神の選び―――共にあること、愛すること
創世記第25章19〜26節
今週から、『聖書教育』に基づいて、「創世記」を三か月間共に読み、神からの語りかけを共に聞いて行きます。内容は、族長ヤコブとその息子ヨセフの生涯です。そういうわけで、今日はその最初、ヤコブ誕生の場面です。
この聖書の箇所を読みますと、つくづく、「人生は思うに任せないなあ」と思わされます。今日登場する人物、人物、皆「思うに任せない」出来事に遭遇し、「思うに任せない」人生を送っています。
最初に登場するのは、私たちの今回の主人公ヤコブの父であるイサクです。父イサクの悩みはこうでした。「イサクは妻が子を産まなかった」。イサクの妻は
リベカという人ですが、彼女がなかなか子どもに恵まれなかったということがあったのです。古代にあっては、「子を産む、子どもを多く持つ」ということが、
「神の祝福のしるし」の大きな一つであったのです。ですから、「子どもがなかった」ということは、かなり深刻に受け止められたのでした。そこで父イサクは
何をしたか。神に祈ったのです。「イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。」その祈り願いは、神によって聞き入れられました。「主
はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。」
ところが、今度はその妻リベカ、後にヤコブの母となるリベカに、「思うに任せない」ことが起こったのです。「ところが、その子らが胎内で押し合ったの
で、リベカは言った、『こんなことでは、わたしはどうなるのでしょう』。」彼女の胎内、お腹の中での子どもの成長が順調に行かなかったのです。この「思う
に任せない」状況で、彼女はどうしたでしょうか。やはり、神のもとに赴き、祈り尋ねたのです。「彼女は行って、主に尋ねた。」すると、主なる神はそれに答
えて、彼女の胎内にいる子どもたちに関する、神ご自身の計画を知らせられました。「主は彼女に言われた、『二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があ
なたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう』。」
そうして、その母リベカから生れ出て来た双子の兄弟エサウとヤコブです。その誕生の次第は、このようでした。「彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふた
ごがあった。先に出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それに名をエサウと名づけた。その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。そ
れで名をヤコブと名づけた。」今回の私たちの主人公ヤコブと、その双子の、でも全然似ていない兄エサウ。彼らこそ、「思うに任せない」人生だったのです。
先に見たように、母のリベカに神は告げられました。「エサウも、そしてヤコブも、二つの民、それぞれの先祖となるように定められている。その過程の中で、
兄が弟に仕える、ちょっと退いた『二番手』の位置になるようになって行く、このことが神によって定められている。」そういう意味において、この二人の息子
たちの人生は、初めから「思うに任せない」ものであったことがわかります。これから始まる「創世記」の物語も、この二人のそれぞれの「思うに任せない」道
のりをたどり、語るものであるのです。後にパウロは、このことについて、ここまで言っています。「まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選び
の計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。」(ローマ9・11)
しかしそれを言うなら、私たち皆、一人一人の人生もまた「思うに任せない」ものであることを思わずにはいられません。「だれも自分で親、性別、国籍、人
種を選べません。全て賜物です。神が人間に選択権(国籍、男女…)を与えなかったのは、神を信じさせるためです。『これは、神の御前でだれも誇らせないた
めです』(Tコリ1章29節)。神はへりくだる者を高く上げられます。」(東京鵜の木教会ホームページより)思わず「その通りだなあ」と思わされる言葉で
す。もちろん、生きる過程で、私たちは様々に願い、悩み、葛藤し、目指し、取組み、努力し、そのように生きて行くでしょう。しかし、そもそもの初めから、
実は私たちの人生というのは、根本的には自分で選べない、「思うに任せない」ものだったのです。
でも、この動かせない事実を踏まえながらも、聖書は一貫して語るのです。「私たちの人生は『思うに任せない』。けれども、そこには同時に、主なる神は選
びと計画、そして導きがある。」考えてみれば、聖書はずっと、私たち一人一人について、このこと一つを語っている言うことさえできるのです。「私たちは思
うに任せない。しかし、その私たち一人一人について、神の選びと計画、そして導きがある。」そこから私たちは、イサクやリベカ、そしてヤコブとエサウ、ま
たその他の聖書の登場人物たちのように、神への祈り、そして信仰へと導かれることができるのではないでしょうか。
もちろん聖書は同時に、「思うに任せない、だから変えられない」と語るのではありません。一人一人の「思うに任せない」現実に、私たちの人間の罪、また
その人間たちが形作る社会の悪と罪が密接に絡んできます。その中で、様々な理不尽で、不条理な、そして悪い制度と政治と、それによってもたらされる差別と
抑圧、そして戦争をはじめとする殺戮があるのです。それらを変えるために、私たちは、「思うに任せない」現実の中から立ち上がり、努力し、取組んで行くこ
とはできるし、すべきである。そして、それが「神の選びと計画、そして導き」の一部でもあるのです。
今まで共に見てきましたように、私たちの人生は「思うに任せない」、そして根本的には「選べない」ものです。しかし私たちのキリスト信仰においては、
「自分の人生を選ぶことのできた人」が、ただ一人、一人だけおります。それは、私たちの主イエス・キリストです。イエス・キリストこそ神から来られた方で
あり、その生涯は、神の選びと、そしてイエスご自身の選びによって起こり、始まり、そして進んで行ったのだと信じているのです。「私たち教会では、このイ
