神の不思議な愛と選びによって
                                     創世記第25章27〜34節

   
  私たちの中には、長年何年にもわたって聖書を読んで来られた方がおられるでしょう。私もその一人です。そういう私たちには、いつしか「既成概念」というも のができてしまっているのではないでしょうか。要するに、「決まりきった考え」が染みついてしまっているのです。そういう「決まりきった考え」「既成概 念」によって、「決まりきった」ように聖書を読んでしまっていることが多いように思います。今日のこの箇所にもまた、そういう「決まりきった考え」による 解釈・読み方があると思います。そして私には今、そういう読み方への疑いがあります。「創世記25章にはヤコブとその兄エサウがレンズ豆の煮込み一杯と長 子の特権を取り引きした様子が描かれています。この出来事から一般的に長子の特権を軽んじたエサウを不品行者と断罪するメッセージを多く耳にしますが、 (ヘブル人への手紙12章を根拠)そのようなメッセージでエサウの弱みにつけ込んだヤコブの狡猾さを断罪する話は聞いたことがありません。ヤコブは母のお 腹にいるときから双子の兄エサウと争い、兄のかかとを掴んで生まれてくるほど好戦的で意地の悪い人物だったにもかかわらずです。そんな創世記25章の物語 は、エサウを噺の魚に不信仰を戒めているのでしょうか。」(重田 稔仁、上野の森キリスト教会ホームページより)

 むしろここにあるのは、「壊れた家族」「壊れている家族」の物語ではないでしょうか。「これは放蕩息子の話ではなく(注 「放蕩息子のたとえ」について のメッセージにおいて)、壊れている家族の物語だ。だからこそ、壊れた家族関係の中に生きる私たちに届くのだ。―――この世界のすべての家族は、形は違え ど歪んでいる。なぜなら、家族だからだ。家族とは、神が創造したこの地上で最も貴い器かもしれない。けれども、家族はこの地上でいちばん壊れやすく、互に 傷つけ合ってしまう最も儚い器でもあるのだ。聖書に出てくる家族も問題だらけだ。アダムとイヴの家族、ノアの方舟家族など―――まさにカオス状態だ。聖書 は目を伏せたくなるような人間世界の現実を書き記している。けれども、そのどうしようもない家族を、どうしようもないオヤジ(注 神のこと)が何とかしよ うとしているのだ。」(関野和寛『きれい事じゃないんだ、聖書の言葉は』より)
 そうです。父イサクと母リベカ、双子の兄弟エサウとヤコブの家族もまたひどく「壊れている」のです。どんなふうに「壊れている」のでしょうか。

