何を与えても、失われない、かえって祝福される
                                     コリント人への第二の手紙  第8章9節、第9章6〜11節
                     
   
  この8から9章でパウロはずっと、諸教会のための「献金・募金」の話をしています。「聖徒たちへの奉仕」(8・4)、「この募金」(8・6)、「わたした ちが集めているこの寄付金」(8・20)、そして「聖徒たちに対する援助」(9・1)、すべて献金または募金の話をしています。そしてこの部分の中心・か ぎとなる言葉は、8章の9節です。そこで今日は、この二つの章をまとめて取り扱い、共に御言葉を聴きたいと思います。
 この「聖徒たちへの奉仕」「聖徒たちに対する援助」とは、どんなことなのでしょうか。「聖徒たち」というのは、いろいろな町にある各教会に連なるクリス チャンたち、またさらに広げてそれら諸教会に出入りする人々までも、事実上含んでいると思います。そのような諸教会間の、募金による助け合いをパウロは呼 びかけているのです。その中でも、パウロは特にエルサレム教会を助けることに力を入れました。エルサレム教会は、キリスト教信仰発祥の地とも言える教会で す。ところがパウロたちの時代、この地方はたびたび災害や飢饉などが起こって、地域と共に教会も窮乏し、困っていたのです。それでパウロは、そのための募 金を呼び掛けながら各教会を回っていたのです。
 さらに、この「諸教会ための募金・助け合い」というのは、パウロにとってとても大切なテーマの一つでした。彼にとって、一番主要なものは「福音の伝道」 ですが、それと並んで同じくらい大切であったのが、この「助け合い・奉仕」だったのです。なぜかというと、福音の内容で、極めて大切なことの一つが「共 生」「共に生きる」ということだったからです。パウロは、特に「ユダヤ人と異邦人が共に生きる」ようになったことが、イエス・キリストの計り知れない大き な御業であると信じ、語っていました。エルサレム教会には、ユダヤ人が多く集まっていたのです。そのエルサレム教会を、異邦人が多くいる諸教会が、募金を もって具体的・現実的に「聖徒たち」を助けることが、まさにイエス・キリストの福音の「実」、成果、神による救いの業の現実化と考えられ、これこそ福音の 証と信じられたのでした。そして、これはパウロだけのことだけでなく、キリスト教会は初代教会の時代から、「福音伝道」と共に、「隣人愛」、「この社会、 この世界で、具体的・現実的に困っている人を助け、奉仕すること」を、「二枚看板」のようにして守って来たのだというのです。

 そういうわけで、パウロは今募金・献金のお願いと勧めをしているわけですが、一方で、実は「お金の話は難しい」ということがあります。ある方がこんな メッセージをしておられます。「お金の話というものは、大変に難しいものであります。―――お金は、与えるときも、受けるときも、微妙な気持ちが働いて、 難しいのです。―――それを与える方も、それを受ける方も、いずれも神の恵みを信じることができるようにしなければ、不幸な結果になるのであります。 ―――まことの施しは、豊かに持っている者が、持っていない者に、憐れんで与えることではありません。―――われわれが与えるものは、自分が得たものを与 えるのではなくて、神から恵みとして与えられたものを頒けることだからであります。―――もし自分の持ちものを神の恵みと信じることができるのであれば、 それを他の人に与える時に、お金を扱う時の、あの傲慢さも、その卑屈さもなくなるのではないでしょうか。人を傷つけることなしに、お金を動かすことができ るのである、と思います。」「自分の持ち物がすべて神から与えられたものであると信じることは、決してやさしいことではないのです。自分の物は、自分が、 自分の力で得た、と考える方が簡単であるし、分かりやすいことであるはずであります。それを、自分の持ち物を神から与えられたもの、または、神からあず かっているもの、と思うためには、自分自身の生活の仕方そのものが変わらなければならないのであります。」「自分自身が、自分のものではなくて、神のもの であり、神に守られているということを信じなければできないからであります。なぜなら、自分の持っているものを与えることは、自分のものが少なくなり、自 分を守るものが少なくなるので、どうしても、不安になることであります。―――そこで、何を与えても、自分は失われないこと、いや、かえって祝福されるの であることが、分からなければなりません。」(竹森満佐一『講解説教 コリント人への第二の手紙』より)

