神こそが見定める、神こそが共にいる
創世記第37章2〜4、18〜36節
今日から、ヤコブの息子ヨセフの生涯をたどる、「ヨセフ物語」に入って行きます。
けれども、ここに広がり展開される世界は、なんという世界でしょう。それは、「神なき世界」に見えます。今日の箇所だけで言うならば、ここには「神」
は、一切登場されません。「主は言われた」もなければ、「神はこうされた」もないのです。その代わりにここにあるのは、人間の、人間たちの歪み、偽り、そ
して罪と悪です。
ここでは、今まで私たちがたどって来たヤコブの家族、彼の息子たちの生活と歩みが語られます。このヤコブの家族は、なんという偏った、歪んだ家族でしょ
うか。何より、父ヤコブの著しい偏愛、えこひいきがあります。彼は、下から二番目の息子ヨセフだけを、特別に愛したのです。「ヨセフは年寄り子であったか
ら、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物を作った。」「長そでの着物」というのは、労働には向かないその様態から、「仕事を
しなくてもよい、恵まれた環境」を示唆する衣服です。ヨセフだけへの特別扱いを顕著に表しています。これを見た他の兄弟たちの反応は、ある意味で自然で、
理解できるものです。「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。」
当のヨセフはと言えば、これまた癖のある性格で、人の気持ちがわからないような行動を取り、兄弟たちの憎しみをいっそう駆り立ててしまいます。「彼(ヨ
セフ)はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。」要するに「告げ口」をしたわけです。嫌われ
るわけですね。そしてそれを一層ひどくする出来事、行動に出てしまいました。ヨセフは、自分が見た不思議な夢を繰り返して、兄たちまた両親にさえも語って
しまったのです。「ヨセフは彼らに言った、『どうぞわたしが見た夢を聞いてください。わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つ
と、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました』。」「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました。」これによっ
て、兄弟たちの嫉妬と憎しみはさらに煮えたぎりました。「すると兄弟たちは彼に向かって、『あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わ
たしたちを治めるのか』と言って、彼の夢とその言葉のゆえにますます彼を憎んだ。」
そしてついに、その憎しみが爆発する時がやって来ます。ある日のこと、兄弟たちが働いている放牧地へ、ヨセフが父によって使いに出されます。「あなたの
兄弟たちはシケムで羊を飼っているではないか。さあ、あなたを彼らの所へつかわそう。」「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群れは無
事であるか見てきて、わたしに知らせください。」そうしてヨセフが、兄弟たちのところへ近づいて行くと、兄弟たちはこれを見てとうとうヨセフを殺す計画を
立て始めます。「ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、互に言った、『あの夢見る者がやって来る。さあ、彼
を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるかを見よう』。」「さすがに殺してはまずいだろう」ということで、長男のルベ
ンと、四男のユダが、それぞれにそれを止め、別の道を取らせようとします。ルベンは「殺さないで、穴に投げ込むだけにしよう」と言い、ルベンが不在の間に
ユダが「ヨセフを奴隷商人に売り払ってしまおう」と提案します。結局ユダの提案が通り、ヨセフは穴から引き揚げられて奴隷商人に、銀貨20枚で売られてし
まいます。そして、ヨセフは書人たちによってエジプトに連れられて行き、そこでエジプト王パロの役人であったポテパルという人の奴隷となって行くのです。
いかがでしょうか。今でこそ私たちは、この「ヨセフ物語」が最後は「ハッピーエンド」、ある意味では「めでたしめでたし」で終わることだろうと知ってい
て、それを予想し、だからこれらの箇所も、そこまで深刻にならずにこれを読むことができるかもしれません。でもどうでしょう、私たちもまたこの渦中にいた
