新しく見る使者として
コリント人への第二の手紙第5章14〜21節
こうして私たちは教会に集まり、礼拝をささげていますが、私たちはいったい何のためにこうして教会を形成し、礼拝に集まっているのでしょうか。それをパウ
ロはこう表現します、「私たちは遣わされている」。「わたしたちはキリストの使者なのである。」「使者」とは、遣わされ派遣されて、メッセージや物を届け
る人です。「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。」私たちを遣わされたのは、主なる神です。そし
て神がキリストによって私たちに委ねられたのは、「和解の福音」なのだというのです。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ―――わたしたちに和解
の福音をゆだねられたのである。」「和解の福音」、「和解」のメッセージ、「仲直り」の呼びかけ、「共に生きる」ことへの招きを、神は私たちに委ね、これ
を世の多くの人々に語り告げなさいと、送り出しておられるのです。
「和解の福音」、それが必要とされるのは、その反対の事柄があるからです。対立、不和、敵対が、この世にはあるからです。人と神との間に、人と人との間
に、民と民との間・国と国との間に、不和と敵対があるのです。その世の敵対の大元になっているのは、パウロによれば「肉によって知る」という知り方・見方
です。人や物事を、また他のグループや社会また国に属する人々を「肉によって知り、見る」ということがあるのです。「肉によって見る」見方とは、どういう
ことでしょうか。
それはまず、「自分の思い・考えで」ということであると思います。「肉」とは「人間」を指す言葉です。そして「人間」と言ったら、まず第一に「自分」で
すね、だから「肉によって見る」とは「自分によって見る」ということです。「自分の好みにまかせて」、「自分の、または自分たちの考え・見方を正しいとし
て、その考え・見方によって」見るのです。「われわれは日頃いとも簡単に人の善し悪しをいいます。誰でも自分が一番正しいと思いたいし、事実そう思ってい
るものです。それですぐに他人の行いを批評したがります。でも残念ながらそれが良い実を結ぶことはほとんどありません。十中八九、善いことは言わず、悪い
ことに力点を置くからです。もちろん、いわれたほうは面白くありませんから、反発し、逆に相手についての善し悪しをいいます。こうしてけんかが始まりま
す。」(山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』より)
「肉によって見る」、そのもう一つの大きな側面は、「世の中の基準で」見る、評価するということです。旧約のバビロン捕囚時代のこととしてこんなふうに
述べられています。「創世記一章の著者もまた、虫けらのような扱いを受けていた人であろう。―――一人の神格化された人間と一部の特権階級に支配され、王
に税を納めるために存在しているように無数の人々がそこにはいたに違いない。―――国籍、民族、人種、身分、宗教、性の違いなどの差異はそのまま上下、優
劣として受け止められるが故に、経済格差が生じさらに差別が生じることになる。残念ながら、それは古代社会に限ったことではない。今なお世界中の至るとこ
ろで存在する現実である。」(及川 信『天地創造物語』より)昔大阪万博があった時に、止揚学園の重い障がいを持つ子どもたちを連れて行こうとして、係の
人からこんなふうに言われてしまったそうです。「頭のとっても悪い人たちがこの万博に来られても、なにもわからないでしょうし、見ても聞いても理解できな
いでしょう。そんな人たちがここに来ても、価値がないと思うんです。―――率直に申しますと、わたしたちの頭には、このようなお子さんのことは、全然あり
ませんでした。」(福井達雨『アホかて生きているんや』より)そのように、私たちはこの世にあって「肉において見て」いるのです、すべての人々また物事
を。
そんな私たちの世に、神は「和解の福音」を送ってくださいました。 神ご自身が、神様の方から、私たち世に住むすべての人間に向かって、手を差し伸べて
くださいました。私たちは、神様を知らなかったのです。それどころか、「神様なんていないんだよ」「神様を信じるなんてあほらしい」と言い合っていたので
す。そのような私たちを責めることなく、裁くことなく、罰することなく、神は和解の手をご自分の方から差し伸べてくださいました。それが、あのイエス・キ
リストが来られたことであり、キリストが「すべての人のために死んだ」ことだったのです。この神様から差し伸べられた和解の手を、今私たちもまた握り返す
ことができる、そしてこの神様と共に、私たちも神の愛のうちに共に生きていくことがゆるされる、これが「和解の福音」です。
