救い、それは神が共におられること
                                             
創世記第39章1〜9、19〜23節
   
      
 私自身の信仰を振り返ると、段々とその信じている内容が、「単純化」、単純になって来ているのを強く感じます。そうした現在、私が信じていることを今日はお分かちしたいと思います。
 さて皆さん、「救い」とは何でしょうか。キリスト教会では、よく「救い」「救い」と言います。また、他の宗教や思想でも、それぞれなりに「救い」という ものが考えられているでしょう。今の私はこう考え、こう信じます。「救いとは、神が共におられることだ」。それは、私たちキリスト教会が救い主と信じてい るイエス・キリストによって明らかです。イエス・キリストの別名は、「インマヌエル」「神が我々と共におられる」なのです。「マタイによる福音書」第1章 のイエス降誕の記事にこうあります。「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われら と共にいます』という意味である。」イエス・キリストの別名は、まさにこの救い主がもたらす「救い」の内容を表し、指し示すものです。だから、イエス・キ リストによる「救い」とは、「神われらと共にいます」、「神が私たちと共におられること」そのものなのです。
 こう話してまいりますと、疑問に思う方もおられるかもしれません。「キリスト教信仰の『救い』とは、『罪の赦し』『神の前で罪が赦されること』ではない のか。」もちろん、そうでもあります。けれども、「罪」とは何かということをよく考えて行きますと。結局「救い」は先ほどから申し上げていることになると おわかりになると思います。なぜなら、「罪」とは、私たち人間が「神と共に生きる」ことを拒否し、投げ捨ててしまったことだからです。聖書の神は、そのよ うな私たちの「神と共に生きない罪」、そこから同時に派生する「隣人と共に生きない罪」を、イエス・キリストによって克服し、「神と共にいる」「神と共 に、また隣人と共に生きる」を実現してくださったのです。これこそ「救い」にほかなりません。
 この「ヨセフ物語」では、この「救い」の現実が繰り返し何度も描かれ、強調されています。「主がヨセフと共におられた」。この言葉が、この39章だけで も、2節、3節、21節、23節と、四度も繰り返されています。「主がヨセフと共におられた」。つまり聖書はここで、まさに「救いを受けた一人の人」ヨセ フの生涯と生き様を語っているのです。だから、このヨセフとその生涯を見れば、「救いとは何か」ということが、極めて具体的にわかるのです。

 では、「救い」「神が共におられる」とは、いったいどんなことでしょうか。
 まず物事を理解するための一つの方法として、「それが何ではないか」ということから始めるという道があります。今日私たちも、そこから始めて、「神が共におられる」とは「何ではないか」ということを見てまいりましょう。
 まず、「救い、神が共におられること」は、「人間関係が良好に運ぶ」ことではありません。ヨセフは、他の多くの人、とりわけ新しい主人、エジプトの高官 ポテパルとは大変良い関係を結ぶことができました。しかしただ一人、彼の「宿敵」とも言える人が現れたのです。それは、ポテパルの妻でした。彼女はヨセフ に目をつけ、関係を迫り、毎日しつこく誘惑してきたのです。しかしヨセフがそれに応じないと見ると、今度は「自分に悪いことをした」という無実の罪でヨセ フを陥れてしまったのです。私たちにとって人間関係は大変重要なものであり、一人でも関係の悪い人がいると、もうそれで「だめだ」と思い、信仰者なら「こ んなことなら、神様は私と共におられないのか」と思うかもしれませんが、決してそんなことはないということです。ただ、この言い方は少し誤解を受けるかも しれません。「では、人間関係がうまく行ってはいけないのか。さらには、人間関係が悪くなることが、神が共におられることなのか」。そんなことはありませ ん。私が言いたいのは、「人間関係が良くなるか悪くなるかは、神が共におられるかどうかということには何の関係もない」と言いたいのです。後の事柄も、皆 同じです。
 次に、「神が共におられる」とは、「不当な目に遭わない」ということでもありません。むしろ、このヨセフのように正しい生き方をしたからこそ、「不当な 目、苦しみに遭う」ということが十分にあり得ます。ここで「不当な目」というのは、主に私たち人間の「尊厳と誇り」に関わることです。私たち人間は、「た だ生きていればいい」という存在ではありません。「人は神のかたちに創造された」とありますが、「神のかたち」とは、「その人その人に固有な、取り換える ことのできない、尊厳と誇りを持っている」ということです。だから、人間にとって「尊厳と誇り」は極めて重要なものです。だから私たちにとって最大の苦し みは、自分の「尊厳と誇り」が傷つけられ、損なわれ、失なわれることです。「不当な目に遭う」とは、多く「尊厳と誇り」が損なわれ、失われるような目にあ う、そんな扱いを受けるということです。罪の世である人間世界では、非常にしばしばそのようなことが起こり、繰り返されます。ここでヨセフは、まさにそん な目に遭いました。「冤罪」、無実の罪で捕えられ、裁きを受けたのです。そして、それまで築いてきた信頼が崩れ落ち、「尊厳と誇り」が破壊されてしまった のです。しかしそれは、決して「神が共におられなくなった」ということではありませんでした。この不当な目に遭ったすべての道において、こう語られている のです。「主がヨセフと共におられた」。
 さらに、「救い、神が共におられる」とは、実際に物理的・現実的に苦しい目に遭わないということではありません。ヨセフはまさに、現実的に苦しみを受 け、そんな道を歩まされました。奴隷として、「人」ではなく「物」として売り買いされたこと。また「牢獄」という、ある意味で極限的な苦しみと不自由の場 所に閉じ込められたこと。私たちも、いろいろな苦しみに遭うとすぐに考えます。私たちにやって来る苦しみ、病気、事故、災害、などなど。すると、こう考え るのです、「神様は共におられないのかな」。決してそんなことはありません。聖書は、何度もこう語ってやまないのです。奴隷のヨセフに「主は共におられ た」、獄中のヨセフと「主は共におられた」。

