思いもよらない神の祝福によって                                    
                                              創世記第27章1〜30節

   
  前回は、双子の弟ヤコブが、兄エサウから「長子の特権」をかすめ取ったことを共に聞きました。今日の所では、それがさらにエスカレートして行きます。今度 は、ヤコブを偏愛する母リベカと共に謀って父イサクをだまし、やはり兄エサウから「神の祝福」そのものを奪い取る姿とその過程が描かれています。
 父イサクは、ヤコブが兄から「長子の特権」を取り上げたことを聞きました。そして自分自身も年老い、そう先が長くないことを悟るようになりました。ここ で、少なくとも「神の祝福」だけは、愛する長男エサウに譲り渡して死んで行きたいという願いを持つに至ります。「イサクは年老い、目がかすんで見えなく なった時、長子エサウを呼んで言った、『子よ』。彼は答えて言った、『ここにおります』。イサクは言った、『わたしは年老いて、いつ死ぬかもしれない。そ れであなたの武器、弓矢をもって野に出かけ、わたしのために、しかの肉をとってきて、わたしの好きなおいしい食べ物を作り、持ってきて食べさせよ。わたし は死ぬ前にあなたを祝福しよう』。」「『親から子への祝福』です。その内容は、『自分の全存在』を与えることです。4節『わたし自身の祝福をお前に与えよ う』の直訳は、『わたしの全存在(ネフェシュ)がお前を祝福する』です。ネフェシュはしばしば『魂』と訳されますが―――全体としての命そのものが元々の 意味です。イサクのネフェシュがエサウを祝福することは、イサクの生命そのものがエサウに移り住むことを意味します。イサクがエサウに継承させたかったこ とは、自分の人生・生き方・生活全てです。―――命あるうちに最愛の息子に自分自身の全てを継承する祈りを捧げたかったのでしょう。」(城倉啓、泉バプテ スト教会ホームページより)そこでエサウは、期待を膨らませて、喜んで出かけて行きました。
 ところがこの会話を、影で聞いていた者がおりました。母リベカです。リベカは、ヤコブをこっそり呼んでこう持ち掛けました。「子よ、わたしの言葉にした がい、わたしの言うとおりにしなさい。群れの所へ行って、そこからやぎの子の良いのを二頭わたしの所に取ってきなさい。わたしはそれで父のために、父の好 きなおいしい食べ物を作りましょう。あなたをそれを持って行って父に食べさせなさい。父は死ぬ前にあなたを祝福するでしょう。」父イサクが目が見えないの をいいことに、兄エサウと弟ヤコブを入れ替えさせ、ヤコブに「エサウだ」と偽らせて、兄が受けるはずであった「神の祝福」をだまし取ろうと提案したのでし た。ヤコブは最初はためらいます。いくら父が目が見えないと言っても、まずそもそも声が違う、そして致命的には兄は毛深く、自分は肌がすべすべ、それでは すぐに露見して、かえって父の呪いを買うだろうと。これに対して母は強く答えます。「子よ、あなたが受けるのろいはわたしが受けます」。だからやりなさ い。ヤコブもとうとうその気になります。彼は急いでやぎを取って来て、母に渡します。母は超特急で料理を完成させ、ヤコブに持たせます。ヤコブは、自分の 腕に動物の毛皮を貼り付けてエサウに化け、父の前に出ます。父は問います、「お前は誰か」。彼は偽り答えます。「長子のエサウです。―――どうぞ起きて、 すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください。」ここで父は疑問を発します。「どうしてこんなに早くできたのか」。ヤコブは 天性の悪知恵で答えます。「神様がわたしに恵みをくださったのです。」父はそれでも疑いを捨てきれず、彼の腕に触ってみます。そうして半信半疑ながらも、 ついに騙されてしまいました。「イサクは言った、『わたしの所へ持ってきなさい。わが子のしかの肉を食べて、わたしみずから、あなたを祝福しよう』。 ―――彼が近寄って口づけした時、イサクはその着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った、『ああ、わが子のかおりは、主が祝福された野のかおりのようだ。 どうか神が、天の露と、地の肥えたところと、多くの穀物と、新しいぶどう酒とをあなたに賜るように。もろもろの民はあなたに仕え、もろもろの国はあなたに 身をかがめる。あなたは兄弟たちの主となり、あなたの母の子らは、あなたに身をかがるであろう。あなたをのろう者はのろわれ、あなたを祝福する者は祝福さ れる』。」