ならば? そこにあるのは、ただ人間の偏りと歪み、嫉妬と憎しみそして偽り、また罪と悪だけです。またその結果起こっているのは、人間が人間を傷つけ、陥
れ、見捨て、売り買いし、ひどい境遇に追いやり、ついには死に至らせて行く、その過程だけです。そしてそこには、「神」は一切登場されないのです。「主は
言われた」もなければ、「神はこうされた」もないのです。そしてこれは、今私たちが見ている世界、私たちが今まさに生きているこの世界そのものなのです。
いったい、この世界において、神はおられるのでしょうか。いったい、神はどこにいて、どうしておられるのでしょうか。
この章またこの周辺の箇所に登場する、「キーワード」があるそうです。それは、「見定める」また「認識する」と訳されている言葉です。ヨセフは兄弟たち
は、初めの計画通り父に嘘をついて偽りを語り、こう報告したと言われます。「彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長そで
の着物を父に持ち帰って言った、『私たちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見定めてください』。父はこれを見定めて言った、『わ
が子の着物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ』。そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆い
た。」「ヤコブは見定めた、認識した」と語られています。しかし、まったく見定めてはおらず、全然認識してはいなかったのです。「息子たちにつきつけら
れ、ヤコブはこの汚い布がヨセフの外套だったと認識しました(ナカル)。しかし、認識できなかったことがあります。ヨセフを噛み殺した悪い獣―――という
のは、自分の息子たちだったということを、ヤコブは認識していません。息子たちの本心をまったく認識していないからです。同じナカル(注 「見定める、認
識する」)は父イサクにも用いられています―――。イサクは、エサウかヤコブか認識できません。愛妻リベカの策略も認識できないのです。―――この「認
識」(ナカル)は38章においても42章においても登場する鍵語です。―――主人公たちは、重要な事柄を認識できないのです。ヤコブはヨセフが生きている
ことを認識できず、兄弟たちはヨセフがエジプトで出世する姿を認識できません。人が認識できないところで神の計画が進んで行きます。悪巧みを働く者は自分
たちだけが認識できていると考えます。神はその悪巧みすら用いて、救いの計画を起こします。その時わたしたちは、自分たちの小ささと神の大きさを知りま
す。」(城倉啓、泉バプテスト教会ホームページより)人は正しく認識することができません。私たちはこの世界と物事を正しく「見定める」ことができないの
です。そうではなく、「神こそが見定める」のです。主なる神こそが、ご自身の御計画と道とを正しく認識し、「見定め」ておられるのです。
ではいったい、神は、このような世界のどこにいて、何をどうしておられるのでしょうか。ここから始まる「ヨセフ物語」によって、聖書が私たちに語り告げ
ようとする主なる神のお姿と御業、神の行動と生き方と道があります。神は、何か「スーパーマン」「ヒーロー」のようにして、空の彼方から飛んで来て、ヨセ
フを助け、救い出したのではありませんでした。そうではなく、神はこのようにしてこの世界におられ、このように生き、働き、行動しておられたのだと、聖書
は私たちに語り告げるのです。「主がヨセフと共におられた」、「主がヨセフと共におられた」と繰り返し語られるのです。「主はヨセフと共におられた」、神
はそのような形で、主はそのような姿で、この世界におられ、この世界において生き、働き、歩んでおられるのです。それは、初めからずっとそうであったので
しょう。ヨセフが兄弟たちの憎しみと怒りを受け、穴に投げ入れられた時。ヨセフが、非人間的にも奴隷として商人に売られ、「人」ではなく「物」として売り
買いされた時。また後に、無実の罪で理不尽にも牢獄に放り込まれた時。一瞬にして信頼と名誉を失い、どん底の苦しみと屈辱に沈んだ時。そのすべての時にお
いて、その「どん底」においてこそ神はおられ、その「暗闇」においてこそ主は共におられたのです。私たちが見、生きているこの世界においても、主なる神
は、その「どん底」にまで下り、その「暗闇」において私たちと共にある、そのような仕方でこの世界におられ、生き、働き、歩んでいてくださるのです。