「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。」その「和解の使者」として、神様はなんとこの私たちを
選び、立ててくださいました。神様がご自分でなさればもっと確実で力強いだろうと思うのに、あえてこの私たちを「和解の使者」として任命してくださったの
です。だから私たちは、神から送り出されて、「和解の使者」として人々の間に行き、そこでそのような者として生き、仕えて、働くのです。
その「和解の使者」「キリストの使者」としての私たちは、どんな役割を果たして、どのように生きるのでしょうか。「使者」という言葉は、「大使」とも訳
すことができるそうです。自分の本国から外国に派遣されて、その国で自分の国の考え方や方針を伝えて働く人です。自分の国と今自分が遣わされている国とで
は、当然いろいろなことが違ってきます。時には、ぜんぜん違う、正反対というくらいに違っているかもしれません。それでも、「使者」大使は、相手の国に合
わせたりはしません。どんなに異質に思われようと、自分の本国の考え方や方針を貫き、それをなんとか伝えようとするはずです。「自分の本国以外の国に住め
ば、その人の行い、忠誠心、国益、そして言葉のアクセントまで、その国の住民にとっては風変わりなものとして映るでしょう。世界の破れのただなかにいるキ
リストの和解の使者たちもまた同じです。」(カトンゴレ/ライス『すべてのものとの和解』より)
何が違うと言って、そもそも物事や人々を見る見方が違っているのです。それこそが基本であり、根本なのです。その全く違う見方に基づいて、キリストの福
音の使者は、この世に存在し、生きる、それがメッセージとなり、証となり、神の国に仕えることになるのです。だから、パウロは言うのです。「わたしたちは
今後、だれをも肉によって知ることはすまい。」「だれをも」です、クリスチャンの相手とか教会で会う人とかだけでなく、だれをも、この世のありとあらゆる
場で出会うすべての人を、「肉によって知ることは決してしない」というのです。「知る」というのは、「見る」ことを含む、相手のことをあらゆる面で認識し
評価するすべてのことを指します。「キリストの使者」「和解の福音の使者」は、「新しく見る」ことによって生きるのです。
なぜ「新しく見る」ことができるのでしょうか。なぜなら、イエス・キリストが来られたからです。そして「ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死
んだ」からです。「ひとりの人(イエス・キリスト)がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだ
のは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」このパウロの言葉は、とてつもない
ことを語っています。「イエス・キリストがすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだ」なんて。その意味は、きっと「すべての人にとって、今まで
の古い生き方、『肉によって人と物事を見、その見方に基づいて生きる』
という生き方は終わった、終わってしまった。それによって『古い生き方』で生きる『古い人』『古いあなた』は死んだ」という意味だと思います。それに伴っ
て、すべての人にとって、新しい生き方、全く新しい生き方が、イエス・キリストによって始まった。「生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のた
めに死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」どうしてそんなことがあり得ましょうか。
なぜならば、、このことが起こったからです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」。この言葉は文字通りにはこうです。
「ある人が、ある物、ある事が、誰でも何でも、キリストにあるならば、新しい創造(である)!」一人の人が「新しい者」となるというだけではない、「新し
い創造が起こった」のだというのです。聖書で「創造」と言ったら、「天地創造」つまりこの世界がかつて神によって創られたことです。だから、「キリストに
あるならば」、イエス・キリストが来られた以上、新しい世界が創られ、新しい世界が始まった、この世界そのものが新しくなった、だからすべての人もまた新
しくなったのだ、とまでパウロは言っているのです。
