必ず、ずっと、共にいる神
創世記第31章1〜3節、38〜42節
今日のメッセージの題は、図らずも、本当にわざとしたわけではないのですが、しり取りになっています。「必ず、ずっと、共にいる神」。
さてヤコブは、兄の憎しみと復讐を逃れるために、家を出て逃亡生活に生きる羽目になりました。遠くハランにある伯父ラバンの家に身を寄せることとなった
のです。しかし、このラバンの家での生活は、言い難く、語り尽くせないほどの苦労と悲しみに満ちたものでした。まず何よりヤコブは、伯父ラバンによって二
十年もの間、ただ働きに等しい扱いを受けて働かされました。労働と正当な賃金の搾取です。また、ひどいだましもありました。ヤコブは、ラバンの二人娘のう
ち妹ラケルを愛して、彼女と結婚させてやると伯父に言われたのですが、ところが実際はラケルと偽って姉レアと結婚させられてしまいます。後にラケルとも結
婚できたのですが、これはヤコブにとって大きな傷となり、また後の家族関係の複雑さをももたらしたと思います。
そのようにして、苦労と我慢の二十年が過ぎて、ついにヤコブと伯父ラバンとの関係は、行き詰まり、破綻し、決裂してしまいます。「ヤコブはラバンの子ら
が、『ヤコブはわれわれの父の物をことごとく奪い、父の物によってあのすべての富を得たのだ』と言っているのを聞いた。またヤコブがラバンの顔を見るの
に、それは自分に対して以前のようではなかった。」この2節の言葉は、次のようにも訳され、解釈されることができるそうです。「『そしてヤコブはラバンの
顔を見た。そして見よ、それは彼と共に存在しない、昨日・一昨日のように』(2節)。ラバンの顔が、この時点からヤコブと共に存在しない。ということはこ
の時点まで、ラバンの顔はヤコブと共に存在していたということになります。『顔』は、人あるいは神の臨在を象徴するものです。神の顔は、民に向けられた
り、民に同伴したり、民を先導したりします。ラバンの顔が、ヤコブと共に存在しなくなるということは、ラバンがヤコブと共に生きる意思を失ったということ
を意味します。もはや利用価値がなくなったからであり、むしろヤコブが自分を踏み台にして出世していくからです。」(城倉啓、泉バプテスト教会ホームペー
ジより)
伯父ラバンとヤコブとの関係は、利用価値がなくなったら、捨て去ってしまうような関係なのです。自分が不利益を被ることになるなら、「共にいなくなる」
ような関係なのです。ということは、もともと伯父ラバンは、ヤコブと「共に生きよう」とは思っていなかったのではないでしょうか。ある意味で、人間と人間
との関係は、突き詰めて冷酷に眺めれば、そういう側面を否応なく持ってしまっているかもしれません。もともと疎遠でよそよそしかった関係ばかりではないの
です。親密に尊敬と愛情をもって築かれた関係さえも、人間の不誠実と偽りと罪のゆえに、一瞬で崩れ落ちてしまうことさえあるのです。イエスの弟子ペテロは
どうだったでしょうか。あれほど慕い、敬い、従い、文字通り寝起きを共にして過ごしてきた愛する師イエスを、三度も、念を押し、神に誓ってまで「あの人は
知らない、そんな人を知らない、決して知らない」と否定してしまったのです。
ヤコブの人生の最大の危機の一つが、またやって来ました。さあ、ヤコブはいったいどうするのでしょうか。聖書は、ここで主なる神の介入と宣言・命令を語
ります。主は、そのような危機において、「臨み、語ってくださる方」なのです。「主はヤコブに言われた、『あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさ
い。わたしはあなたと共にいるであろう』。」神は言われます、「今だ、今こそあなたは帰りなさい。」そして神が与える約束はただ一言、たった一つです。
「わたしはあなたと共にいるであろう。」そして、この一つで、必要にして十分なのです。「神は共にいる」のです。けれども、人は「共にいない」のです。も
はや「共にいない」、いまや「共にいない」、決して「共にいない」のです。しかし、それに反して、全く反して、「神は共にいる」のです。主なる神は、かつ
てヤコブにこう語り、約束してくださいました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わ
たしは決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう。」そして主なる神のひとり子私たちの救い主イエス・キリストの別名は、「インマヌエル」
「神われらと共にいます」です。イエス・キリストは語られます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28・
20)聖書の神、主なる神は、「共にいる神」、「必ず、ずっと、共にいる神」なのです。「ラバンの顔がヤコブと共に存在しなくなった直後に、神は自分の顔
をヤコブに向け、ヤコブに神ご自身が伴い、神ご自身がヤコブを導いていることを告げます。聖書の約束する救いは、神が常に共におられるという原事実にあり
ます。イエス・キリストのあだ名がインマヌエル(わたしたちと共なる神)であることとぴったりと重なります。わたしたちが孤独を感じ、誰も隣にいないと感
じる時にも、いやまさにそのような時にこそ、神はわたしたちと共にいます。それを知るだけで、人生は軽くなります。だから神があなたと共にいるという事実
は、わたしたちを復活させ生き直す力を持っています。神我らと共に。天地創造の昔からこの救いの事実は、わたしたちが認めようが認めまいが、揺るぎませ
ん。」(城倉啓、同上)
ヤコブは、この主の言葉を受けて、妻たち家族の同意を得、妻と子たち、また家畜などの財産をすべてたずさえて、ひそかにラバンのもとから逃げ出します。
「そこでヤコブは立って、子らと妻たちをらくだに乗せ、またすべての家畜、すなわち彼がパダンアラムで得た家畜と、すべての財産を携えて、カナンの地にお