このような神のお姿と道は、すぐさま私たちに、あのお方イエス・キリストを思い起こさせます。イエス・キリスト、まさにこのヨセフと似たような生涯をた
どられた方。銀貨30枚で売られ、親しい者たちに裏切られ、見捨てられて、無実の罪に陥れられた方。「どん底」の苦しみと屈辱とを受けられた方。そしてこ
のお方は、ヨセフ以上、いやヨセフ以下でありました。ヨセフは後に助けられましたが、イエスは助けられることなく、十字架につけられ、呪いと裁きとを受け
て裁かれ殺されて、ついにみじめさと絶望の中に死なれたのです。しかしこのイエス・キリストにおいてこそ、神は私たちのこの世界におられ、この私たちと共
におられる! 「神こそが見定める」、そして「神こそが共にいる」のです。
だから、あのイエス・キリストの「復活」も、何か「ハッピーエンド」のように捉えてはいけないのではないでしょうか。イエスは十字架の死から復活して、
これからは「スーパーマン」「ウルトラマン」のようになって、いつしか空の彼方から飛んで来て、奇跡的にも私たちを助け出してくれる、そんな存在となった
のではないと思います。イエス・キリストにおいて、神は今も私たちの生きている「どん底」におられる、私たちが見ている、見ざるを得ない「暗闇」に共にお
られる。そのような仕方で今もなお、神は私たちと共におり、共に生き、共に歩んでいてくださるのだと思うのです。
「救い主イエスはひとびとから蔑まれ、見下されるような存在であるとイザヤ書は預言していた。地上にやって来たイエスは担ぎ上げられたあと、引きずり下
され、惨めな晒し者のように殺された。―――ひとは強烈な光など見上げ続けられない。ひとは下を見ていたほうが安心する。そのような悲しさとひとの哀れさ
を知っている神は、イエスを憐れみの極み、底辺に送った。イエスは、馬小屋のような場所でホームレスのように生まれた。そしてすぐにいのちを狙われ、エジ
プトに亡命したイエスは難民でもあった。現実を見れば明らかなように、神もイエスもこの世を救えない。変えることもできない。戦争だってなくならないし、
社会構造もちっともよくなりはしない。だが神は誰かの中に宿っている。ホームレスのように生まれ、難民にさえなったイエスは、今日もそのようなひとびとと
共に苦しんでいる。そのようなひとびとの中にこそ神はいる。大工出身の庶民であるイエスが、布教の旅で出会い愛したのは、病人、税金取りや娼婦、社会的に
軽蔑されているひとびとだった。―――イエスは輝かしい天国などにはいない。―――けれども、イエスは降りて来る。一番低いところ、誰も届かないほど低い
場所に落ちて来てくれた。そして最後は妬まれ、大切なひとびとに裏切られ十字架刑で命を奪われた。わたしはそのようなイエスの姿に神を見る。そしてこのイ
エスは、あなたが病で絶望している時、一緒に病気になっている。あなたがバカにされ軽蔑されるような時、イエスも一緒にあざけられている。誰にも絶対理解
されない絶望の中にあなたがいる時、ズタズタでボロボロにされたイエスだけはあなたの痛みを理解している。そして、イエスは今日もいる。」(関野和寛『天
国なんてどこにもないよ それでもキリストと共に生きる』より)
この不思議な計画と道を、「神こそが見定める、そして神こそが共にいる」のです。このお方とこそ、私たちは今週も共にあり、共に生きて行くのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
あなたは性格や人との関係に大いに問題のあったヨセフと共におられました。「スーパーマン」のようにではなく、そのヨセフが理不尽にも裏切られ、売り飛
ばられ、無実の罪で牢獄に沈んだその時にこそ、「主は彼と共におられた」という道において彼を助け、導いてくださいました。今あなたは、御子イエス・キリ
ストにおいて、「神我らと共にいます」お方によって、この上なく理不尽で不条理な、そして私たち人間自身の罪と悪によって甚だしく傷つき損なわれた世界の
ただ中で私たちと共にあり、共に生きてくださいます。この不思議なご計画と道を、ただあなただけが「見定め」ておられます。
どうか今私たちも、このイエスによって与えられる信仰によって、あなたの道と業とを受け止め、受け入れ、あなたと共に生きて行くことを始めさせてくださ
い。そして、この世界であなたと共に、あなたが先立っていてくださる、その愛と憐れみと救いの業に仕え、働き、生きて行くことができますよう、今週も私た
ち一人一人と教会を送り出し、共におり、用いてください。
すべての、あらゆる人の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。