このことを知ったいや知らされた以上、このことを信じ、このことによって生かされている以上、「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることすまい」とパウロは言い切るのです。では、どのようにして人を見るというのでしょうか。
何よりも、だれをも、どんな人をも、「神との和解を受けた者として」見るのです。神様とその人との間に、もはや何のわだかまりも破れもそして断絶もなく
なりました。神様からその人までまっすぐに道は通り、伸びています。神はその人を愛と真実をもって呼び、招いておられるのです。その人が神様を求めるな
ら、その声はまっすぐに神様に届くのです。
そして、「キリストによって全く新しく創られた者として」見るのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過
ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」クリスチャンはもちろんです。完全に属するもの、属するところが変わり、全く立場・方向性・生き方が変
えられてしまったのです。まだクリスチャンでない人も、すべての人がこの約束と招きの中に置かれています。「私にだけは望みはない、私だけは変わりようが
ない」という人は、一人もいないのです。
だからそれは、だれをも、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかた(イエス・キリスト)のために生きる」という、新しい生き
方・道へと呼ばれ、招かれ、導かれているのだと見るのです。自分や他のクリスチャンには、そういう歩みに向けて励まし合い、そしてまだ信じていない人にも
確信をもってこう伝えることができるのです。「あなたのために死に、そして今あなたのために、あなたと共に生きる方がおられる!」
「新しく見る使者」として、「和解の福音の使者」として生きる、それは何か大層なこと、特別なことでありません。私たちは、「キリストと共に新しく見
る」、ここから始めるのです。「わたしたちは、福音がもたらすヴィジョンに立ち帰らなければなりません。―――それは、私たち人間は一つになることができ
るという約束です。それは、一致と平和と受容というヴィジョンです。それは、人と人との間にあり、そして集団と集団の間にもある壁は崩れていくという約束
であり、しかも、力づくでそのことが達成されるのではないという約束です。―――イエスが抱いておられたヴィジョンは、世界中に散り散りになった神の子た
ちすべてを一つにすることでした。神は、恐怖と分裂という壁をおつくりになることはありません。イエスが抱いておられるヴィジョンは、共に対話し、共に出
会うことによって、この分裂が癒されていくということを、わたしたちに見させるものなのです。」(ハワーワス、ジャン・バニエ『暴力の世界で柔和に生き
る』より)
「新しく見る」、私たち教会に連なる者たちは、何よりまず信仰者・クリスチャンお互いについて、そのように見、考えることを日々学び、歩むことが、恵み
によって求められているのではないでしょうか。「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラ
テヤ6・10)そしてさらに「だれに対しても」、「肉によって知る」ことをもはやせず、「キリストにあって」見、知ることを始めさせていただきたいと思い
ます。福井達雨先生は、こう語られたそうです。「先生は、止揚学園の子供を、アホ、バカとか、ゴクツブシ、役だたない人間、生ける屍、というように、目に
見える現象面的、肉体的な見方をされているような気がします。しかし、わたしは、この子供たちを、目に見えないキリストに与えられたたいせつな生命、この
本質をもった、ひとりの人間として見ています。」(福井達雨、同上)「キリストにあって出会い、新しく見、知る」、この第一歩から「キリストの使者」とし
ての働きと歩みが始まるのです。
(祈り)
天におられる私たちすべての者の神、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
あなたは主イエスによって、私たちまたこの世全体と既に和解してくださいました。この驚くべき御業、その恵みを心より感謝し、御名をほめたたえます。そればかりか、その和解の福音の使者として、なんとこの私たちをも呼び招き、立て用いてくださいます。
どうか私たち教会とその一人一人が、キリストにあって新しく見る使者として、それぞれの場、この世に隅々に至るまで、あなたによって遣わされて生きることができますよう、今週も支え、助け、導いてください。
まことの道、真理また命なる世の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。