神の時はやって来る
創世記第41章25〜46節
われらがヨセフの獄中生活が続いています。それは大変長いものとなったようです。創世記第37章によりますと、ヨセフが兄たちによって襲われ、奴隷商人に
売られてエジプトに来たのが、17歳の時のことだったようですから、後の記述と合わせると、恐らく彼は実に10年近くも牢屋に閉じ込められていたようで
す。
そうした10年くらいたったある日のこと、一つの大きな出来事がヨセフの獄屋に起こりました。ヨセフのいた牢に、二人のエジプト王の高官が送られて来ま
した。一人は王の給仕役の長、もう一人は同じく料理役の長です。王が毎日食べる食事を作るのが料理役で、そうして運ばれてきた食事を王に対して給仕するの
が給仕役です。いずれも、王が食べる食事ですから、毒などが入っていてはなりません。だから、どちらも王の厚い信任がないとできない仕事です。そのそれぞ
れの「長」と言うのですから、いわば王の「側近中の側近」と言えます。そんな二人が、おそらくは些細なことで王の怒りを買い、牢獄に閉じ込められたので
す。
数日の後、この二人が同じ夜に、それぞれ不思議な夢をほぼ同時に見ました。次の日の朝、ヨセフが起きて二人を見ると、顔色があまり良くありません。すご
く不安そうな表情です。そこでヨセフが「どうしたのですか」と尋ねると、二人は自分が見た夢の内容をそれぞれに語るのでした。あのヨセフ自身が苦難に遭う
きっかけとなった二つの夢からもわかるように、ヨセフには「夢を解く」、夢の内容を知りその意味を解き明かすという、才能・能力が与えられていたようで
す。それで彼は、この二人の高官の夢を解き明かしてあげました。するとしばらくして、二人の高官は、ヨセフの夢の解き明かしの通りになりました。給仕役の
長は、王の怒りが解けて、めでたく元の職に復帰することができました。しかし料理役の長は、無念にも王の怒りのままに死刑になり、さらし首になってしまい
ました。
そこでヨセフは、生き残った給仕役の長に言い、こう頼みました。「今から三日のうちに、パロはあなたの頭を上げて、あなたを元の役目に返すでしょう。あ
なたはさきに給仕役だった時にされたように、パロの手に杯をささげられるでしょう。それで、あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわ
たしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでも
わたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです。」自分は無実だ、だから王に口添えして、私をここから出すようにしてほしい、無理もない願い
であり、ヨセフが彼に与えた恩を思えばそれくらいお願いしても当然でしょう。
ところが、ところがなんと、給仕役長はヨセフのことを忘れてしまうのです。「ところが給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。」なんという忘
恩、また自己中心でしょうか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」「人の痛いのは三年でも辛抱する」と申します。一般的・常識的に見れば、本当にひどい男、ひど
い仕打ちだと思います。
ヨセフは期待して、首を長くして待っていたでしょう。しかし、何事も起こりませんでした。なんとそれからまた、二年もの歳月が流れることになるのです。
期待して裏切られてから過ごす年月の方が、はるかにつらく、そして長く感じられたに違いありません。そして合計13年もの間獄中生活を送ることになるので
す。ヨセフはいったいどうしていたでしょうか。絶望したでしょうか、やけくそになって投げやりに虚しく生きていたでしょうか。
きっと違うと思います。なぜならば、今まで何度もご一緒に見てきたように、こう書いてあるからです。「主はヨセフと共におられた」。この「失意の二年
間」にも、「主はヨセフと共におられた」に違いありません。だから、ヨセフは神にこそ信頼し、神をこそ求め、神にこそ期待することを学んだのです! 三浦
綾子さんは、こんなふうにヨセフのことを想像されます。「彼は給仕長にとりなしを頼んだ事を神の前に恥じていたであろう。信仰者は神にのみ、より頼むべき
なのだ。人を信じられないからこそ、わたしたちは神を信じているはずである。それなのに、ともすれば神よりも人に頼り、期待しては、裏切られたとか、頼り
にならぬと呟くことの何と多いことであろうか。―――給仕長に忘れられていた二年に、ヨセフはいよいよ、神のみを信頼すべきことを学んだにちがいない。こ
の二年間はヨセフを成長させる大いなる二年間であった。」(三浦綾子『旧約聖書入門』より)
