わたしの恵みはあなたに十分である――いつも
コリント人への第二の手紙第12章5〜10節
私たちは信仰者、クリスチャンとして、神また主イエス・キリストに祈ります。皆さんも、日々に、事ごとに、祈っておられることでしょう。ところで、その祈
りに対する応答、答えを聞いたことはありますか。神からの、またイエス・キリストからの答えを受け取ったことはありますか。もしも、祈ったのに、しかもか
なり熱心に一生懸命に祈ったのに、もし答えがないとしたら、それはあまり、いえ全くと言うくらいに、意味のないこと、虚しいことではないでしょうか。しか
し、パウロはあったのです。彼は、確かに主イエス・キリストからの答えを聞いたのでした。「主が言われた。」
そもそも、なぜパウロは祈ったのでしょうか。病があったからです。かなり深刻な病があったからです。「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげ
が与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」「とげ」、それはかなり重く、深刻な病気であったようです。どんな病
気であったかについては、色々な説があります。目の病であったという人もおりますし、またてんかんのような病気であったという人もいます。「『棘』、ギリ
シャ語スコロプス、拷問や十字架の意味です。パウロは拷問にかけられたような激しい痛みを伴う深刻な病気を抱えていたようです。聖書学者のシュバイツァー
は、パウロは癲癇だったのではないかと推測します。突然に発作を起こし、人前を転げまわるような痛さを持つ病です。それは彼の心身を苦しめると同時に、伝
道の妨げにもなっていました。」(川口通治、篠崎キリスト教会ホームページより)
そこでパウロは、祈ったのです。「このことについて、わたしは彼を離れ去らせてくださるようにと、三度も主に祈った。」病のいやしを、「三度も」祈った
のです。「三度」というのは、単に文字通り「三回」という意味を超えて、何度も何度も、繰り返し熱心に祈ったということだと思います。「三度」ということ
で、あのイエス・キリストの「ゲッセマネの祈り」が思い出されます。「そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待って
いて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ。もしできることでしたらどうか、この
杯をわたしから過ぎ去らせてください。―――』。―――また二度目に行って、祈って言われた―――また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。」(マタイ
26・38〜44)主イエスもまた、「三度」「血のような汗を流し」(ルカ)つつ祈られたのでした。
その時にパウロは、イエス・キリストからの祈りの答えを聞きました。「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力
は弱いところに完全にあらわれる』。」この答え、それはパウロの願い通りでは、全くありません。むしろ、そういう意味で言うなら、パウロの願い求めること
は、全く通らなかったのです。パウロは、何としてもこの「とげ」、この病が取り去られ、完全に癒されることを願い、求めていたに違いありません。しかし、
主イエスの答えはこうなのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。」「わたし」、イエス・キリストの恵みは、今まさに、このままで、この病の中
にあるこの時、このままで、あなたに対して十分であり、完全に、そして豊かに満たされているのだ。だから、そのイエスの恵みは、パウロを「弱さ」、つまり
病の中にそのまま留め置くものでした。なぜなら、こう言われるのです、「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。
この答え、この主イエス・キリストの答えに、もう一度よく注目したいと思います。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに
完全にあらわれる。」「わたしの恵みはあなたに対して十分である」、それは「いつも」、そして「だれに対しても」ということではないでしょうか。いつも、
そしてだれに対しても、イエス・キリストはこう答えられるのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれ
る。」こんなことを言ったら、大変失礼な言い方かもしれませんが、イエス様の「レパートリー」は決して多くないのです。ある意味では、いつも同じ答えで
す。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」なぜなら、イエス・キリストは「十字架の主」だからです。
