ここで、あなたと共にいる                                    
                                             
創世記第28章10〜22節

   
  今、ヤコブは逃亡者となったのです。「逃亡者ヤコブ」。父イサクを騙し、兄エサウを出し抜いて祝福を奪い取ったヤコブは、もうそのまま家にいることができ なくなり、母の勧めで遠く離れたカルデヤまで逃げて行くことになったのです。「ヤコブは今や逃亡者であり、普通考えられている意味でのあらゆる保護と社会 的保障の外側にいる。」(ブルッグマン)
 またヤコブは、寄る辺なき「放浪者」「野宿者」ともなったのです。「さてヤコブはベエルシバを立って、ハランヘ向かったが、一つの所へ着いたとき、日が 暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。」「『石の枕』とは絶望の一つの表現であります。改めて考えてみます と、イスラエル民族の歴史は苦難の歴史です。彼らはしばしば石を枕にするような苦難を受けました。エジプトでの奴隷生活、アッスリアの支配、バビロンへの 捕囚、ペルシャ、ギリシャの支配下での苦しい生活、そしてロ−マの支配。彼らは先祖ヤコブの石を枕にする姿と、自分の苦しみに満ちた生涯を重ねあわせて見 ていました。」(ブログ「ナーハルトーブの里(吉川教会)にようこそ!」より)それはまた、断絶、流浪、孤独、罪責、絶望を意味していました。

 そうして、泣きながら寝入ったかもしれないヤコブでしたが、その晩彼は一つの夢を見ました。夢にも色々ありますが、これは彼の潜在意識とか願望を反映し たものではなく、神から来た夢、神の御心と御計画を示す夢だったのです。「時に彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の 使たちがそれを上り下りしているのを見た。」
 「はしご」と言いましても、これは私たちが知っている「脚立」のようなものではなく、これは「傾斜路かせいぜい段差をつけられた土盛りを表わす」という ことです。また、「バビロニアの巨大な塔型神殿では、その最上階に神の住まいの象徴があり、これに対して下の地上には顕現の神殿が置かれていた。そして上 から下に向かって、この種の祭儀的建物の特徴である傾斜路が通されていた」のでした(フォン・ラート)。この「傾斜路」「階段」の上を、神の天使たちが忙 しそうに下ったり、上ったりしていたのです。
 この夢、この不思議な夢は、いったい何を意味しており、何をヤコブに向かって伝えようとするのでしょうか。

 それはまず、何より「はしご」「階段」とは「つなぐ」ものであるということから来ます。神のいる天と、ヤコブのいる「ここ」とは、確かに「つながって」 いるのです。この場合、その方向性がとても大切です。この「はしご」は、あの「バベルの塔」のように、下から上へと建て上げられて、人間が自分の力と欲望 さらには傲慢に基づいて、何とかして天にまで届いてやろう、神と肩を並べてやろうと、そのようにしてつながろうとするものではありません。聖書の元の文に は、この「はしご」は「地に向けられて」立っていたのだと言うのです。人間から神へ、地から天へ、下から上ではなく、上から下へ、天から地へ、そして神か ら人へと、一方的に、ただ恵みによって差し伸べられ、築かれ、届いている、そんな「はしご」であり「階段」なのです。
 しかも、それは単に物理的に「つながっている」のではありません。天におられる神が、この「逃亡者」「野宿者」、この世で追い出され、逃げ出し、困窮 し、絶望しているヤコブという一人のみじめな人間とつながり、ほかでもない彼とひたすらつながりを持とうとしていてくださることなのです。

 次に、この「はしご」は、単につなぐだけのものではありません。その「はしご」の上を天使が下り上りしている。天使はいったい何をしているのでしょう。 ダイエットのため運動をしているのでしょうか、それとも何か「天使の運動会」でもしているのでしょうか。いいえ、天使とは「神の使い」であり、神の御心に 従って運動し、働いているのです。ですから、天使は決して「空手」ではありません。神のもとから、このヤコブに向かって、まさに現実的に神の祝福を、その 助けと導きを、具体的なすべての善きものを運び、もたらそうとするのです。反対にヤコブのところからは、彼の求め、訴え、祈り、叫び、そのすべての声と思 いとを、天使は確かに神のもとへと運び、届けるのです。この「はしご」を通して、神の祝福は確かに、そして具体的・現実的にヤコブのもとへと届くのです。

 さらに、「はしご」「通路」ができると、その場所の性質が変えられます。全く新しい場所へと変えられるのです。以前四国の今治教会で奉仕をさせていただ いた時に、こんな話を聞きました。四国が本州と橋によって繋げられる前は、とても不便で困ることがあった。急病で本州の病院に行かなければという時でも、 台風や嵐の時には行くことができないことが多かった。しかし今橋ができて繋げられた今は、はるかに楽に、短時間で、出かけて行くことができる。橋ができ て、その場所の性質が変わったのです。
 まさにそのことが、いやはるかにそれ以上のことが、ここに起こっているのです。神のおられる天と、ヤコブのいるこことが、「はしご」によって繋げられる とき、ヤコブのいる「ここ」が、全く新しい場所へと変えられるのです。「ここ」はもはや、ただ「苦しみの場所」「窮乏の場所」、「惨めな場所」「絶望の場 所」ではありません。確かに苦しみはあり、心を打ち砕くようなことが起こる場所ではあります。しかし、この「ここ」が、天とつながっている、神によって繋 げられているのなら、「ここ」に神の祝福は確かに流れてくる、神の助けは確かにここに来る、そして「ここ」から神の善き業は確かに始まり、神の最善の計画 は確かに始まって行く、そのような場所へと新しく変えられるのです。
 それを裏付けるように、神はヤコブに対して今、祝福の約束を確言なさいます。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏し ている地を、あなたと子孫とに与えよう。」「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたし は決してあなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう。」