エスという方の誕生は、神のご計画でありご意志であると信じています。つまり、神の御心に基づいて、神そのものであった方が人間となってこの世界に来てく
ださったと信じるのです。ところで、この世界に生まれて来るのに、私たち人間は誰も、自分自身の意志で生まれて来た者はおりません。『私は生まれたい、生
まれて来ようと思ったから生まれてきた』などという人は、この中に一人もおられないでしょう。でも、先ほどの教会の信仰で言うならば、そのような中でこの
お方イエスはただ一人、イエスだけは御自分の意志で生まれて来られたということができるのです。」(四日市教会2013年イブ礼拝メッセージより)
そのイエス・キリストの選びは、何であったのでしょうか。イエス・キリストが自ら選ばれ、歩まれたのは、どんな生涯であったのでしょうか。「キリスト
は、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その
有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2・6〜8)このイエス・キリストの別名
は、「インマヌエル」「神われらと共にいます」です。神は、イエス・キリストにおいて、その自ら選び取られたその生涯によって、私たちと共にあること、そ
して私たちを愛することを選ばれたのです。「思うに任せない」「選ぶことができない」私たち、その一人一人のために、神は「共にある」こと、そして「愛す
ること」を選んでくださったのです。「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の
命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
この私たちのための、「神の選び」、「共にあること」「愛すること」を知らされ、知るときに、私たちは変わります、変えられるのです。
何より私たちは、私たち自身、私自身の、人生に対する見方が変わり、そしてその生き方が変わるのだと思います。確かに、最初に見たように、私たちは自分
の人生を根本的には「選ぶことができません」。そしてその歩みは、「思うに任せない」ことでいっぱいです。しかし、そのような私たちのために、神が選んで
いてくださること、神が共にいてくださること、神が極みまで愛してくださったことを知るときに、私たちには祈りと求めが与えられるのではないでしょうか。
また、その私たちのために、神が選び、計画し、導いていてくださることを知らされるときに、今日出て来たイサク、リベカ、そして後にヤコブがするように、
神の計画と導きを求めて祈り、尋ね、求めて生きるように、変えられるのではないでしょうか。
そして、それは私一人のこと、また「私たち」、身内の者、親しい者、同質の者たちだけの間のことに留まってはいません。この「神の選び」、共にあるこ
と、愛することは、すべての、あらゆる人にまで及んでいるのです。この「神の選び」を知らされ、知るときに、私たちは、自分たちが出会うすべての人、一人
一人の人のためにもまた、神は共におられ、神は愛しておられることを、痛切に、また痛烈に知らされて行くのです。このことは、私たちの他の人に対する見
方、このそのような一人一人が生きている社会、この世に対する見方を変え、またその中で共に生きるその生き方もまた変えられて行くのではないでしょうか。
「イエス・キリストは、あえてこの世界に生まれて来てくださいました。それによって、はっきりと私たちに知らされたことがあります。この世界は、人間の罪
と悪、それによって引き起こされる理不尽で不条理な苦しみと不正にもかかわらず、神が愛しておられる世であるということです。また神は、私たちすべて、そ
の一人一人と、徹底的にこの世で共にいてくださるということです。私たちの最も深い闇、最も悪い罪、最も醜い悪のどん底で、そこに至るまで、そこでこそ私
たちと共にいてくださるということです。この神によって、この救い主イエス・キリストによって、私たちは力を与えられます。罪と悪にもかかわらず、不条理
な苦しみと不正にもかかわらず、この世で、神を信頼して、神に叫び求めながら生きて行く、生き抜いて行く、まことに不思議な力を与えらるのです。そして、
そのような世界で、マリヤのように、ヨセフのように、羊飼いたちのように、神に従う道を、正しい道を追い求め選び続けながら生きて行く力を与えらるので
す。それは『永遠の命』と呼ばれます。どこまでも神と共に、神に愛され、神に支えられ導かれて生きる命です。死をも乗り越え、死にも勝利する命なので
す。」(2013年イブ礼拝メッセージ、同上)
これからご一緒にたどっていくヤコブ、そしてヨセフの生涯もまた、このことを知らされ、そして神によって変えられ、変わって行く道であったのだと思いま
す。「神が私のために、また私が出会う隣人たちのために、選んでいてくださる、神が共におられること、神が愛していてくださること。」神は、ヤコブの生涯
の「どん底」で彼に語られます。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあ
なたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(28・15)私たちもまた、「思うに任せない」ことの多い人生とその歩みでありますが、このことを一
つ一つ、一歩一歩知らせていただいてまいりましょう。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
私たちの人生、その一人一人の歩みは、「思うに任せない」ことでいっぱいです。そして何より、根本的に私たちは自分の人生を「選ぶ」ことができません。
しかし、そんな私たちのために、あなたは、イエス・キリストにおいて選んでくださいました。「共にあること」「愛すること」。このあなたの「選び」が私た
ち一人一人の上に常にあることを、心より感謝し、御名を賛美いたします。またこの「選び」のゆえに、私たちのためにあなたの御計画と導きがあることを感謝
いたします。
どうか、このことを私、私たちと、また私たちが出会う一人一人の隣人のために信じ、受け入れ、それを求め、それに従って生きて行く私たちまたその教会としてください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。