イエスは「十字架につけられたままなるキリスト」だからです。新約聖書学者の青野太潮さんは、この「十字架につけられままなるキリスト」というのは、イエ
スは復活された今もなお、あの「十字架につけられたまま」の弱い、低くされた姿で生き、働いておられるということなのだと言われます。それはこういう意味
なのだというのです。精神科医のМ.スコット・ベックという人の言葉だそうです。「キリストにあっては、神ご自身は、無力にも人間の悪の手にかかって死を
味わわれたのである。力の行使を放棄されることによって、神は、私たちが相互の上になす悪事を未然に防ぐことはお出来にならない。神はただ私たちと共に悲
しむことしかお出来にならない。神は、ご自身のすべての知恵のうちにあって、ご自身をわたしたちに与えようとされるが、しかし神は、私たちが神と共にある
歩みを選び取るようにと強制することは、決してされない。苦悩される神は、私たちがホロコーストにつぐホロコーストを経験するあいだも、私たちを待ち続け
ておられる。私たちは、この弱さにおいて支配される不可思議な神によって運命づけられているのだ。・・・・無力にも十字架上に釘づけされたキリストこそ、
神の究極的な武器なのだ。」(青野太潮『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』より)そのように「十字架につけられたままなる」、「弱いキリスト」
は、私たちをも「弱さ」の中に留め置きながら、こう答え、こう語られるのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全
にあらわれる。」
「なんだ、そんなことなら、祈っても無駄ではないか。神やキリストを信じることも、無意味なことではないか。」そう思われるでしょうか。決してそうでは
ありません。なぜなら、パウロが祈った相手は、また私たちも信じ、祈ろうとするその相手は、このような方だからです。「注意すべきことがあります。それ
は、パウロは、ここで、主に祈った、と書いてあることであります。神に祈った、とは書いてないのであります。(注 つまり、父なる神ではなく、「主」イエ
ス・キリストに向かって祈ったということ)―――しかし、主に祈るという時には、地上で三十年の生涯を送り、十字架につかれた主に祈るのであります。罪人
と共に食事をすることを喜び、福音を宣べ伝えるためには、枕するところのないまでの生活をなさった主に祈るのであります。つまり、我々の苦しみを、直接に
身に受け、われわれの悩みを聞いてくださった主に祈るのであります。―――主に祈る者は、これらのことをなまなましく感じながら、祈ることができるのでは
ないでしょうか。パウロは、祈りましたが、拒否されました。ある人が、主ご自身が、祈りを拒まれた経験がおありになるのである、と申しました。ゲッセマネ
の園で、この杯、すなわち十字架を、私から取り去っていただきたい、とこれも三度祈られましたが、神はお聞き入れになりませんでした。その主に祈ったので
あります。それは、パウロの気持ちが、一番よく分かる方に祈った、ということではないでしょうか。三度拒まれることが、どんなに辛いかということを、自ら
知っておられたお方に祈ったのであります。それなら、その拒絶は、普通の拒絶とは、ちがうのではないでしょうか。」(竹森満佐一『講解説教 コリント人へ
の第二の手紙』より)「わたしの恵みはあなたに対して十分である」、この答えを、まさにこの方から聞いたのだ、と思えることが大切であり、また決定的なの
です。「わたしは、まさにこのイエス・キリストから、この答えを聞き、この答えをいただいたのだ」と確信し、思えるようになるまでの祈り、関わり、葛藤、
過程、道のりが大切なのです。なぜなら、その道の中で、私たちはまさにこのイエス・キリストに出会うからです。まさにこのイエス・キリスト、私たちを決し
て変わることなく愛し、私たちと常に、どんな時、どんな状況の中でも共におられ、そして最後の最後まで私たちと共に歩み、共に生きてくださる方を知り、こ
のお方と出会うからです。そしてその祈りの末にいただき、受けたこの答え、この言葉がこの上なく貴重なのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分であ
る。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」
そうして、この答えを受け、いただいたならば、それはまさに「力」なのです。それは、パウロにこう言わせ、こう生きるようにさせることができる「力」な
のです。「『わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、
わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。」「9節
の―――言葉は多くの人に慰めと励ましを与えています。それは私たち一人ひとり誰もが何らかの弱さを必ずかかえているからです。」(『聖書教育』2024
年6月号より)不思議な言葉、でもなぜか大きな慰めと励まし、そして力強い力を与えてくれる言葉なのです。
重い病に苦しんだ方の証しの言葉です。「1月8日、膿を抜くために胆のうに達する管を腹部から差し込まれる手術を受け、体は寝返りしないようにベットに
くくりつけられて、翌朝を迎えた日のことです。朝7時までには、病室に来ると言っていた妻が,10分過ぎても来ません。苦しいのでナースコ―ルを押すので
すが、返事だけで来てくれません。私の不平と不満と怒りは頂点に達し、妻をのろい、病院をのろう心境になってしまいました。はっと、その時気付きました。
このような状態で死を迎えたら何と自分は哀れな存在だろう。死ぬ前に生まれ変わりたい。不平、不満、ぐちを言う、自己中心の自我から解放されて、感謝と喜
びとに満ちた愛の人に生まれ変わりたい。―――すると、八人部屋でしたが、寝ていた向こう側の壁が不思議な神々しい光で輝きました。その光に目を向けてい
ると、『わたしだ』と語りかける声が聞こえたような気がしました。どこから聞こえてくるのかと、耳をすましました。それはなんと心の奥底から、語りかけて
くる、かすかに聞こえる小さい声です。―――とっさに、気づきました。『イエス様だ。』イエス様が私のところに来てくださったのだ、と悟りました。私は感
激の涙にあふれました。―――神は私の祈りに答えてくださいました。病床にあって、最も弱いときに、イエスさまのご臨在を体験したのです。―――『力は弱
さの中でこそ十分発揮されるのだ。わたしの恵みはあなたに十分である』との主の言葉が、本当であることを、この体験を通して知ることができました。
感激で嬉し泣きをしているところに妻が来ました。先ほどまでの妻を責める気持ちや、不平、不満は消えていました。それからの入院期間中は、平安と喜びに
満たされた私は別人のようになりました。この体験のあと、だれにも認められなくとも、だれにも愛されなくとも、人からどんな評価を受けようとも、気にする
ことはない、神に愛され、神が共にいてくださり、この世界の世継ぎとされているのだから、と思うようになりました。狭い、小さな世界から、広大な宇宙には
ばたく人にさせられたように思いました。今までは、自分が世界の中心にいて、世界は自我の延長でしかなく、世界と向き合う関係ではなく、無視してきた罪深
い孤独な自分だったのです。この瞬間から、世界と対話できる、世界が友になってくれたような、光明の世界が開かれ、満たされた、幸せを味わいました。」
(辺見宗邦、富谷教会ホームページより)
パウロと共に、私も、私たちも、このイエス・キリストの語りかけを聞くことがゆるされるのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力
は弱いところに完全にあらわれる。」そしてそれは、ただ私一人のことに留まってはいません。それは、多くの人々とのとてつもなく広い共感と連帯へと導き、
力強く豊かに共に生きることへと至らせるのです。なぜなら、「私たち一人ひとり誰もが何らかの弱さを必ずかかえているからです」(同上)。「よろこびが
集ったよりも 悲しみが集った方が しあわせに近いような気がする 強いものが集ったよりも 弱いものが集った方が 真実に近いような気がする しあわせ
が集ったよりも ふしあわせが集った方が 愛に近いような気がする」(星野富弘)。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
主イエスは、私たちすべてのもののためにこの世に来られ、苦しみを受け、十字架の道を歩み通して、十字架において死なれました。こうして「十字架につけ
られたままなるキリスト」として、主は復活し、今も私たちと常にどこでも共に生き、共に歩んでいてくださいます。そして、私たちの苦しみ、弱さにおいて
も、いやそのただ中でこそ、主は共にあり、私たちの祈りと求め、うめきと叫びに耳を傾け、ついにはこの答えをくださいます。「わたしの恵みはあなたに対し
て十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」
どうか、私たちが祈りの中でこの答えを聞き取り、受け取ることができるようにしてください。それによって力を得て、その弱さのただ中で、主を信頼し、主
への感謝と希望に生きることができるようにしてください。またこの「弱さの中での力」によって、多くの様々な人々との共感・連帯また共生にまで至り、共に
生きることができますように。
まことの道・真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。