そうしてこの二年間の後に、エジプト王パロは夢を見るのです。それは相次いで見られた不思議な、また不吉な感じの夢でした。夢から覚めたパロは、恐ろし
い不安に駆られます。そこで王は、エジプト中の知者や学者たちを片っ端から呼び出して、この夢について尋ねますが、誰一人としてそれを解くことのできる者
はいませんでした。
この夢、この夢こそ、ヨセフが解くべき夢だったのです。そして今こそ、あの給仕長はヨセフのことを思い出したのです。「わたしはきょう、自分のあやまち
を思い出しました。かつてパロがしもべらに向かって憤り、わたしと料理役の長とを侍衛長の家の監禁所にお入れになった時―――そこに侍衛長のしもべで、ひ
とりの若いヘブルびとがわれわれと共にいたので、彼に話したところ、彼はわれわれの夢を解き明かし、その夢によって、それぞれ解き明かしをしました。」そ
してこれこそが、正しくふさわしいタイミングだったのです。あの時、律儀にも給仕長がヨセフのことをパロに執り成し、ヨセフを自由にしてやっていたなら
ば、ヨセフは楽になったかもしれませんが、でも今頃ヨセフはエジプトのどこかの街角をうろうろしているだけだったかもしれません。
しかし今、ヨセフはエジプト王パロの前に呼び出され、王の前に立つことになったのです。「そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を
地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。パロはヨセフに言った、『わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がな
い。聞くところによると、あなたは夢を解いて、解き明かしができるそうだ』。ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、わたしではありません。神がパロに平
安をお告げになりましょう』。」そこでパロはヨセフに自分の見た夢を語り聞かせ、彼はそれらを解き明かしました。「七年の大豊作の後に、七年の大飢饉が
やって来る。その飢饉は、先の大豊作を忘れさせてしまうくらいにひどいものになる。もし、それに備えないなら、この大飢饉のためにエジプトは亡びてしま
う。」しかしまたヨセフは、その飢饉のための対策をも王に進言し、提案しました。「それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治め
させなさい』。」適切で有能な人を選び、立て、その人にエジプトの食糧政策の一切を任せなさい。そうして、大豊作のうちに、余った食糧を無駄にせずに蓄え
て置き、後に来る大飢饉に備えなさい。そうすれば、エジプトには飢饉でも食糧が残され、国が亡びることないだろうというのです。
王はこのヨセフの提案を受け入れました。そしてなんとこう言ったのです。「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたは
わたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。こうしてヨセフは、エジプトの事
実上の最高権力者となったのです。そして後に、このヨセフの政策と準備のゆえに、エジプトは滅亡から免れました。さらにこのことは後に、パレスチナの地に
残してきた父と母また兄弟たちを飢饉から救うことになるのです。
こうして神の時はやって来たのです。あの失意と絶望の二年間は、不思議にも神のための時となったのです。そしてこの時は、ただ神だけが来たらせることが
できた時でした。ヨセフは、この神の時を、予想することも、期待することも、数えることもできませんでした。ただ神だけが、この時を望み見、数え、待つこ
とがおできになったのです。そのようにして、私たち人間の思いを超え、願いを超え、計算・計画をも超えて、神の時はやって来るのです!
それはちょうど、あのイエス・キリストの復活の時と同じ、いやイエスの復活こそ「神の時」であったのです。イエスの復活は、「どうせ復活するのだから」
と思えるような時では、全くありませんでした。弟子たちはもちろん、この時を思うことも、願うことも、だからまして数えて待つこともできませんでした。そ
して、私は信じます、イエスご自身さえ、「この時」を予想・期待して、「自分はきっと復活するのだから、別に苦しみ、死んでも大丈夫なのだ」などとは、決
して思うことがおできになりませんでした。だからこそ、あの十字架で絶望し、絶叫して死なれたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになっ
たのですか。」イエスご自身にさえ見えず、わからず、思いもよらなかった時、それが復活の時であり、まさに「神の時」であったのです。こうして、「神の時
はやって来る」!