 「何を与えても、自分は失われないこと、いや、かえって祝福される」、これこそが、献金・募金の根本的課題なのだというのです。「何を与えても、自分は 失われないこと、いや、かえって祝福されるのであることがわからなければ」、それは本当の献金・募金、また施し、奉仕、助け合いにはならない、また真に 「共に生きる」ことはできない。これはまた、大変に深く鋭い洞察・指摘であり、同時に私は大変に高い「ハードル」だと思います。これを、いったいどうやっ て乗り越えることができるのでしょうか。それが、初めに申し上げた、この部分の中心聖句、8章の9節です。ここで、パウロはイエス・キリストを引き合いに 出し、彼が歩まれた道、生涯とその御業を思い出させるのです。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んで おられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」
 イエス・キリストは「富んでおられたのに、貧しくなられた」、とはどういうことなのでしょうか。それを、パウロは、ピリピ人への手紙第2章で具体的に書 いています。「キリストは、神のかたちであられた」、「神と等しく」あられた、これが「主は富んでおられた」ということです。「神と共にあり、神と等し く、神のかたちそのものであられた」、それは神の栄光、神の力、神の豊かさ、それらをすべて持っておられたということです。そのキリストが「貧しくなられ た」、それはこういうことだというのです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむな しうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ た。」(ピリピ2・6〜8)神と共にいる、神と等しい方であったイエス様は神様と共に、この世とそこに住む人間たちの有様を嘆かれました。そして思われた のでしょう、「この人間をなんとかして助けたい」。そこでイエス様は、とても大きな決断をされました。人間は「より高く、より強く、より多く」そんなこと ばかりを求めて、共に生きることができず、争い合い、傷つけ合い、苦しんでいる。「わたしは、それとは全く反対の道を選び、その道を行こう。わたしは高 く、強くなくてよい、多くのものを持たなくてもよい。神の力や輝きすら投げ捨ててもよい。わたしはこの人間と共にあり、共に生きよう。」主は、この決断を とうとう実行に移してしまわれました。主は、完全に一人の人間となって、ベツレヘムの飼い葉桶にお生まれになったのです。
 そのようにして人間となったイエス様の生き方と道は徹底していました。「その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に 至るまで従順であられた。」「人間」と言ってもいろいろな生き方があります。まさに「人生いろいろ」です。「人間」として、やはり「高く、強く、多く」と 生きる道もあります。しかし、人間イエスはそれとは全く反対の道を選び、その道を行かれました。イエス様は、人間世界の中でもとりわけ「低いところ、弱い ところ、乏しいところ」を目指されました。そういう場所、そういう人々、そういう苦しみに向かって行き、そこに住む人々と共に生き、かれらを愛し、神の赦 しを語ってどこまでも受け入れ、助けようとされました。そのような生き方は、この世が求めるものと真っ向から対立し逆らうものだったので、世の多くの人々 によってイエス様は憎まれ、追い詰められ、陥れられ、苦しめられ、そして十字架につけられ、ついに殺されました。この道を、イエス様は神の御心として自分 から進んで選び取り、たたかいながらもそれを受け入れ、歩まれました。これがキリストの道、キリストの心です。

