すごい慰めがわれらと共に
コリント人への第二の手紙第1章3〜11節
皆さん、聖書にはすごいことが書かれているのです。そのことをまず知っていただきたいと思います。「当たり前の」「常識的な」ことが書かれているのではな
くて、すごいことが書かれている。けれども、時々、「いや、待て。本当にそうだろうか?」と思ってしまうことがあります。それは、その「すごいこと」が余
りにも大きく、全てを包むほどに包括的なことだからです。
このパウロの手紙は、まず神への賛美から始まります。「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。」何
か決まり文句の挨拶のようですが、決してそうではありません。この「慰め」というのがすごいのです。こうあります。「神は、いかなる患難の中にいる時でも
わたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてく
ださるのである。」
何が「すごい」と言って、ここには「いかなる患難」「あらゆる患難」とあることです。「いかなる患難」、どんな患難、どんな苦しみ、どんな悲しみ、痛
み、そういう中でも、神は慰めをもって慰めてくださる。まさに「すごい」ですね。でも、これも、「本当だろうか」と思うかもしれません。「たとえ神様で
も、いかなる患難というのは難しいのではないだろうか。」それは、私たちの不信仰でしょう。でも、そういう思いはあるかもしれません。まあ、それでも、神
様なんだから、それは「いかなる患難」でも大丈夫でしょう。
しかし、その次に書いてあることは本当にすごい。「また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰める
ことができるようにしてくださる」。ちょっと待って。今度は「わたしたち自身」です。この「わたしたち自身」が、「あらゆる患難の中にある人々を慰めるこ
とができる」だなんて。今度は、いくら何でも、「本当だろうか」「いくらなんでも無理だろう」と思うのではありませんか。「わたしたち自身」というのは、
神様に比べたら、いや、比べものにならない、比べることも許されないほど違う、弱く、頼りなく、そして不真実な存在です。そんな私たちが、人を慰める、し
かも「あらゆる患難の中にある人々を慰めることができる」、「そんなばかな」と思うのが当然ではないでしょうか。しかも、聖書が「いかなる」「あらゆる」
と言ったら、本当に「いかなる」「あらゆる」なのです。何の、どんな例外も、条件もありません。すると、ますます「これは絶対無理だろう」と思ってしまう
のです。
しかしながら、同時に、私たちは「いかなる患難」「あらゆる患難」というものを知っています。いや、日々に、事ごとに知らされています。この世には、本
当に言葉で言い表すことも、真に理解し受け入れることもできないほどの「患難」、苦しみ、不正、不条理、それによるうめき、叫び、絶望というものがありま
す。そして、「この世」というような大きなことを言わないでも、教会一つを取ってみても、そこには「いかなる患難」「あらゆる患難」というものが垣間見え
てきます。教会には、「これはちょっと、いや大いにだめだろう」という事柄が起こり、人がやって来るのです。私の乏しい牧師としての働きの中でも、「もう
この人は助けられない、もう無理」と思ってしまうような幾人かの人や事柄に出会ってきました。
パウロ自身も、すぐ後の所で言っています。8〜9「兄弟たちよ。わたしたちがアジヤ出会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、
耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し」たと。また別の箇所では、もっと詳しくこう語っています。「苦労した
ことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足
りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこと
もある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ
夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ご
とがある。」(Uコリント11・23〜28)パウロもまた、いやこのパウロこそ「いかなる患難」「あらゆる患難」を知っていたのです。
しかし、それでも、パウロは、聖書は言うのです。「神はいかなる患難の中でもわたしたちを慰めてくださる。そして私たちも、その神の慰めをもってではあ
るけれど、この私たちも、あらゆる患難の中にある人々をも慰めることができるようにしていただける。」これは本当に、「本当かしら」と思ってしまうほど
に、「すごい」ことではないでしょうか。もし本当にそうだとしたら、それは「なぜ」なのでしょうか。また、それは「どのように」可能とされるのでしょう
か。
それを知るために、5節の言葉は特に大切で、かぎとなる節です。「それは(その理由と方法は)、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」
まずパウロは言います、「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれている」。これは、決してそのまま読み過ごせるような、当たり前の言葉ではありませ
ん。「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれている」。そんなばかな、「キリストの苦難ではなく、そうではなくて、私たちの苦難がそこらじゅうに満ちあ
ふれている」、これが私たちの偽らざる実感であり、思いであり、体験です。私たちが苦しんでいるのだ、この私が苦しんでいるのだ、そしてこの世のすべての
人々が苦しんでおり、この世全体が苦しんでいるのだ、「私たちの苦難が満ちあふれており、この世の苦しみが満ちあふれている」。
しかし、パウロは言うのです、「そうではない」と。「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれている」。これはいったい、どういうわけでしょうか。何よ
りそれは、キリスト、イエス・キリストが、私たちが生きるそこここに、共におられるということではありませんか。イエス・キリストが、この世に満ちあふれ
るようにして、いてくださる。イエス・キリストが私たちの間に、満ちあふれるようにして、いてくださる。イエス・キリストがこの私と共に、満ちあふれるよ
うにして、いてくださる。それは、「苦難を負った方」としてです。イエス・キリストが「苦難を負った方」として共にいてくださる。私たちのために十字架を