る父イサクのもとへ赴いた。―――またヤコブはアラムびとラバンを欺き、自分の逃げ去るのを彼に告げなかった。こうして彼はすべての持ち物を携えて逃げ、
立って川を渡り、ギレアデの山地に向かった。」
しかし三日目になると、ラバンもヤコブの逃亡に気づき、執拗に後を追って来ました。そしてついに、追いついたのです。追いついたラバンは、ヤコブを責め
て言います。「なぜあなたはわたしに告げずに、ひそかに逃げ去ってわたしを欺いたのですか。わたしは手鼓や琴で喜び歌ってあなたを送り出そうとしていたの
に、なぜわたしの孫や娘にわたしが口づけするのを許さなかったのですか。」「心にもないことを」と思いますが、そう言われてしまいました。また、「ヤコブ
がラバンの大切な神の像を盗んだ」という疑いまでもかけられてしまったのです。これは実は、ヤコブの妻ラケルが黙ってしたことで、ヤコブ自身はあずかり知
らぬことだったのですが、そのことで隅から隅まで家探しをされて、結局神像は出て来なかったということで、ヤコブの疑いは晴れました。
その時ヤコブは、もう我慢できなくなったのでしょう、ラバンに向かって、堰を切ったようにして反論と抗議の言葉をぶつけるのです。それが、36節から
42節までの、ヤコブの切々と語られる言葉です。「わたしにどんなあやまちがあり、どんな罪があって、あなたはわたしのあとを激しく追ったのですか。」そ
して、この二十年間、自分がラバンから受けた搾取とだまし、ひどい仕打ちを訴えるのです。「わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなた
の雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。また野獣が、かみ裂いたものは、あなたの
もとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。わたしのことを言
えば、昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。わたしはこの二十年あなたの家族のひとりでありました。わたしはあなたのふたりの
娘のために十四年、またあなたの群れのために六年、あなたに仕えました。あなたは十度もわたしの報酬を変えられました。」
しかしやがて、この反論と抗議は、主なる神への信仰告白と証しへと変わって行きます。そのようにあなたは、わたしに対して、ひどい、不当な仕打ちをなさ
いました。しかし、「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクのかしこむ者がわたしと共におられなかったなら、あなたはきっとわたしを、から手で去
らせたでしょう。神はわたしの悩みと、わしの労苦とを顧みられて昨夜あなたを戒められたのです。」もしも主なる神が私と共におられなかったならば、私はあ
なたのひどい、不当な仕打ちをただ受けるままで、何の助けも慰めもいやしもなく、空手でここを去る羽目になっただろう。しかし、そうではない。決してそう
ではない。「主なる神は共におられた。主は私と、必ず、ずっと、共にいてくださった。」
主が共にいる、必ず、ずっと、共にいる、それが、それこそがヤコブにとっての救い、まさにヤコブの救いそのものだったのです。「ヤコブは正しく自分の救
いを認識しています。顔も向けずに共に生きようとしない隣人が自分を苦しめていること、その最中にも神だけはずっと共にいらしたこと。これが救いです。」
「『エフエの神(注 主なる神の名前)が、あなたと共に』いるということを受け取ることです。これこそ救いです。誰も共にいないと思い込むことはありませ
ん。神は共にいて自由と尊厳を与えます。その神はあなたに、共に生きるべき隣人を教え、また与えます。その人たちと言葉を尽くして共に生きるのです。それ
が救いです。」(城倉啓、同上)
こうして「主が共におられる」ことを知らされ、それによって生かされるとき、私たちにもまた、不思議な力が与えられます。神様のようにはできないけれど
も、それでもだれかと「共にいる、共に生きる、共に生きようとする」、その思いと力と道とが備えられ、与えられ、開かれるのです。自分を三度否定し、裏切
り、逃げるであろうペテロに向かって、イエス・キリストはこう言われました。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それ
で、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・32)私は、あなたがわたしを否定し裏切るその時にも「あなたのために祈
り、あなたと共にいる」、だからあなたも「兄弟」「姉妹」「人」を力づけ、「共にいて、共に生きなさい」。
「必ず、ずっと、共にいる神」、このお方が私たちと、その一人一人と共におられます。「必ず、ずっと、共にいる神」、この方が今週も私たちを支え、導かれるのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
あなたは「必ず、ずっと、共にいる神」です。苦難と涙のすべての道において、あなたはヤコブと共におられました。またヤコブが、欺く者、出し抜く者、奪
い取る者であっても、あなたは彼と共におられました。そしてついにあなたは、すべてのあらゆる者たちの神、イエス・キリストの神、インマヌエルの神として
現れ、来られ、こう約束してくださいました。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
このあなたの愛と真実の約束のゆえに、私たちも生きる勇気を得、共に生きようとする思いと力と道とを与えられます。どうか私たち一人一人と教会が、「必
ず、ずっと、共におられる」あなたの愛と真実とを、言葉と行いと生き方とをもって表し、伝え、分かち合って行くことができますよう、支え、導き、お用いく
ださい。
まことの道・真理また命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。