 まず、ここには父母たちによる息子たちへの偏愛があります。「さてその子たちは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やか な人で、天幕に住んでいた。イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。」「親も人間です。どんなに等しく愛したつ もりでも、子どもに対する相性があったり、場面によっては特定の子どもを贔屓したり、どこかの場面で埋め合わせるつもりがかえって不均衡になったり、色々 あります。子どもたち各人には、親の覚えていないところで親を恨みに思うことが、ありえます。ましてやイサクとリベカの、エサウとヤコブに対する偏愛は もっと露骨だったのです。ヤコブはイサクを恨みに思っていたでしょう。しかし反抗はできません。家父長制のもと、家からの追放は社会からの抹殺を意味しま す。イサクの場合は父親から殺されかけたけれども、「否」と言えませんでした。―――ヤコブも精神的にいつも抑圧されています。」(城倉啓、泉バプテスト 教会ホームページより)こうしてヤコブは、兄を偏愛する父や、父にそうして愛される兄への不満、恨みを抱いていたことでしょう。
 そしてまたここには、古代特有、そしてこの地方特有(とは言っても、他の地域や時代にも大いにあることですが)の、社会制度の矛盾、不条理がありまし た。「ヤコブは、長男重視の社会・家父長制の被害者です。父親の愛情だけではありません。実際の相続においても、エサウだけがすべてを相続することが決め られています。」(同上)兄エサウが、「長男だから」という理由だけですべてを受け継ぎ、すべてを得るというのです。ヤコブは、ここでも、ある意味で正当 な怒りと不満を募らせていたのではないでしょうか。
 そういう中で、今日の出来事、事件が起こります。ヤコブという人は、ただ黙って指をくわえているだけの人ではありません。何とかして、たとえ策略をめぐ らし、場合によっては汚い手段を使っても、自分の不当な立場を変えようと狙っていたのです。彼は兄エサウの性格をよく知っていました。あまり深くものを考 えず、「今さえよければいい」という衝動的なところがあるとか。それで、兄が猟に出かけて疲れて帰って来る頃を見計らって、レンズ豆の煮物を煮ていたので す。案の定、兄は疲れ切って、ひどい空腹で帰って来ました。そこに、ヤコブが作る煮物のおいしそうな匂いが、これ見よがしに漂ってきます。兄は我慢できず に言いました。「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ。」待ってました、ヤコブはすかさず、こんなふうに兄に 迫り、要求します。「まずあなたの長子の権利をわたしに売りなさい。」これは、はっきり言って、ずるい、卑怯なやり方です。相手が空腹で、疲れ、余裕を無 くし、冷静な判断ができない状況に乗じて、とんでもない条件で、あり得ないような要求を突きつけるのです。今は何と言うのでしょうか、昔は「オレオレ詐 欺」、今は「特殊詐欺」と言うそうですが、それに似たようなものです。エサウは空腹のあまり、こう答えてしまいます。「わたしは死にそうだ。長子の特権な どわたしに何になろう。」ヤコブは畳みかけるように要求します。「まずわたしに誓いなさい。」ついに、こうなってしまいました。「彼は誓って長子の特権を ヤコブに売った。」これは、やり方も汚いですが、内容も著しく良識とバランスを欠くものものでした。片や全財産・権利権限に関わるような「長子の特権」、 片や「一杯のレンズ豆の煮物」、全く釣り合いが取れません。でも、こうしてヤコブは、兄エサウから大切なものを奪ってしまいました。そして、これでまだ終 わりではありません。さらなる策略をヤコブは用意していたのです。そしてここから、この家族の分裂と崩壊が始まって行くことになるのです。

 こうしてご覧になってきたように、私たちの今回の主人公ヤコブとは、一つの見方においては、計算高く、狡猾で、冷酷で、卑怯な人物です。こんな人物評が あります。「ヤコブは利己的で、狡猾な人です。彼は自分の周囲の人々と揉め事を起こす「争う人」であり、人格的に尊敬できない人です。」(川口通治、篠崎 キリスト教会ホームページより)そういうヤコブと、この歪み、壊れて行く家族を描きながら、同時にまた聖書は告げるのです。「主なる神は、このヤコブを愛 し、このヤコブを選んで祝福を受け継がせられた。」この事柄が展開し実現して行く過程を、この「創世記」は描いて行くのです。
 だとするならば、これは全く、無条件な神の選びです。ただひたすら、恵みによる神の救いです。先週も見たように、使徒パウロもこう語っています。「まだ 子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰 せられたのである。」(ローマ9・11)その通りです。ヤコブが正しく、良い人であったから選ばれ、祝福を受けたのでは、全くありませんでした。むしろ彼 は、ずる賢く、卑怯で、冷酷な人物でした。にもかかわらずヤコブが神に選ばれ、祝福を受けたとするならば、それはまったくヤコブのあれこれの性質や生き 方、その行動や業績によるのではなく、ただただ神の一方的な恵みの選びと救いによるのです。それは、イエス・キリストが語られた、このような神の恵みの愛 を表し、証しするためではないでしょうか。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくだ さるからである。」(マタイ5・45)
 けれども同時に、私たちは間違ってはなりません。ヤコブは、自分が犯した自分の罪の代償を払うことになります。その意味で、神は「正しいお方」であると いうのは真理です。ヤコブは、この次、兄が受けるはずであった「神の祝福」までもだまして奪い取り、それがために、兄の怒りと恨みを受け、復讐を避けるた めに家を出て放浪の身とならねばならなくなるのです。それを機に、この家族は分裂・崩壊の道を歩き出します。その証拠に、あれほど愛し愛されていた、母リ ベカとの関わりはこれをもって断ち切られ、母は愛する息子を再び見ることなく亡くなってしまうのです。またヤコブ自身も、伯父の家にたどり着き、言うに言 われぬ艱難辛苦をなめることになるのです。騙した者が、今度は騙され奪い取られる、長年にもわたる苦しみです。