 さあ、では次に、「神が共におられる」とは、端的にどんなことなのかをご一緒に見ていきたいと思います。
 「神が共におられること」、それはまず、「どんな窮地、危機にあっても、人ではなく神を畏れ、また自分の身の保身よりも、正しい生き方を選ぶことができ る」ということです。それは、まさに「神が自分と共におられ、自分は神の前でこそ見られ、問われている」と知っているからです。ヨセフは、しつこく悪質な ポテパルの妻の誘惑を受けた時、こう答えました。「御主人はわたしがいるので、家の中の何をも顧みず、その持ち物をみなわたしの手にゆだねられました。 ―――また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪を行って、 神に罪を犯すことができましょう。」もしヨセフが、「神がわたしと共におられる」という信仰を持つことができなかったならば、彼はこう考えて行動してし まったかもしれません。「こんな災難続き、苦労続きで、神様はいるのかいないのかわからない有様だ。こんなことなら、不本意だがこの誘惑に乗って、自分の 地位と立場の安定を図るのも仕方ない。だって、神様が自分を守ってくれるなんて保証はないんだから。」しかし、「主がヨセフと共におられた」、だから彼は 正しい道を選び、行けたのでした。
 次に、「神が共におられること」、それは「とても苦しい状況・立場に置かれても、そこにまさに『主が共におられる』ことを知り、それがゆえに、そこにお いても平安のうちに生き、その場においてできること、なすべきことを知り、できる」ということです。ヨセフは、ポテパルの家で奴隷だった時にも、彼にとっ ての最善を目指し、努力をしました。「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。その主人は主が彼と共にお られることと、主が彼のすることをすべて栄えさせられるのを見た。」これは、何か「何もしなくても、自動的に物事がうまく行った」というのではないと思い ます。ヨセフは、奴隷の立場で最善を求め、最善を目指し、最善の努力をしたのです。それは決して、奴隷制を擁護することでありません。奴隷制は根本的に非 人間的制度であり、神の前に罪であるのですが、しかしその渦中においても、人は神の前に最善を求め、行っていくことができるのです。それは、彼の獄中にお いても全く同じでした。それが「神が共におられる」ということなのです。
 さらに、「救い、神が共におられる」とは、その試練・困難の中から、「共におられる神」によって新しい道が開かれることを望み、祈り、目指して生きられ るということです。苦労も努力も、まったく望みや展望がないところでは、長続きはしません。けれども、「主が共におられる」ことを知り信じる者は、この苦 労と努力が、主の新しい道に繋がっていることを知らされ、だからこそそのような生き方を続けて行けるのです。ヨセフも、ただ「頑張ろう、努力しよう、そう すれば少しでも処遇と立場が改善されるだろう」と思ってやっていたのではないと思います。「共にいます主」は、彼に、もっと大きい希望、もっと広い展望を 与え、見せておられたのでないでしょうか。

 「主が共におられる」、この「救い」を、私たちはこのヨセフから、そして何より私たちの主イエス・キリストから聞き、学び、受け取るのです。
 イエスこそ、常に神を仰ぎ、神に聞き従い、神の前に正しい道を行かれた方でした。主はその生涯の初め、ヨハネからバプテスマを受ける時にこう言われまし た。「このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである。」(マタイ3・15)また、その生涯の終わり、最大の苦しみ十字 架を前にしてこう祈られました。「どうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下 さい。」(同26・39)
 またイエスこそ、「神がいつも共におられる」をことを信じ、歩み、行動し、生きられた方でした。十字架を前にして、弟子たちの裏切りと逃亡を望み見つ つ、主はこう語られました。「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている。 しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」(ヨハネ16・31)
 そしてイエスこそ、絶望の死を越えて、神によって「新しい道」復活にまで至らされた方でした。イエスご自身は、あるいはこの復活ということをはっきりと は自覚なさってはいなかったかもしれません。そのように語る方もおられます。私もそうかもしれないと思います。しかし、イエスの父なる神は、究極の苦しみ 十字架につけられ、絶望のうちに殺され死んで行くイエスを、決してお見捨てにならなかったのです。使徒パウロは、そんなイエスの生涯をこう語っています。 「死に至るまで、しかしも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。」(ピリピ2・ 9)
 私たちの救い主イエス・キリスト、「インマヌエル」、「神われらと共にいます」!