 そのような「彼の貧しさによって、あなたがたが富む者となるためであった」と言われます。「私たちが富む者となる」、その最大・最高の「富」は、「神と 共にある」ということです。キリストがずっと神と共におられたように、私たちもまた「神と共にある」ことがゆるされるのです。神と共にあることによって、 神の愛、神の恵み、神の祝福がいつも私たちに注がれ、与えられ、満たされるのです。この神の愛、イエス・キリストによる神の愛が、教会に伝えられ、信仰者 一人一人に与えられ、影響を与え、力となるのです。それは、「共に生きる力」であり、「互いに仕え合う力」であり、「ささげ、与える力」です。ある牧師の 方は、アメリカで「私の父はナイアガラの滝を作った」という宣伝文句で伝道した人のエピソードを引きながら、こう証しされます。「ぼくはときどき、何もか もうまくいかず、自分の中にも外にも何もないことを嫌というほど知らされて、打ちのめされることがありますが、そんなときはこの話を思い出します。そうし ますと、ぼくのその行き詰っている姿が客観的に見えてくるのです。自分で狭い狭い密室に勝手に入り込み、確かに身動きできないでいるのですが、それは追い 詰められたぼくの意識であって、『ナイアガラを創られた天の父なる神さま』の目から見れば、行き詰まりでもなんでもありません。―――ナイアガラを創り、 歴史を支配しておられるお方を『私たちのお父さま』と呼ぶことができるのです。」(犬養光博『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』より)「ご自身の御子を さえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(ローマ8・32)
 こうして神の祝福がいつもあなたがたに注がれ、神の豊かさにあなたがたは常に満たされている。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがた を常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」(9・8)「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるか たは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜 しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。」(9・10〜11)「何を与えても、自分は失われないこと、い や、かえって祝福される」。

 このことがあり、このことが起こるからこそ、パウロは今、確信をもってコリント教会の人たちに勧め、命じるのです。「各自は惜しむ心からでなく、また、 しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」(9・7)そしてパウロは、そのようにささげ、与 えたコリントの人たちを、神が具体的・現実的に支え、満たしつつ、今苦境にあり困窮にある諸教会の人たちと、やはり具体的・現実的に共に生きるように導い てくださることを示すのです。「彼、イエス・キリストの貧しさによって、私たちは富む者とされたゆえに」、本来ふさわしくなかった私たちが、神の絶大な愛 を知らされ、「何を与えても、自分は失われないこと、いや、かえって祝福される」ということがわかったので、私たちは自分のものをささげ、与え、さらには 自分自身をもささげ与え合いながら、共に生きる力が与えられ、共に生きることがゆるされるのです。
 この神の恵み、神の豊かさ、神の愛は、教会だけにとどまらず、すべての領域にまで広がっていこうとしています。世界にある様々な相互扶助の制度がどのよ うに生まれて来たかについて、こう言われています。「どんなに良い制度であっても、基本にこの精神が通っていなければ、必ず人を抑圧するものになる。なん ですって、今日の仕事にあぶれた人も、今日の食いぶちを手にすることができたんですって? よかった、よかった、みんな安心して食べて、眠ることができ る。と、このように『よかった、よかった』―――そう思い、そう感じることのできる心が、みんなの中にあれば、お互いに支えあって生きていくことができ る。それが制度に生命を与える。―――これを言ったのは、イエスである。イエスの話は、以後のキリスト教社会において、くり返し語り継がれ、くり返し人々 の心にしみしおっていった。それが、キリスト教西洋のさまざまな制度を生み出し、支える要因となったのである。」(田川建三『キリスト教思想への招待』よ り)「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」「何を与えて も、自分は失われないこと、いや、かえって祝福される」。私たちもまた、イエス・キリストによって、共に生きることができるのです。

(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
 主イエスは、天においてあなたと共に持っておられたすべての富と栄光と力とを捨てて、私たちのために貧しくなられました。このイエスの道によって、私た ちは、なんとあなたの愛と恵みと豊かさに与る者とされました。そして、このことを私たちは知らされました。「何を与えても、自分は失われないこと、いや、 かえって祝福される」。
 それに基づき、それに応じて、私たちも信仰と希望と愛とをもって、自分に与えられ自分が持っているところに応じて、力いっぱい互いにささげ与えつつ、共に生きて行くことができますよう、助け、お導きください。
世のすべての、あらゆる人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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