 こうして祝福を受けたヤコブは急いで去って行きました。すると間一髪、入れ違いで兄エサウが帰って来ました。エサウはいそいそと父に料理を差し出して祝 福を求めますが、「後の祭り」でした。父は驚き、怒りますが、もうどうにもなりません。「エサウは、自分にも祝福をと願います。しかし一子相伝の祝福にお いては、『二人にも』はありえません。『どちらも」ではなく『どちらか』なのです。そしてそれは、家父長制という制度の中の厳しいルールです。―――祝福 は一つのものであり、一人の族長から一人の後継者に一子相伝で継承されると固く信じていたからです。どちらもでもなく、二分の一にもならず、二倍にもなら ないというのがルールだったのです。」(城倉、同上)エサウは、泣き叫び、弟に対する復讐を心に誓いました。「こうしてエサウは父がヤコブに与えた祝福の ゆえにヤコブを憎んだ。エサウは心の中で言った、『父の喪の日も遠くはないであろう。その時、弟ヤコブを殺そう』。」

 皆さんは、この一連の過程を見て、どう思われますか。はたして、こんなことが許されるのでしょうか。この間、主なる神はどこにおられて、どうされていた のでしょうか。非常に顕著なことですが、この一連の間、聖書には一言も神様が出て来ません。神様の行動、御業はおろか、神様のお告げ、言葉も一切、一言も 出て来ません。まるで神様は、リベカとヤコブのたくらみと行動を、黙って静かに見守っておられるかのようです。一体どう考えればよいのでしょうか。
 一つ少なくとも言えることは、それほどに神様は、人間の「自由」というものを最大限、時には「やり過ぎじゃないか」と思えるくらいに重んじておられるの ではないか、ということです。その「自由」の中には、ある意味で「悪を図り、悪を実行する自由」も含まれています。母リベカとヤコブの計画と行動は、「だ ますこと」であり、夫また父の人間としての尊厳を損なうことであり、その権利・権限に対する重大な侵害です。それが「悪」「罪」であることは神の前におい て間違いことですが、しかしここで聖書が語ろうとしているのは、「しかしその中で、そのような人間的な罪と悪の中でも、そのことをすらも用いてご自身の計 画を進めて行かれる神様の姿」なのではないかと思わされるのです。その「神の御計画」とは、エサウではなく、このヤコブに「祝福」を受け継がせるというこ とです。

 こう語って来ると、なんだか「ひどい、残酷な神様」のようですが、一つ大きな注釈と補足をしたいと思います。それは、そもそも母もヤコブ自身も、「神の 祝福とは何か」ということが、全然わかってはいなかったのではないか、ということです。そういう意味では、父イサクでさえ、そしてもちろん兄エサウはわ かっていなかったのではないか、ということです。彼らは皆、「神の祝福」というものを、人間的な制度と慣習の枠の中だけで、この場合は「家父長制」という ものですが、その枠の中だけで捉えていたのではないか、ということです。さらに決定的ななのは、彼らはその「祝福」を、自分の思いの中だけ、自分の願望と 求め、計画と見通しの中だけで捉えていたのではないか、ということです。
 私がこう言いますのは、聖書は私たちが考え、思い描くような「祝福」を表してはいないからです。皆さん、「祝福」、しかも「神の祝福」って、いったい何 ですか。「この世的な幸せ」ですか、「冨や地位、健康と長寿、そして良好で豊かな人間関係に恵まれること」ですか。それで言うなら、「祝福」を受けたはず のヤコブは、全然「幸せ」「幸福」そうに見えません。むしろ、ヤコブは「苦難」を負って行くことの方が多いように思えます。彼は、先に申しましたように、 兄エサウから恨みを受け、それを避けるために家を出、放浪の身とならねばなりません。家を出て無一物でさまよう人に、「長子の権利」とか、いったいどんな 意味があるのというのでしょうか。その上、これは一時的な「避難」を超えてしまい、彼はその後20年もの間、他国で生活する羽目になるのです。おまけに、 愛する母にはもう二度と会えなくなるのです。その他国での生活も、艱難辛苦に満ちたものでした。その末に、ようやく財産と家族を得るのですが、どうにも 「引き合わない」という感じがしてなりません。その反面、「祝福」を得られず「呪い」を受けたはずの兄エサウはどうでしょう。後に彼はヤコブと再会するの ですが、その時兄は「400人ものしもべと、おびただしい数の家畜を持ち、ヤコブを脅かすほどの勢力」を築いていたのです。もし「神の祝福」が、この世 的・人間的な繁栄や安定を指すのなら、兄エサウこそ「祝福された人」ということになるのではないでしょうか。しかし一貫して聖書は語るのです。「神はヤコ ブを選び、ヤコブを祝福された。」いったい、どういうことでしょうか。