 しかし、一貫して聖書は語り続けます。「神は、このヤコブを選び、このヤコブを愛された。」主なる神は、これらの艱難辛苦の間中も、ずっとヤコブと共に おられます。そして彼を祝福し続けられるのです。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。 わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(28・15)
 そして、これは私が強く信じていることですが、このヤコブ以外の者たち、この「壊れた家族」、ある意味では愚かでえこひいきな父と母、そしてここでヤコ ブに騙され奪われた兄エサウとまでも、神は共にいてくださるし、そして祝福していてくださるということです。聖書における「神の選びと祝福」は、自分だけ が独占し、一人だけこっそりと楽しむようなものではありません。むしろ、「祝福された者」は、先祖アブラハムのように「祝福の基」(創世記12・2)とし て、神の祝福を周りの人たちに向けて、いやそれどころか、すべての人々「地のすべてのやから」(同12・3)に向けて表し、もたらすように定められている のです。
 それにしても、つくづく思うことは、実に「不思議な神の選びと愛」であることです。ある人は、それを「神さまの身勝手」と呼びました。「しかし神さま は、善悪や信不信の判定の中に納まりきれない世界があることを私たちに示しています。それはまさに、神さまの主権と自由に属する世界です。自由なる主権の 中で神さまだけが選びとる世界です。―――言葉を極めて言えば、神さまの身勝手と言ってみたらどうでしょう。カインではなくアベルを、エサウではなくヤコ ブを、ユダでなくペテロを選ばれたのは、最終的には神さまの勝手です。―――だからこそ、私が救われることも信じられます。身勝手な神さまによらなけれ ば、到底私の救いはあり得ません。善悪や信不信の判定の中に私の救いの根拠や基準は見出せません。神さまの主権と自由を、身勝手だなどと言ってはならない ことは、百も承知です。しかしこの『身勝手』は、人間を絶望と虚無に追い込む専制君主の身勝手とはわけが違います。私たちに愛と信頼とを引き起すもので す。生きて行く力と勇気とを与えてくれるものです。苦難の中で耐える力を与えてくれます。そこからのみ、『ゆえ無くして神を信じる』ことが生み出されま す。何かしら御利益があるから神を信じるというのではなく、天国に入れられるから、心の平安を与えられるから、魂の救いを与えられるから、というので信じ るのでもありません。もし言うとすれば『人間だから神を信じる』としか言えないようなゆえなき信仰、いたずらな信仰が与えられます。」(清水恵三『手さぐ り人生入門』より)
 「神の不思議な愛と選び」、それによって私たちもまた愛され、選ばれ、召されて、ここに立たされています。「神の不思議な愛と選び」、それが今日も、また今週も、私たち一人一人、また私たちの教会と共にあり、私たちを愛し、私たちを導くのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
 あなたは「ゆえなくして」ヤコブを選び、ヤコブを愛されました。こんな卑怯で、計算高く狡猾で、冷酷なヤコブをです。ただ恵みによって、あなたはヤコブ を選び、彼に祝福を与えられました。それは、あのアブラハムが「祝福の基」とされたように、このヤコブをも「祝福の基」として、あなたの祝福を「地のすべ てのやから」、私たち一人一人ににまで届け与えるためです。
 「神の不思議な愛と選び」、これによって私たちも愛され、生かされ、導かれています。どうかそれを信仰によって受け留め、受け取り、それによって生かさ れ生きて行く、私たちまた教会としてください。そしてこの不思議なあなたの愛と祝福の証人また奉仕者として、今週も私たちを支え、導き、お用いください。
全世界の、すべての、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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