 最後に、ひょっとしたら疑問が湧くかもしれません。「では、『救い』がそういうこと、『神が共にいること』だけであるなら、神の救いとは、何も良くなっ たり、現実に助かったりすることはないのか、良いものを受けたり、良い立場を得て、何らかの力をもらうことはないのか。」決してそんなことはありません。 現にヨセフを見てください。彼は後に、ずいぶん後ですけれども、冤罪が証明されて牢獄から解放され、それどころか、彼の「夢を解く」という賜物・能力が認 められて、エジプトの大臣、王パロに続く実質的な最高権力者にまで昇りつめたのですから。
 時に、「神が共におられる」ことは、そういうことを意味し、そういうことをもたらすこともあります。けれども私は、ここに大いなる聖書的限定がついてい ると信じます。私たちにも、時に大きな力や権限、それにふさわしい立場や地位、それに伴うもろもろの富が与えられることがあります。けれども、聖書の神を 信じる私たちにとっては、それらが与えられるのは、ただ一つの目的のためです。「それは、自分の安楽や楽しみのためでは決してなく、それらを用い、生かし て、神の御心を行い、隣人、とりわけ弱く、苦しめられている隣人に仕え、働き、生きるため」。実は、神を信じないかもしれない、他の多くの人の場合にも、 聖書に照らして考えるなら、まさに神の前での事実はその通りであり、そこにある神の御心は全く同じなのです。この日本のような資本主義社会、業績社会で は、多くはそのようには考えません。「人は、努力と成果に応じて、地位や力や富を得ることができ、それを自分のためだけに使い、楽しむのは当然のこと だ。」けれども、私たちはそのようには考えず、そのようには生きないのです。なぜなら、私たちは「神の救い」を受け、「主が私たちと共におられる」からで す。
 「神が共におられる」「神と共に生きる」とは何かということを、とてもよく表し伝えてくれる文章に出会いましたので、ご紹介します。「キリストに従うと 決めたらどうなる?極端な表現かもしれないけれど。どこまでも自由になったような。自分を縛るものは何もないような。人の目を気にしないで済むような。世 の価値観に縛られることがなくなったような。怖いものがなくなったような。好きなように生きていけそうな。間違いを怖れずに生きていけそうな。何ごとにも チャレンジできそうな。どんな人をも受け入れられるような。だれにも親切にできそうな。自分の欠点とおぼしきことも恵みの一つに数えられそうな。そう、ネ ガティブなものは何もない。私の人生は、神様に導かれ、なるようになる。神様が道を示してくださる。神様が何をしたらよいのかを教えてくださる。私はその 神様にすべてのことをお任せしたらよい。そう、イエス様以外に従う模範はいない、神様以外に怖れるものはない、いつも一緒にいてくださるお方がおられるの で安心。私が深い闇を彷徨うことはあるだろうか、私が人を傷つけることはあるだろうか、私がある人を蔑むことはあるだろうか、私が欲にまみれて卑しい人間 になることがあるだろうか、私が愛する人を裏切ることがあるだろうか。間違いなくある。けれど、それにも多くの気づきをいただけて、悔い改めに導かれ、何 度でも赦していただける。希望は失われることなく、願ったことは何らかの形で叶えられる。そんな人生だったような!洗礼は、門である。そして、この門をく ぐると、その先にはワオーといった風景が広がっている。」(平良憲誠、214町屋三丁目「その先には驚くべき風景が広がっている・・」より)
 「神がわれらと共におられること」、この「救い」を、このヨセフと共に、この救い主イエス・キリストから受け、いただいて、今週も神と共に、また神が出会わせたもう隣人一人一人と共に生き、歩んでまいりましょう。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたは常に「ヨセフと共におられ」ました。奴隷の立場でも、牢獄の中でも。そしてあなたはイエス・キリストにおいて、今や私たちすべての者一人一人と、「神われらと共におられ」ます。この恵みと救いを心より感謝いたします。
 どうか、この「救い」を受け、信じさせていただいた者として、私たち一人一人と教会が、今週もあなたによって送り出され、それぞれの場で、この「インマヌエル」の現実の証人、しもべ、働き手となって生きることができますよう助け、お導きください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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