そんな「神の時」を思うことも、願うことも、待つこともできない、ヨセフにはそんな「闇の時」がありました。文字通りの暗闇、獄中の暗闇、絶望の暗闇です。私たちにも、きっとそんな「闇の時」があります。苦しみの時、失意の時、絶望の時です。
しかしそんな「時」にも、ヨセフの神は、共におられます。何より、イエス・キリストの神、「インマヌエル」の神、われらと共にいます神は、私たち一人一
人と共におられます。だから私たちは、そんな「闇の時」でも、神を信じることができます、神にのみ期待を置き祈ることができます、そしてこの神がきっとご
自身の「時」を来たらせてくださることを望みつつ、「望み得ないのに」望み、待つことができます。またあのヨセフのように、その「闇」の中、獄の中でも、
自分にできることを、神と隣人に仕えて働き、生きることを最善を尽くして行い、やり通すことができます。そうしてついに、「神の時はやって来る」のです!
私たち信仰者は、そのような「神の時」があることを知り、「神の時」がやって来ることを知らされ、知っている者たちであるはずです。その私たちは今、こ
のように生きるのです。「聖書ではクロノスとカイロスという時間を表す二つの言葉がある。クロノスは時計で測れる人間が定めた時刻、二十四時間、三六五
日、あるいは何時何分という概念だ。一方、カイロスは人間の尺度では測ることのできない時の流れだ。長い短いではなくて深さと広さを持つ神の時を表す。私
たち、特に折り目正しい日本人は、このクロノスで生きている。そしてクロノスでイライラする。話の長い上司、時間通りに来ない電車、遅れる納品・・・数
日、数分の誤差に感情を乱される。はっきり言ってそれは貧しい生き方だ。一方、カイロスはいつ何が起きるかわからない神の時だ。自分の理性ではついて行け
ない出来事の連続、愛する人を亡くし永遠に続くような喪失、けれどもそこから解放される瞬間的な誰かや景色との出会い等々、理屈を超えて命に刻まれていく
時でもある。それは限りなく豊かな時もあり、逆に予測ができないが故に不安な時でもある。ジョージたちアフリカ出身のチャプレンたちは、このカイロスの時
を楽しんで生きているように感じた。カレンダーもシフト表も見ない、天気予報も一度も見たことがないチャプレンもいる。それは異文化だからではなくて、家
族や国を亡くした彼らが時は数えることができても自分ではコントロールできないことを知っているからだ。彼らは、大きな命の時にゆったりと身を委ねながら
生きているのだ。」(関野和寛『きれい事じゃないんだ、聖書の言葉は』より)この「神の時」を知らされ、その「時」が来ることを教えられ、その「時」を待
ち望みながら、それにふさわしく今週も、それぞれの場で、神によって出会わされる隣人一人一人と共に生き、歩んでまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
ヨセフの思いと願い、また計画を超えて、あなたは「神の時」を彼に来させられました。またあなたは、失意と絶望の「土曜日」を超えて、あらゆる人間の思
いと願いと計算をも超え、そしてイエスご自身の思いさえも超えて、十字架に殺され死んだイエスを起こし、復活させられました。そのようして「神の時」は
やって来、「神の時」は私たちにもやって来ます。
この不思議な恵みと導きを覚えつつ、私たちも信仰によって、それゆえに希望と愛とによって、あなたと隣人一人一人に仕えつつ、共に生き、歩んで行くこと
ができるようにしてください。あなたを待つための自由と、あなたにこそ希望を抱いて働き、歩み続けるための力とを、私たちにお与えください。
まことの道、真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。