神のもう一つの考え                               創世記第45章1〜15節
   
      
 今日の所では、ついにヨセフと他の兄弟たちとの再会が描かれています。「涙の対面」の時がやって来たのです。
 ここに至るまでに歩みを振り返ってみましょう。
 エジプトの、いわば「総理大臣」にまでなったヨセフでした。彼がエジプト王パロの夢を解いた通り、七年の大豊作に続いて、それをはるかに上回る七年の大飢饉が訪れました。けれどもヨセフの食糧政策のおかげで、大飢饉でもエジプトにだけは食物がありました。
 遠くパレスチナの地にいる父ヤコブと兄弟たちも、この大飢饉に苦しんでいました。そんな時に、噂が聞こえて来たのです。「エジプトにだけは食糧があ る。」それでヤコブは、「エジプトに行って食べ物を買って来い」と息子たちを遣わします。彼らはエジプトに行って食物を買って来ます。その時、大臣になっ たヨセフとも会っているのですが、兄弟たちも思いもよらず、全く気づきません。兄たちが帰るに当たって、ヨセフは強く申し聞かせました。「次来る時は、必 ず一番末の弟を連れて来い。もし連れて来なければ、決して食糧は売らない。」彼らは帰って行きました。
 しかしまだ、激しい飢饉は終わりません。エジプトで買った食糧も底をつきました。父ヤコブはまた息子たちに言います。「もう一度エジプトに行って、食べ 物を買って来い。」けれども息子たちは答えます。「あの地の偉い方が、末の息子を連れて来ないなら、食べ物は売らないと言われました。だから、行くことは できません。」父は嘆き苦しみます。ヨセフなき後は、その下の末息子ベニヤミンを強く愛していたからです。でも、飢饉はますます激しく襲ってきました。父 ヤコブもついに決心をしました。「わかった。ベニヤミンを連れて行け。そうして食糧を買って来い。でも、必ずベニヤミンは連れ帰ってくれ。」息子たちは 「わかりました。きっとそうします」と答えて出かけました。
 エジプトに着くと、最初はすいすいと順調に事は運びました。食糧も無事買えました。そうしてめでたく帰って行こうとした矢先、エジプトの役人たちが後を 追って来ました。なんと末息子ベニヤミンに、「大臣の大切な食器を盗んだ」との嫌疑がかかっているというのです。「まさか」と思いましたが、当のベニヤミ ンの荷物からその食器が見つかってしまいました。実は、これらすべてはヨセフの差し金だったのです。彼らは、再び大臣ヨセフの前に連れ戻され、引き出され ます。ヨセフは強く激しく申し渡します。「罰として、末息子は私の奴隷とならねばならない。お前たちは、彼をここに置いて、帰って行け。」兄たちは驚き、 慌て、悲しみます。「そんなことをしたら、末息子を心から愛している父は死んでしまいます。」でも、ヨセフは断固として聞きいれません。
 そこで四男ユダが立ち上がってこう言うのです。前の44章にあるくだりです。「わたしがあなたのしもべである父のもとに帰って行くとき、もしこの子供が 一緒にいなかったら、どうなるでしょう。父の魂は子供の魂に結ばれているのです。この子供がわれわれと一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう。そうす ればしもべらは、あなたのしもべであるしらがの父を悲しんで陰府に下らせることになるでしょう。しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの 子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷と してとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください。この子供を連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。父が災 に会うのを見るにしのびません。」唐突に申しますが、このユダの姿は、後に私たちの前に現れるイエス・キリストを髣髴とさせます。「自分を身代わりとし て、他者の罪を負って罰を受け、他者たちを生かして行く」のです。「レアの子ユダに、イエス・キリストの似姿をみます。低い姿勢で土下座をするユダは、十 字架の低みにおいて殺されたイエスと似ています。弟子たちの足を洗うイエス、弟子たちに給仕をするイエス、権力者の前で貶められるイエス、群衆に嘲笑われ るイエス。茨の冠をかぶせられた『僕となった王』です。この方が『他人を救ったけれども自分を救わないキリスト、ユダヤ人の王』。自分の命と、他者の命と を交換させ、無条件に全ての人を救い出したキリストです。ベニヤミンを救い、ヤコブとの約束を果たそうとするユダの言葉に、キリストの救いとは何かが示さ れています。イエス・キリストの成し遂げた贖いの救いとは、神(アッバ=私の父)との約束に信実であろうとし、隣人の救いのために自分を投げ出す信実な行 為です。」(城倉啓、泉バプテスト教会ホームページより)