負い、死に至るまでに愛してくださった方が、ここに、この私たちのただ中に、この世のただ中に満ちあふれるようにして、いてくださる。しかも、かつて「苦
難を負った方」というだけでなく、今も「苦難を負う方」、私たちの「苦難」、「患難」、「いかなる患難」「あらゆる患難」をも、私たちのために、私たちと
共に負っていてくださる方として、共にいてくださる。それゆえ、それはすべて「キリストの苦難」なのです。私たちの経験する「いかなる患難」「あらゆる患
難」は、キリストもまた、いやキリストこそが共に負っていてくださる、「キリストの苦難」となるのです。だからこそ今、パウロは言うのです。「キリストの
苦難がわたしたちに満ちあふれている」。
それに続けて、パウロは言います。まさにそのように「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれている」からこそ、「わたしたちの受ける慰めもまた、キリ
ストによって満ちあふれている」。なぜなら、イエス・キリストこそ、死に打ち勝ち、罪と悪に勝利したお方だからです。イエス・キリストこそ、復活の命に生
きておられる方だからです。私たちの苦難、私たちの「いかなる患難」「あらゆる患難」をも負った方が、死んで、復活し、勝利してくださったからには、この
お方は、本当に「いかなる患難」「あらゆる患難」においても私たちを慰め、私たちを助け、私たちを立ち上がらせてくださるのです。
イエス・キリストは、私たちに言われます。「わたしはよみがえりであり、命である。」その意味はこうだと言うのです。「わたしは立ち上がらせ、生か
す」。「わたしにとってこれほど力強い励ましはありません。私たちの人生にはいいこと、悪いこと、さまざまあります。―――何度も何度も予期せぬ災難、不
幸、失敗にみまわれ、失望し、落胆し、悲嘆に暮れ、絶望の中でもがき苦しむ。これが人生というものです。そんな時、人は生きながら死んだようになります。
喜びも望みも安らぎも断たれ、生きていることさえも呪わしく思われます。―――人生の重荷に疲れはて、生きているのに死んでしまったようにぶっ倒れ、息も
絶え絶えになっている人を、イエスは立ち上がらせます。その力強い手でグイと肩をつかみ、『おい、元気出せ。さあ、立ち上がれ。俺がついているぞ!』と
いって、ひっばり起してくださる。 冷たい雪とまっ黒な泥濘におおわれた見渡す限りのがれきの野を前にして、呆然と立ちつくす私の肩をがっちりとつかん
で、イエスはいいます。『おい、元気を出せ、この生き死人め。この俺は死んでもまた立ち上がったのだぞ。その俺がついているんだ!さあ、涙をふけ。勇気を
出して、いっしょにまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、そら、見えるだろう。」(山浦治嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』より)
そして、この「慰め」は、私たちが一人占めする慰めではありません。イエス・キリストが他者のために苦難を負い十字架の道を歩まれたように、その「キリ
ストの慰め」は、ただ私たちだけのところにとどまっていないで、他の人々のところに手渡され、伝わって行こうとするのです。パウロも最初に言いました。
「わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださる」。「私たち自身の慰め」
ではありません。私たちの気持ち、私たちの言葉、私たちの力でありません。神の慰めです。私たちが神様によっていただき、慰めていただいた、「キリストの
慰め」です。その「キリストの慰め」をもって、私たちも他の人を慰めることができるように「して下さる」、私たちがするのではありません、神様に「してい
ただく」のです。
このことをパウロは、具体的に、コリント教会の人々との関係において語ります。「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためであ
り、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。」まず
「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためだ」と言います。これを理解するキーワードは、「キリストにあって共に」だと思いま
す。もし私たちが「患難」苦しみにあうなら、私たちは「苦しむ者」として、しかも「共に苦しむ者」として、あなたがたに出会い、あなたがたと共におり、あ
なたがたと共に生きることができる。なぜならそれは、ちょうどキリストが私たちの苦しみを負ってくださったのと同じようにだ。だから私たちは、いっそうよ
く、「あなたがたの慰めと救いのため」に仕え、働き、生きることができる。
まして、私たちが「慰めを受けるなら」、ほかでもない「キリストの慰め」を受けるなら、それをそのままにあなたがたに手渡し、伝え、それをあなたがたと
分かち合うことができる。また、その「キリストの慰め」は、あなたがたのうちで働いて、あなたがたを苦しみに耐えさせ、そればかりでなく、さらにあなたが
たもまた、他の人を同じように慰める者とされて行く。
だから最後に、パウロは確信をもって言うのです。「だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたし
たちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。」キリストの苦難と慰めがいつも私たちと共にある、これ
が私たち教会が生きる交わりなのです。「すごい慰めがわれらと共に」あるのです。これが私たちの生きる力であり、希望なのです。そして、これが私たちがこ
の世に向けて、そこに生きるすべての人に向けて伝え、実践し、共に生きて生きて行きたいと切に願う道なのです。
(祈り)
天にまします我らの父よ、御子イエス・キリストによって私たちすべてのものを極みまで愛された神よ。
イエス・キリストが、満ちあふれるようにして、私たちと共にいてくださいます。「いかなる患難」「あらゆる患難」の中でも、満ちあふれるようにして、私
たちと共にいてくださいます。「苦難を負った方」、今も私たちの苦難を共に負っていてくださる方として、満ちあふれるようにして、イエスは共にあられま
す。だからこそ、キリストの慰めもまた私たちのただ中に満ちあふれています。
この幸いな命の交わりの中に置かれ、共に生かされていることを心より感謝いたします。どうかますますこの道に共に生きて行く一人一人また教会としてくだ
さい。また、「共に生きる」ことに悩み、苦しんでいるこの世とその人々に向けて、この道を指し示しつつ、この道に共に生きて行くことができますよう助け、
導き、お用いください。
まことの道、真理また命なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。