 彼らは皆、そして私たちも皆、「祝福」ということ、とりわけ「神の祝福」を誤解していたのです。「神の祝福」は、私たちの「思いもよらない」ものだったのです。では、「神の祝福」とは何ですか。
 「この祝福の祈りが、単純にモノに溢れる、豊かさを約束するものではなかったことは確かなのです。ただ、ヤコブは、イサクの祝福の後、その言葉を頼り に、叔父ラバンのもとでの不当な仕打ちに耐え、エサウからの復讐を恐れることもなく、また、その後家族によって引き起こされた面倒ないさかいからも守ら れ、支えられたと言えます。つまり、この祝福は、アブラハムやイサクの信仰を受け継いで、神を頼り神と共に生きるという無形の財産だったということで す。」(ホームページ「パスターまことの聖書通読一日一生」より)「神さまがイスラエルを回復させ、そこで現実となる祝福は『主なる神の御声に聞き従うこ と』です。神様のみ声に聞き従うことによって何かを与えられるのではありません。祝福はほかでもない、神さまに聞き従うことそのものなのです。」(林 健 一、『世の光』2024年7月号より)
 「神を頼り神と共に生きる」こと、「神さまに聞き従う」ことそのもの、それがまことに「神の祝福」なのです。それはそもそも、主なる神が共におられ、主 なる神が私たち人間を愛していてくださるからこそ、成り立っていることなのです。この「思いもよらない神の祝福」について、聖書は私たちに語り告げるので す。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。―――それは、アブラハムの受けた祝福が (注 このヤコブも受けた祝福が)、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」 (ガラテヤ3・13〜14)イエス・キリストは「山上の幸い(祝福)」においてこう語られました。「神の国はその人たちのものである。」「『神の国』と は、『神様のお取り仕切り』です。『神様のお取り仕切り』、神様の支配と導きがある、―――『神様に愛され、神様に支えられ、神様に導かれること』 ―――。イエス様は『あなたをどこまでも愛する方がいる、あなたをどんなときも支える方がいる、あなたをあくまでも最後まで導く方がいる、それは神様だ、 そういう神様があなたのために、あなたと共におられること、これが幸せ、これが幸いなのだ』と言われるのです。それだけでなくて、この『幸い』を、宣言 し、約束してくださるのです。イエス様が言葉を語られ、イエス様の言葉が聞かれるそこに、もうすでに『神の国』が来るのです。『神の国』の力と支配と働き が及び、始まって行くのです。」それは、イエス・キリストの「十字架」、神の御子ご自身が苦難を受けることによって、私たち皆に届けられ、無条件で、何の 見返りも必要な義務もなく、「ただで」「恵みによって」与えられました。「神を頼り神と共に生きる」こと、「神さまに聞き従う」こと、それは私たちの生き る力であり、私たちの汲めども尽きない希望であり、私たちが互いに愛し共に生きる愛の源です。
 ヤコブは、この「思いもよらない神の祝福」を知らずして受け、それによって生かされ、生きました。私たちもまた、この「思いもよらない神の祝福」を、イ エス・キリストによって与えられ、神の愛によって生かされ生きています。私たちにできること、そして私たちがすべきことは、この「思いもよらない神の祝 福」を共に喜ぶこと、そしてそれを共に語り、伝え合い、分かち合うことではないでしょうか。「思いもよらない神の祝福」、それによって、今日も、また今週 も、私たちは共に生かされ、生きて行くのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたは不思議にもヤコブを選び祝福されました。また不思議にも、イエス・キリストによって私たち一人一人をも選び、祝福してくださいました。それは、 「思いもよらない神の祝福」でした。「神を頼り神と共に生きること」「神さまに聞き従う」こと、それが「祝福」であり、私たちを生かし、互いを共に生かす 力です。
 どうか、この「祝福」を改めて信仰において受け、分かち合い、互いに助け、共に生きて行く私たち一人一人また教会としてください。またこのあなたの「祝福」を、世の多くの様々なあらゆる人々に届け、証しし、分かち合って行く私たちを、支え、導き、お用いください。
まことの道・真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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