 このユダをはじめとする兄弟たちの言葉と態度によって、ヨセフは固く閉ざされ凍り付いていた自分の心を溶かし、開くのです。「そこでヨセフはそばに立っ ているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、『人はみなここから出てください』と呼ばわった。―――ヨセフは声をあげて泣いた。―――ヨセフ は兄弟たちに言った、『わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか』。」これを聞いて、仰天し、呆然とし、ただただ恐れるばかりの兄たちでし た。「兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。」またも唐突に申しますが、この兄たちの前に現れるヨセフの姿もまた、イエス・ キリスト、しかも復活のイエス・キリストを髣髴とさせるのです。「彼は死んではいない。生きていた。しかも奴隷として生きていたのではなく、総理大臣にま で上り詰めていた。『私はヨセフ』という自己紹介の形は、救い主(注 復活のイエス・キリスト)の登場と救いそのものを意味します。―――救い主の登場 は、皮肉なことに人々を恐れさせます。なぜならば、ここでのヨセフの兄弟たちのように、自分たちがその救い主の加害者だからです。社会的に抹殺したはずの 相手が面前に登場した時、私たちは復讐を恐れます。恐るべき強大な権力を持っている相手。海を分け、海を歩くことができる相手。パンを配り生活を救うこと ができる相手。」(同上)
 あの時驚き、恐れた弟子たちに、復活の主が親しく近寄り、語りかけてくださったように、今ヨセフは兄弟たちに語りかけるのです。「ヨセフは兄弟たちに 言った、―――『わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも悔むこともいりませ ん。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れる こともないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわ されたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です』。」
 「神にはもう一つの考えがあったのだ」とヨセフは語るのです。「神さまがヨセフにしてくださったこと、それは不幸だったヨセフを幸せにするというただそ れだけではありませんでした。そのことを通して世界を祝福する、これが神さまのなさったことでした。―――私たちには大きなことと小さなことがどういうふ うに結びつくのかは分からない。けれども置かれた場所で私たちが忠実に愛するなら、神さまはそういう私たちとともに働いて、私たちには想像もできないよう な大きな祝福を成し遂げることができるお方です。どんなに絶望的に思えたとしても、神さまにはお考えがあるということです。英語にはアナザー・アイディア 『もう一つのアイディア』という言い方があります。私たちは考えて考え抜いてここまでやってきた、でも神さまにはアナザー・アイディア、他のアイディアが ある。それは私たちがどんなに考えて『これ以上望ましいことはない』と思っても(注 あるいは『これ以上ひどいことはない』と思ったとしても)、それより はるかにすばらしいアイディアです。神さまはそのアイディアを実現してくださる。―――『神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは 知っています。』その『最大の益』はもう始まっている。それは、イエスさまの絶望から福音が生み出されたことです。そんな私たちに、神さまは何を惜しまれ るだろうか。すべてのことを働かせて、組み合わせて、アナザー・アイディア、私たちと違うお考えをもって、神さまは本当に豊かな祝福を成そうとしてくだ さっています。そのことを見上げたいと思います。」(大頭眞一『天からのはしご』より)
 だから今、ヨセフは兄弟たちに語りかけるのです。「だから、恨むな、悔やむな、悲しむな。神の計画と道、そして業を見なさい。父をここに連れて来て、新しいあなたがたの生き方と道を始めなさい。」

 神には、アナザー・アイディア、「もう一つの考え」がある。「神のもう一つの考え」、その決定的・究極的なものは、あのイエス・キリストの十字架と復活 ではなかったでしょうか。十字架、それは恥と呪いと絶望の極み・どん底でした。そこにイエスは釘付けられ、苦しめられ、辱められ、罵られ、呪われ、殺され て死なれた。弟子たちをはじめ、すべての人たちは、そこに何の光も希望も救いも見出すことはできませんでした。イエスは、その人生も、その宣教も、働き も、その存在そのものも、すべてが終わり、崩れ落ち、無となり、残骸となり、廃墟となってしまったのでした。しかし、神には「もう一つの考え」があった。 神は、この十字架に殺されて死んだイエスを、三日目に死の中から起こし、復活させられたのです。そして弟子たちだけでなく、全世界のすべての人々、そして 私たち一人一人にもまた言われたのです。「ここに神がおられた!ここにこそ、神は共におられる。そして神は、このイエスを通して、このイエスの全生涯、そ の十字架の死と復活とを通して、命と救いと和解の業をなさる!」「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去っ た。見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、これらすべての事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解 の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに 和解の福音をゆだねられたのである。」(Uコリント5・17〜19)
 そして、この私たち一人一人と教会にも、あのヨセフと兄弟たちと同じように、そこに新しい道と生き方とが開かれるのです。罪を悔い、責め合い、復讐する のではない、新しい生き方と道。むしろ、「神のもう一つの考え」を知らされ知って、赦しと和解と「共に生きる」ことに歩もうとする、新しい生き方と道で す。今週も、この信仰と希望、それに基づく愛とによって、共にまた互いに助け合って生き、歩んでまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 ヨセフと兄弟たちと父ヤコブに起こった、悲しい、ひどい、罪深い業と出来事。しかしあなたは、それらすべての中で、すべてを貫き、すべてを超えて、あな たの「もう一つの考え」、命を救い、罪を赦し、和解と共生へと導き至らせる、善き業を実現なさいました。そしてあなたは、私たち一人一人と、すべてのあら ゆる人のためにも、究極の「神のもう一つの考え」、イエス・キリストの生涯、その十字架と復活の道を開き、導き、全うされました。
 今この私たちも、あなたの「もう一つのお考え」があることを、遅ればせながら知らされ、小さくも知り、信じる者とされました。どうか、それにふさわしく信じ、生き、仕え、共に生きて行く、私たち一人一人また教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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