまま語ればよい のです。さらに、その言葉には「権威」があります。「わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て」とありますが、この「上に立てる」を、別の聖 書の翻訳では「権威を与える」としているのです(新共同訳)。自分の言葉の力・表現力・経験に頼るのでなく、神がそのみ言葉に託しておられる「権威」に基 づいて語ればよいのです。

 では、そうして神から与えられた、エレミヤの使命とは何でしょうか。エレミヤが託されたのは、「諸国民、諸王国に対する権威」(1・8、新共同訳)でし た。神に召され、派遣される人は、その視野と活動範囲が、自分のものを超えて、はるかに大きく広げられるのです。その人は、ただ個人的な自分や、せいぜい 家族とか周りの人への関心や関係を超えて、「万民、万国」が、その人の視野と関心へと入って来るのです。
 そしてその働きは、まず「あるいは抜き、あるいは壊し、あるいは滅ぼし、あるいは倒し」とあります。それは、まずは否定的なものでした。「抜き、壊し、 滅ぼし、倒し」。彼は自分の好みや願望を超えて、罪の告発と裁きを語られなければなりません。「あなたを、あなたがたを、神は抜き、壊し、滅ぼし、倒す」 のだ、と。しかし同時にそれは、「あるいは建て、あるいは植え」るためです。人間の思いや自分自身の失望・絶望を超えて、神の「建て、植える」働き、生か し救う働きを語ることがゆるされるのです。

 私たち一人一人とその教会もまた、「ただ恵みによって」、神から呼び出され、神によって立てられています。それはまた同時に、神によって「使命」へと遣わされ、送り出されるためです。
 以前中部地方連合で「防災セミナー」の講師としてお呼びした、川上直哉という方がおられます。東北の町宮城県石巻の教会で牧師をしながら、東日本大震災 の被災地支援をづっと行ってきた「東北ヘルプ」という団体の責任を担っている方です。この方が、こんなふうにおっしゃっています。「そうしたことを考え、 先達の貴い試行錯誤に学びながら、それを批判しながら、私は、一つの答えを得て、自分の試行錯誤を続けています。それは
 『地域に奉仕するために、教会にしかできないことに、ひたすら専念する』
 『教会の持続可能性を得るために、教会にもできることは、なんでもする』
ということでした。―――まずその最初に『教会にしかできないこと』があります。それを見つけなければならない。その際、大事にするべきは、その場で出 会った『その人』『小さくされた人』を大切にする。政治や経済や社会の事柄を措いてでも、とにかく、出会った人を『神さまのお子さま』と思って、大切にす る。そうしたことを教会の中心に置く。『教会とは、他者のための教会である』と―――そんなことを、考えています。―――私はいつも、自問し、自戒してい ます。実際に低線量被ばくの中にいる人と、どれだけ出会っていっただろうか。あるいは、基地問題でもそうですよね。その基地と共に生きる人々・基地に関 わっている人たちと、どれだけ出会っただろうか。同じイデオロギーを持つ人たちとは出会ったかもしれない。自分たちに寄ってきてくれる人たちとは出会った かもしれない。だけれども、自分たちとはおよそ毛色の違う、けれどもとにかく『踏みつけられている人たち』と、どれだけ出会ったか。その人たちと交わるこ とで、仲間から後ろ指をさされるようなこともある。そうした『他者』と、出会って行っただろうか。」(川上直哉編著『私の救い、私たちの希望』より」
 すべてを超えた神の呼びかけと使命、それがまた私たちとその一人一人、またその私たちの教会にも与えられています。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたはかつて、「若者」エレミヤに呼びかけ、彼を呼び出し、「万国の預言者」として立てられました。それは「母の胎につくらないさきに」からの、あなたの御計画であり、選びであり、使命への、「ただ恵みによる」呼び出しでした。
 私たち一人一人とその教会もまた、同じあなたの「ただ恵みによって」、イエス・キリストの福音によって呼びかけられ、召し出され、それぞれの使命を与え られています。どうか、私たちがこの恵みに感謝し、この呼び出しに答え、この使命を喜んで引き受け、希望をもって果たして行くことができますよう、私たち を助け、導き、豊かにお用いください。私たちが、その働きと道の中で、挫折し、傷つき、倒れるときにも、このあなたの呼びかけと召し出しにもう一度立ち帰 らせてください。そしてそれは、本当に私たちの思い、考え、力、願いと計画などに、一切よらず、全く関係ないのだということによって、私たちを慰め、力づ け、再び立て、送り出してください。
 まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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