 聖書の神は、太古の初めから現代に至るまでそのようなお方、この逃亡者ヤコブと関わりを持ち、彼また彼のようなすべてのあらゆる人々と共にいて、彼らを 祝福する方なのです。「1970年代の韓国は、軍事独裁政権のもと、民主化を求める民衆に対する弾圧は過酷をきわめておりました。―――文益煥牧師は、牢 獄の生活をするのが私の仕事であると言われたほど、その生涯の多くを政治犯として生きられた方ですが、こう書いています。『「牧師がなぜ政治をするの か」、これは一応質問になります。しかし「牧師がなぜ人権運動をするのか」、これは質問にもなりません。牧師が人権運動をしないとしたら、それこそ職務放 棄です。人権守護を差し置いてなされるすべての善きこと、美しきこと、立派なことは、みな偽善です。』―――『私は牧師の職業意識というか、習慣という か、そんなせいで獄中の不遇な人々を思いつつ祈りを捧げずにはおれませんでした。―――私の祈りが彼らの中でため息となることも発見しました。彼らのため 息が、私の祈りが、そのまま神のため息、神の祈りとして聞えてくるのでした。』―――彼が見いだした神は、じつに、天の上に君臨する神ではなく、虐げら れ、見捨てられた人々の中に、だれもが忌み嫌う牢屋の中に、うめきと、ため息と、嘆きの、言葉にならぬ言葉を発する方として実在していたと言うのです。ま さに『どん底におられる神』の発見です。」文牧師は、その牢獄の中にも、その苦しみと悲しみ、また溜息と叫び、絶望に満ちた「ここ」にも、「神のはしご」 がまさに届いていることを見出したのでした。このことを知らされた一人の信仰者は、それによって自分自身の解放と救いを見出します。「これなら、イエスを わが師と仰いで、彼の看板を背負って生きることができる。ある時は障害と闘う友人が私のイエスとなりました。ある時は学校権力に踏みつけられている子ども が私のイエスとなって、私の生きる道を教えてくれました。私のイエスを探す旅が始まり、たくさんの出会いの中にイエスの存在、イエスの祈り、彼の涙を見つ けました。また、彼の笑顔を見つけました。イエスは私たちの足の下におられて、そこで人間世界に仕え、僕となり、私たちの命のためにご自分の命を日々捧げ 続けておられる。それならば、もはや自分の品性に点数をつける必要はない。神の裁きにおびえることもない。あてもなく上に昇る虚しい努力の疲労困憊とも決 別できる。上に昇ってそこから世界を見おろすのではなく、この世の最も低いところを探して、そこに足をふまえて、ため息のような祈りをし、そこに命を味わ うことができる。」(加藤潔『イエスを探す旅』より)「神のはしご」は、この世界のここかしこに、とりわけ苦しみと悲しみ、また不正と不条理が渦巻く、 「この世の最も低いところ」「ここ」に届いているのです。

 そして何よりイエス・キリストが、この「はしご」について語っておられます。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ2・51)
 ヤコブの夢では、「はしご」の上を天使が上り下りしたけれども、今回は「人の子」の上を天使が上り下りするようになる、と言われるのです。「人の子」と は、イエス様がご自分のことを呼ぶ言い方です。つまり、「わたしが、あのヤコブの見たはしごなのだ。私こそが、天と地とを結ぶ、まことのはしごなのだ」 と、主イエスは言われるのです。
 そうです、イエス・キリストによってこそ、確かに、そしてもはや決して途切れることも、断ち切られることもなく、天と地は、神と私たち人間、しかも罪人 との関わりは、確かに繋げられ、結びつけられたのです。「兄弟たちよ、こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいるこ とができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道を通って、はいっていくことができる」。
(ヘブル10・19)神はイエス・キリストにおいて、私たちすべての者に常に語りかけていてくださるのです。「ここで、あなたと共にいる。わたしのいる天と、あなたのいるそことは、確かに繋がっている。わたしとあなたとは、切っても切れず結ばれている。」

 ヤコブは夢から醒め、そして新しい言葉をもって、新しい道と生き方とに踏み出して行きます。「主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます。」
 「ここで、あなたと共にいる」、この神の語りかけを聞くなら、そこからあなたのいる場所、生きる道が変えられ、変わります。そこが「神と繋がる場所」、 「天の門」とされるのです。私たち一人一人の生涯が、そして私たちが神を礼拝し共に生きるこの教会が、「天の門」とされて行くのです。

(祈り)
私たちすべてのものを創られ、イエス・キリストにおいて私たちのすべての者を極みまで愛された神よ。
 逃亡者ヤコブに向かって、あなたは天からのはしごを懸け、あなたのおられる天と彼のいる地とを結び、この道を通して彼を祝福し、助け、導くと約束されました。
 この祝福の約束は、今やイエス・キリストによって、私たちすべての者のために開かれ、届けられていますから、心から御名を賛美いたします。「ここで、あ なたと共にいる」、あなたの語りかけを聞きながら、新しくされた私たちの場所から、あなたに向かって、隣り人と共に、感謝と喜びをもって、希望に向かっ て、信仰と愛によって新しい生き方へと踏み出して行くことができますよう、私たち信仰者一人一人とその教会を祝し、導き、お用いください。
まことの道、真理、命なる救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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